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shinnjiteru51 51.
経済改革以来、投資先として魅力的な成長振りを見せるお隣の中国は、大きなスポーツ・イベントで注目を浴びたけれども、豊かな伝統文化の国でもある。
そこで、我がグループも中国の宝飾界に着目し、同国で開かれた見本市で目立っていたブースに目をつけ、その加工技術・消費動向・世界への発信について語ってもらうインタビューをいくつか企画した。
記事となる内容の事実確認のため、PCとにらめっこし、切りのいいところでスイッチをオフにした時だった。
「おい、牧野!こら、何をのんびりしてる!
早く片付けて、帰れよ!」
キャップが受話器を下ろしながら立ち上がり、私に向かって怒鳴るように言った。
「は?どういうことですか?」
キョトンと間抜け面で答える。
「何をやってんだ、お前は全く・・・。“あの方“がお待ちだぞ。」
「あの方?」
「ぐずぐずするな。すぐに向かわせると返事したから、急いで行けよ。」
「?」
「呆けた顔して、お前、わかってんだろ?」
「あの方って、もしかして、ここを紹介してくれた・・・。」
「あの方と言えば、花沢さんに決まってるだろ。
他に誰がいる?
たった今なあ、あの方から“牧野はそんなに仕事が大変なのか?”って、俺への当て付けみたいな電話が入ったぞ。
冷や汗かかしたいのか?
頼むから、花沢さんだけは待たせるなよ、鬼上司みたいじゃないか~。」
「マジですか?」
この大手出版社は花沢物産の関連会社であり、道明寺に置いて行かれ、ぽつねんとしていた私に、類がここを紹介してくれた経緯がある。
うちのキャップは仕事も出来て、人望も厚い上司なのだけれど、良きパパであり家庭人でもあるわけで、切れ者の実力者と評判の花沢物産次期社長という権力の矛が自分に向かってくるのだけは、死んでも避けたい様子で気の毒な程のあわて振り。
おい、ぐずぐずすんな。約束してたんだろ?→そんなのしてませんよ。→花沢さんは、そういう口ぶりだったぞ。→はいはい、だいたい聞かなくても分かりますけどね、約束はしてませんから。→約束なんかどうでもいい、おい、とにかく早く行け!→類、なんで急に来るかな~?ホントに勝手なんだから。→そんな事、俺は知らん!とにかく急げ!→それで、どこに行けばいいんですか?→下だろ。そんなことくらいわかるだろう?→わかるわけないでしょうが、神様じゃないんだから・・・。
ってな子供じみた応酬が続き、口の中の文句がスッキリ出ずモゴモゴしたまま、ポイっと放り出される形でビルの外へ出た。
時刻は、まだ夜の7時。
けれど、そこで待っていたのは遊園地のアトラクション並みに、ビビらされ、しばしフリーズさせられる光景だった。会社のビルを出ると、冷蔵庫のような冷気が火照った頬に気持ちよかった。
目の前の歩道には、どうしたわけか一箇所、歩行者が膨らんで通行している箇所があり、何人かの女の子たちはそこで立ち止まり、携帯を取り出しカメラのレンズを向けている。
また、ドラマの撮影かな?
この銀杏並木では、たまに撮影が行われるのだ。
そう思いながら、その人垣を進むと、私の足もピタリと止まってしまった。
中央には、ガードレールに腰掛けて、見上げながら何やら話している花沢類がいるのだ。
グレイのトレンチ風コート内側にはボアが見え、コート下には背広と白シャツ。
ボタンは2つはずされ、鎖骨の窪みがはっきり見える、けれども、代わりにハリーポッターのように長いストライプのマフラーがアクセントとして巻きついている。
あいかわらず、後頭部で髪を束ねたポニーテール・スタイルで、真冬のこの時期、ぜいたくこの上ない小麦色の肌が目に付く。
そして、もう一人。
類の前に立っていた長身の男は、まるで毛布のように長く大きい黒いロングコートを厭味なく着こなしていて、見事にプレスされたズボン裾とピカピカの黒靴は輝くようだ。
強い巻き毛のその男は私に半背を向ける形で立ったまま、類を見下ろしながら耳を傾け聞いていた。
顔は見えないけれど、全身から溢れ出るオーラは健在で、その人並みはずれて華やかな美貌が損なわれてないのは疑う余地も無い。
二人は、ただ道端で朗らかに談笑しているといった光景なのだけれども、この二人の醸し出す雰囲気といったら圧巻で、側に立つ冬枯れの木も、珍しい黄金色の幹をした舞台背景に見えそうだから怖い。
“日本経済を引っ張る麗しき若き獅子、何やら語り合う“
ってコピーが浮かび、職業柄、写真付きなら結構な数字になるだろうと嫌らしい考えが浮かぶ。
大げさかもしれないけれども、そこだけ別の空間で完成された映像の一コマで、観客の心を掴む魅力満載のシーンとなっている。
けれども、自分たちがどんなに目立っているのか、これっぽっちも女性(ヒト)の目を意識していないことは、私には真理と呼べるほど分かりきっていた。
今、話してる内容だって、女の子の話なんかじゃ絶対ないはずで、
類は道明寺語録に突っ込み入れてるだけかもしれないし、少し大人になった道明寺のリアクションをからかっている程度と想像つく。
「あんた達、ここで何してんの?!」
色気もクソも無い捨て鉢なトーンが、瞬く間に完成されたきれいな映像をブチ切りした。
久しぶりに会う友人に向かって、他にかける言葉を思いつかなかったのか?
でも、本当にそれしか浮かばなかったのだ。
私の声に振り返った道明寺の視線が、驚きからすぐに違う色に変わり、しばし私の身体の上を彷徨う。
長い睫毛の奥の方から、あらゆる変化を吟味されているようで、ゾクゾクとした。
そして、類もニッコリ微笑みながら、手を振るでもなく静かに私をじっと見つめていた。
ギャラリーからの突き刺さるような視線を受けて、二人の所まで近づき立ち止まる。
そして、巨木のような道明寺を見上げて黙り込んだ。
「おう、牧野、久しぶりだな。」
その表情には、無謀さの代わりに年齢に合った落ち着きと丸さが加味されて、昔見た道明寺の照れよりずっと重く抑えた印象を浮かばせていた。
「道明寺・・・。でも、なんでここにいるの?」
答えを想像し、自ずと、少し緊張する。
「司も牧野とご飯食べたいんだってさ。」
横から類が代わりに答える。
「おい、そんなこと一言も言ってないだろ!
通りすがりにお前がこんな所に座ってんのが見えたから、挨拶しにきたんだろうが。」
「へえ~、じゃあ、もう帰る?挨拶なら、終わってるけど?」
道明寺は、私に向き直り口を開く。
「牧野、ホントに久しぶりだな。
元気そうじゃねえか。
ここか?お前の職場。」
「うん。このビルの中。」
「なあ、牧野、友達ならいいんだろ?
3人で飯食うなら、抵抗無いか?」
遠慮がちな提案はビックリするほどの気遣いようで、どうやら、道明寺はゼロ地点に立ち返ってみるつもりらしいことが伺える。
どのように考えてのことなのか、詳しくはわからない。
とにかく、昔のような強引さは一切感じられず、私の警戒レベルがスッと下がって穏やかな受け入れが出来そうだ。
でもさ、ちょっと待てよ。
「ちょちょ、ちょっと、私は今日、類とも約束なんてしてなかったでしょ?
だいだいね、類!勝手に職場の上司に電話してきて脅すなんて卑怯だよ、今晩の食事の予定も勝手に決めないでよね。」
「牧野、ダメなの?」
類も道明寺も、とたんにしゅんとして可愛らしく返事を待っている。
「う~ん、どうせ、残業くらいしか予定無かったからいいけど。」
私も私。
なんで、こんなに甘いのだろう。
「じゃあ、一緒にご飯食べようよ。久しぶりに。」
類はあいかわらずのペースで、まあ、なんだか嬉しく思えるのだから不思議なのだ。道明寺と話すのは、一年ぶりだった。
その間、どんな風に暮らしているのかさえ、一切知らなかったわけで、何はともあれ道明寺が元気にここにいて、穏やかな精神でいることに少し安心もする。
友人として道明寺と語り合えるのは、私は二人の最終目標だと思ってる。
「ちぇっ、やっぱり、来るの?」
拗ねた口ぶりの類が立ち上がり、それから道明寺に行き先などを手短かに伝えた。
道明寺は、仕事を片付けてからの合流らしい。
道明寺は偶然、類を見つけて、車から降りて挨拶だけのつもりだった。
けれど、職場前で(勝手に)私を待っている事を聞き、道明寺も急遽参入しようと思ったらしく、なんだかんだと言って一緒に待っていたようだ。
類のように道明寺だって晴れて帰国したのだし、挨拶だけでも連絡できただろうに、不器用なところがある道明寺は、振られた男がどんな話をすればいいのか、わからなかったのかもしれない。類に連れられて行った懐石料理のお店。
「類とも久しぶりだよね。あいかわらずの日焼けだけど、あっちは暑いの?」
「まあまあの穏やかな気候だよ。一応、冬だし。
雪は降らないけど、日差しはあるよ。」
雪といえば、金沢の静かな景色が浮かんできた。
「牧野、周とは?」
突然、話を振られて、ただ首を横に振って答えた。
類には、西門さんが金沢に行くまでのことを、大まかに聞いてもらっていたので、離れていても話が通じる。
「あのさ、類。
西門さんの居場所、わかったんだよ。」
「それ、誰から聞いた?」
その薄茶のガラス玉のような瞳をグッと向けて、少し真剣な表情になる類。
とそこへ、仲居さんの声が響いた。
“お連れの方がお見えになりましたぁ。“「あっ、そうだ、司はさ、日本に帰って来るんだよ。」
「え?そうなの?」
「うん。
日本の本社勤務だって。
俺も、もう少し日本に長く居られるようになると思うし。」
そこには、あの非常階段で見てた柔らかな白い光のような類の微笑が、時を経ても変わらずにあった。それから、道明寺が加わり、再び乾杯から始める。
「道明寺、日本に帰ってくるって本当?」
「ああ、8年ぶりの東京だ。」
「また、あのお屋敷に住むの?」
ふさわしくない質問のような気がしたけど、なんだか聞いてみたかったのだ。
「多分、そうなるだろうな。
部屋は当時のままだ。」
もし、記憶のアルバムがあるのなら、一番クリアで濃い色なのが道明寺の東の角部屋の写真だ。
光具合や香りまでを写し撮っている特別バージョン。
いろんな想い出が蘇り、目の前には道明寺本人もいて、なんだか胸が熱くなる。
少しづつ紐解くように、お互いの仕事の話から始まり、やがてプライベートの話へと移って行った。
「それで、総二郎のいる場所、誰から聞いたの?」
途切れた会話の続きをしてきた類。
類も、固く口止めされ黙っていたのだから、気になって当たり前。
男同士のプライドをかけた約束があったことに気付くのは、ずっとずっと後になってからの話で、この時は、私はまだ口止め程度にしか思っていなかった。
「総二郎がどうした?」
トーンが変わったことに、道明寺が気付いたようだ。
「司、総二郎の事故のこと知ってる?」
「総二郎が事故だと?ひどいのか?」
そして、類が淡々と今までの経緯を道明寺に話して聞かせた。
「嘘だろ。本当に、歩けないのか?」
幼馴染の不具を初めて聞かされ窮境を想像し、ショックを受けた道明寺。
眉間に縦皺を寄せ、どうにもできない悔しさを噛み締めているようだ。そして、私は何度も会いに行ったけれど、会えなかったことを伝え、それでも負けずに納得するまで会いに行くつもりでいること。
そして、私は自分の気持ちに気付いたこと。
西門さんが好きなのだと、二人の前で宣言した。
つづくPR -
shinnjiteru52 52.
『類、やっぱり気付いてたんだ・・・。』
北陸本線を走る列車は、雪景色の中、その懐に乗客をしかと抱えながら快走する。
湯たんぽのように温かな座席に座り、彼らF3のことを思い出しながら、和やかで幸せな気持ちに浸っていた。
「やっと言えたね。」
類が言った第一声がこれ。
西門さんに惹かれていった私の気持ちに誰より先に気付きながら、励ますでもなく、からかうでもなく、決して急かすことなく、今なおそっと見守ってくれている。
「類、知ってたの?」
こう聞いた私に返ってきたのは、私の大好きな微笑み。
それプラス、「わからないでどうする?」とでも言いたげな眼差しだった。
『そうだよね・・・。』
誰より類は、安心できる存在だった。
類がUAEへ行くことになる前から、私が西門さんへ恋する前から、いや、道明寺とのことで悩み苦しんでいた以前から。
ううん、私たちが出会った英徳時代からずっとそうだ。
多分、声に乗せなくても、私の中から出るいろんな表現が類にはバジバシ伝わっていたのだろうと思うと、なんだか申し訳なくて、類の気持ちを思うと切なくなる。
気付いていたのに、どうしてそんなに平気な顔が出来ていたのだろう?
でも、類って人は・・・、言ったことは守るんだね。
改めてそう感じながら、あの日、類と交わした会話が思い出され少し胸が苦しくなる。
あの人の感情表現には誰もが少々の疑問を感じるだろうけれど、近くに居ながら、ちっとも気付かせないなんて、ホント見事すぎて畏怖の念さえ感じるよ。
私なんかより、ずっとずっと繊細なのに強い心を持ってるんだろうな。
私にはもったいないような・・・友人。
あの日、どうして類の気持ちに応えられず、そして、また別の男性(人)にこうして恋してしまったのだろう・・・。「お前、今度はしっかり話すじゃねえか。」
道明寺のテノールが響いた。
「え?」
「ん?」
道明寺の眉毛が動く。
「はい?」
「くくっ、思い出せねえんだったら、それでいいけどよ。
俺はあの時の感激を、多分一生忘れられっこねえな。」
「何よ、それ。」
「昔、あきらん家で浴衣着て集まったろ?
お前、あの時、みんなの前で言ったろ?
俺のことが好きだって。
ふっ、ガッチガチになりながらも真っ直ぐに言い切ったお前の顔、くっきりはっきりココに残ってるぜ。」
人差し指をこめかみに当てながら、微かに笑っているように見える。
「・・・道明寺。」
「まあ、青春の思い出だ。」
思い出と・・・?
ああ、道明寺にもちゃんと時が流れていたんだ。
なんだか勢いで、西門さんが好きだと宣言してしまったけれど、まさか、道明寺にこんな風に柔らかく受け止めてもらえるとは想像もしてなかった。
離れていても、私たちはずっと変わらないと一途に信じながら、背を向け飛行機に消えていった道明寺が、私の心変わりを知った時、激昂し混乱し苦悩もし、なのに今、ここで穏やかに顔を突き合わせ話をしているのだ。
あの血の気の多い道明寺が、どうやって気持ちを静めたのか想像するのはつらいけど、確かに道明寺は私達のことを過去のものとして消化している。
半ば一方的に清算を告げた私は、どこかでずっと、道明寺が納得してくれますようにって願い続けていたんだと思う。
それは、私のエゴであり、うぬぼれであって、道明寺はそれよりずっとずっと大人だった。
類と同じようにここに座り、私達のことを昔話にすりかえながら、取りも直さず、私のことをとても大事に思ってくれているのがわかる。
二人揃って、どうしてあたしなんかに優しくするの?
「あんた達、ホントにおかしいよ。なんていうか、・・・けったいな奴ら・・だよ。」
今、私には越えなきゃならない壁がある。
それは、強固で高くて、理屈で考えれば無理なのかもしれないし、何度トライしても、跳ね返されるのが関の山かもしれない。
立ち上がりまた向かおうと力む私は小さなピョンピョンガエルみたいなものだけど、
そんなチッポケな私を、包んでくれる二人を前に、申し訳なくて、有難くて、嬉しくて・・・、鼻の奥がツンとして涙がこぼれ出た。「お前、何泣いてやがる?」
「あ~あ、司、牧野のこと泣かしちゃった。」
昔、道明寺も類も、私の笑顔が大好きだと言った。
だから、私は飛び切りの笑顔を見せたいと思う。
涙に濡れた泣き笑い顔でも、きっと私の笑顔なら喜んでくれるよね?
それこそ、うぬぼれかもしれないけど、私ができるお返しはこれしかないから。
一瞬、道明寺も類もつられたように、少し口元を綻ばせた。
「ま~きの。鼻水出てる。」
「うそっ?」
涙声の変な声が出た。
「クスッ、嘘だよ。」
「もう~、類!」
言葉にならない懐かしさがこみ上げる。そんな類と私を、向かいの席で見守っていた道明寺が、突然、割って入ってきた。
「お前ら、さっきから気に喰わねえって思ってたんだが、なんで隣同士で座ってんだよ!」
「へえ?」
「俺はこっち側に一人じゃねえか。」
「司、クスッ、子供みたい。
牧野、司の方に座ってあげたら?
俺は、そっちの方が牧野の顔が見えて良くなるからさ。」
「はあん?そしたら、俺が牧野の顔が見えなくなるじゃねえか?」
「じゃあ、牧野にあそこのお誕生日席に座ってもらう?」
「プッ!おかしいでしょうが、そんなの。」
「そうだ、類、お前が誕生日席に行け!」
「司は後からきたんでしょ。行くんなら、司でしょ。」
いつの間にか、英徳高校時代のように幼稚な言い合いが、ギャーギャーと続く。
でも私は、類も道明寺もわざとそれを楽しんでいるんじゃないかと思った。
無邪気な頃が懐かしくて、半分、ふざけて揚げ足を取り続けていたのじゃないかと。その後、道明寺が場所を変えると言い出して、向かったのはメープルのバー。
「あきら、呼ぶ?」
「類、それはいいね。じゃあ、私、電話してみるよ。」
そうして、急遽の誘いにもかかわらず、道明寺帰還のプレ祝いを兼ねて駆けつけてくれた美作さんと合流した。
仕立ての良い幅広ストライプの入ったダーク・グレイのスーツに淡い菫色に水色を足した微妙な色のシャツ、絶対海外ものだと思う。
濃紺系のネクタイでキリリと引き締め、色気と精悍さを発散させながら美作さんが現われると、近くの客の視線がいっせいにそっちへススーッと動いた。
メープルのバー・チェアに私を挟んで腰掛けていたF2も振り返り、それぞれ右手で拳タッチし、破顔しながら馴染みの挨拶を交わす。
そして、美作さんはおまけのように私の頭にも拳をチョコンと乗せた。
「よぉ、牧野。」
「美作さん、待ってたよ!」
「俺、ここ?」
道明寺の横の空席を示しながら、美作さんが聞く。
「・・・。」
無言のF2。
「・・・だよなぁ。まあいいさ。お前ら、牧野と久しぶりだもんな。」
「え?あきらは牧野と時々会ってるの?」
「いや、類、ただの言葉の綾だ。
俺は、お前らより日本に長く居るということだけだから、そう妬くな。
なあ、牧野、俺らも久しぶりだよな。」
「うん、そうだよ。
年末に1回、ランチして以来だよね?」
「おお、あの時は時間がなくて悪かったな。
誕生日祝いとは名ばかりのビジネスランチで。」
「おもしろくねえ・・・。」
小さく吐くように言う道明寺は、昔のように吠えたりしない。
水滴が一滴落ちれば、ポトっと着地する音に敏感に反応し、逆立つことの多かった道明寺が、今はその広がる様を眺めながら意見すると言ったところだろうか。
「あれは、偶然だったんだよね?
歩いてたら、美作さんの車が横を通って、ランチに連れて行ってくれたのよ。」
「総二郎のこともあったから、誘ったわけ。
俺は、それだけだから。」
「俺だけが、何も知らなかったという訳だ。
やっぱり、おもしろくねえな。」
「司は、仕方ないでしょ。
牧野に振られて、いじけてたんだから。」
「ツッ・・・。」
「まあまあ、会うなりそう突付き合うな、お前らは。
とにかく、司の帰還に乾杯しようぜ。」
そして、私達は各々違う名前の液体を手に取り、空高く乾杯した。楽しい時間はあっという間に過ぎ行くもの。
F3はまだまだ話足りない様子だったので、私だけ先に帰るとチェアから下りると、それからあの三人は
ホントにおかしかった・・・クスッ。
思い出しただけでも、笑える。
三人ともが、自分の会社のハイヤーを使うように言い張り、一歩も引こうとしなかったからだ。
あれは、私をオモチャにして絶対に遊んでたな。
そんなF3を席から離れて見ていると、さっきまで、自分がこんなに楽しく幸せな絵の中に座っていたのかと信じられない思いがして、ならば、ずっとずっと気付かないままその中に居たかったと思った。
四つ並んだバー・チェアが一つ空いて、ライトに照らせれ、ドラマチックな姿を見せる。
本来あそこには、黒い革ジャンと正絹の着物どちらも着こなす色男、腹が立つほど引き寄せられて仕方ない私の一番会いたい男がクールに座っていたはずなのに、金沢なんかに行っちゃって、その絵がいつまでも完成できないことに腹が立った。
もし、ここに居てくれたら、今日という日が最高に忘れられない嬉しい日になっていたはずなのに。
そこに居るべき人物は、幾重にもその残像を寄越しては、つかめそうでつかめなくて、泡のように消えていく。
不覚にもまた鼻の奥がツンとしてくる。
ヤバイ、歳のせいかな、私ってすぐ泣くヤツじゃなかったはずだよ。
クスッ、
三人はペーパー・ナプキンの上で阿弥陀くじを始める。
本当にけったいな男性(ヒト)達だ・・・。
皆、とっても楽しそうに笑っていた。
私はボーッと、どこか遠くの絵を見ている気がした。
そして、突っ立ったまま、視界が揺れていくのをどうしても止められなかった。
つづく -
shinnjiteru53 53.
間違ってないよね ・・・ サン イチ ロク 。
何度鳴らしても、反応なし。
留守なのか、それとも、会いたくないという意思表示なのか?
呼び出し続けて20分が経過。
ふんばれ、つくし!と自分を鼓舞して、あと30分待ってみて再度押してみることにする。
そんな私をマンションの住人が訝しげに見ながら通り過ぎて行く。
友人のお見舞いに来たのですが・・・とでも言えば、若い女の待ちぼうけに同情し、もしかすると中へ入れてくれる親切な人が居るかもしれない。
けれど、目的は西門さんと対峙して話をすること、そんなズルをすれば、最初の立会いから私は不利になりそう。
ショートカットは考えず、待つことにする。
午前保育が終わった幼稚園児が青い長靴をパコパコさせながら通り過ぎる。
その青みがかった白眼が印象的な男の子、吸いついて来るような視線に小さく微笑み返した時だった。ふと影を感じ、振り返ると、待ち人が視界に入る。
ようやく会えた。
けれど、一人ではなく、車椅子に乗っている西門さんの側には、肩までの茶髪を内巻きにした若い女性、二人して一緒に自動ドアを抜けて来るところだった。
瞬時に、私を凝視する西門さんの視線と絡み合い、歓迎しない表情が私の勢いを急凍させ、挨拶の一言まで凍らせる。
「待ち伏せか。」
「え?」
「何しに来た?」
「あの・・、会いに・・・。」
重い空気が二人の合間を白々と漂う。
外の空気より冷たい瞳で睨まれて、全身が緊張で強張った。
雪はこの区切られたスペースで温められ蒸気に変わり、ゴムの匂いと混じりあい、ひどい湿気の塊りとなり襲ってくる。
「あの・・、西門さん、話があるの。」
その言葉に片方の眉を少し上げ反応する西門さんは、不快さを露わにひどく無関心な表情で、西門さんに対して初めて怯えのようなものを感じた。
「ハアー、牧野、俺のことは放っておいてくれないか。
すぐに駅に戻って、東京行きの切符を買って、早く自分の生活に戻れ。
ハッキリ言って、来られても迷惑なだけだから。」
「・・・!・」
「瑠璃ちゃん、行こう。
悪いけど、またあのおいしいやつ作ってよ。」
「え?
もちろん。
気に入っていただけていたら、嬉しい。」
「じゃあ、牧野、そういうわけで。」
そう言って、ホイールを自分で回して、ボードになにやら打ち込み、振り返ることもなくドアの向こうへ入っていった。
瑠璃ちゃんという女性は、私に一礼した後、小走りで車椅子に追いつきそっと車椅子に手を添えた。
私は、その場で呆然と立ちつくす。
最初から受け入れてもらおうなんて虫のいい事は考えてなかったけど、あんな可愛いガール・フレンドと一緒に楽しくやってるなんて、大きな誤算だった。
目にした状況を整理する間もなく、あの拒絶を前に言葉は愚か、思考も回らず完敗だ。
「総二郎を信じて待ちましょう」と言った西門さんのお母様はやはり正しかったのだろうか、西門さんには西門さんの考えがあって、私が出る幕などどこにも無く、本当に邪魔しに来ただけなのかもしれない。
大切な落し物が見つからずガックリ肩を落としながら家路に向かう苦学生のように、フラリフラリと駅の方へ向かって歩いた。「総二郎さん、先程の女性、よろしかったんですか?」
「ああ。」
「お友達?」
「・・・。」
「ごめんなさい、余計なことを聞いちゃいました。
スモーク・サーモンのサンドウィッチでいいんですよね?
西門さんからのリクエストなんて、初めてで嬉しい。
こんな時間だからお腹すいてるはずですよね、今すぐに。」
キッチンへ向かう彼女の身体から、甘い香りが漂ってきた。
「瑠璃ちゃん、飯はいいからこっちへ。」
楚々とした素振りでやってきた女の左腕を取り、手の甲を優しく撫でて気を引いた。
「あのさ、ここで。」
首をかしげて意味ありげな視線を向けると、想像通り戸惑いがちにうつむく女。
そこで、甘えたように軽く一言添えると良いわけだ。
「脱いでくれる?」
新世界へ連れて行くのにそっと手を差し伸べる。
大事なタイミングを計らずとも、脳から湧き出る本能を形良く整え、言葉にするだけで上手く行く。
ポッと顔を赤らめる少女を脱したばかりの女は愛らしい。
若草色の頼りなげな茎の先に、淡い桃色の花弁を数枚グルーでくっ付けたばかりみたいだと思う。
胸のトキメキを隠しもせず、俺の言う通りセーターに手をかけ、可憐に恥じらいながら一枚一枚剥ぎ取っていく様を眺める。
じっと見つめながら、滑らかな口調で誘うと、こんな出来損ないの身体でも有効らしく、それなら使わせてもらうのが今の俺の道理だ。
尖りのないラインと滑らかな皮膚は男を癒すために創られた訳ではないにしても、全てをそっくり包み込み、醜い感情をも忘れさせてくれる有難い存在であり、俺は少しでも早くその甘い楽園に逃げ込みたくて、ブラの谷間へ顔を埋めた。
そして、手に馴染んだ松葉杖を使い、ベッドへ誘導した後、着ていたセーターをさっと脱いで、その柔らかく甘い塊りに覆い被さった。いつの間にか眠っていた。
またあの嫌な夢を見たせいで、全身倦怠感に襲われている。
暗闇を歩いている。
すると、突如現れる黒より深い闇色の大きな穴から不気味な透明の手が2本伸びてきて、俺の足首にサヤっと触れる。
ヒヤリとした感触に驚き、正体を認識して身震いし、逃れようと全力で駆け出すが、決して振り切ることができない己の影のようにピタリと側から離れない。
そして、大きな黒い穴がポッカリ口をあけ、その深淵が俺を飲み込もうとあざ笑うように待ち構えるイメージが
ありありと脳裏に浮かび、底なしの恐怖が背後から忍び寄る。
もっと急げと脳が命令する。
もっと、もっと。
さらに速度を上げなければと、力を絞り、足を掻き、がむしゃらに走る。
焦って汗が噴出し、息が上がって苦しくて、ふと気付いて愕然とするのだ。
- 左脚が動いていないことに -。
『もう止めてくれ。』
『お願いだから、消えてくれ。』
何度も心の中で声が嗄れるまで叫び、救いを請う。
ハアハアと苦しい息遣いで、生々しい記憶と共に目覚めては、どっと疲労を感じて、その果て無き闇の深さに虚脱する。俺は、のっそりベッドから起き出してキッチンへ行った。
ダイニング・テーブルには、メモとリクエストしたスモーク・サーモン・サンドウィッチがラップをかけられ残されていた。俺の身の回りの世話係として現れたのが瑠璃ちゃんだった。
そして、俺たちが男女の間柄になったのはクリスマスイブの夜。
うなされている俺に抱きついてきた瑠璃ちゃんは生娘だったが、それは自然な流れで、もつれ合うようにベッドに落ちた。
その夜は、お互いの身体を求め合う事が必要な夜で、瑠璃ちゃんからは感謝の言葉までもらった。
俺は一進一退の治療への苛立ちと将来への不安、そして闇への恐怖にいっぺんに囚われて、立ち行かないほどだった、その上、牧野に抱いた感情を封印し、忘れ去る努力まで課せられて、ひどく過酷で孤独な戦いに疲れが出始めていた。
瑠璃ちゃんも、内面に複雑な事情を抱えている女の子で、そんな自分を壊してくれる誰かを捜し求めていた。
少なくとも俺はただの遊びのつもりでその唇に自らの唇を寄せた。
生理的現象を処理した懐かしい夜の再燃かと思った一方、男を知らなかった清らかな身体は牧野を忘れようとする俺の心を奇妙に捉え続け、夢見る媚薬を与えてくれる救いの女神で有り続けている。
ズルイ男に成り下がったとしても、その薬を自分から断つ勇気もなく、こうしてぶら下がっているわけだ。西門流の血統を守るために俺自身が考え抜いて生まれた決心。
それは正しかったと今でも揺るがない。
けれども、その選択の結果、将来目にしていくだろう光景に耐える自信もなく、逃げるように金沢へやって来た。
ここで何度、昔を懐かしんだことだろう。
F4の一員として送ってきた日々は、今となっては泡沫の夢のごとし。
宿命に愚痴りながらも女遊びに浮かれてたあれは、神の悪戯だったのか。
約束された未来は一瞬で空中分解し、残ったのは無念と失望と闇への恐怖。
茶道の道が閉ざされて、水の減った水槽を泳ぐ魚のように窒息感に包まれた。
宿命だと腐ったこともあったくせに、こうなってみて、どれだけ茶道を愛していたのか痛感しても遅過ぎるよな。
今まであった自信はこうも儚く粉々に砕けてしまい、小さな欠片が虚しく光る。
生きていく目標は?
確固たるビジョンが見出せず、八方塞がりの塀の中で天井をじっと見つめるだけだった。
牧野と周を応援していると口では言ってるくせに、一方では、自分の哀れな姿との対比に耐えられず、あいつらに笑顔を向けられるほど、俺は人間が出来ていないことにも苦しんだ。
俺には実家に身をおきながら、見物することなど到底無理な芸当だった。
「でもそれは、捨て鉢になってないってことだから・・・、」と言ってくれた類の言葉を借りると、俺はなんとかしようともがいていたわけで、厄介に感じることも多かったプライドこそが、俺の原動力になっていると気付けただけが見っけもんだったか・・・。
性分だから付き合うしかない。
明るく言えば、未来への希望を胸にここへ来た。
『再生の一歩をここで踏み出そう。』
そう心に決めていたはずなのに、俺は一体ここで何をやっているのか。
牧野を冷たくあしらって、身近な女を抱いた。
やるせない思いが身体をますます重くさせ、冷蔵庫へ歩いて行くのも疲れる。
冷たいミネラル・ウォーターを取り出し、そのまま口につけ、横からこぼれるのも気にせずガブガブ飲んで、ようやく少し末端神経が機能してくる気がする。
牧野は、少し痩せていたのではないか?
ちゃんと稽古も続けているのだろうか?
周と仲良くやってくれているのか?シャワーを浴び、濡れた髪のままサンドウィッチを頬張った。
なぜか牧野の気配を感じた。
不思議だったが、願望のようにそう感じた。
俺はインターホンのボタンを押して、入り口の様子をモニターに映し、思わずその映像に小さな息を漏らす。
濡れた雀の様に、震えながら身を小さくしているヤツが居る。
ドンピシャだ。
驚くよりなぜかどこかで安堵しながら、とっさに松葉杖を手にしたが、それを置いて携帯を手に取る。
Trururururuururururururururu・・・・・・
「牧野か?」
「ゴメン。西門さん・・・私・・・。」
「いいから、上がって来い!」
つづく -
shinnjiteru54 54.
「お前はあいかわらずのアホだな!
こんな時間に、しかもそんな湿った身体であんな所にじっとして、気でも狂ったか?
濡れ雀みたいな格好で情けねえ顔して・・・どう見ても不審者だろうが。
よく通報されなかったよな。
何時間くらいあそこに居た?」
「・・・・・。」
「昼に言ったはずだろ?とっとと帰れって。
とっくに帰ったんじゃなかったのかよ、ったく。」
「・・・・・。」
「あのなぁ、来られても迷惑以外何物でもない。
ここで牧野に手伝ってもらいたいことは何一つ無い。
見ただろ?
あの女の子と仲良くやってるし、あいつ飯だってうまいの作るんだぜ。
脚の方も心配するな。
また手術したせいで車椅子使ってるけども、結構良くなってるから。」
「・・・・・。」
「わかったろ!?」
西門さんは、私の後ろのドアが焦げそうなくらい睨んでいる。
「・・・・・。」
「牧野、聞いてるのか?」
「・・・・ッヤ・・。」
「はあ?聞こえない!声帯まで凍ったか?」
「・・・・ダメだったの。」
「・・・ダメだった?何がダメだと?」
西門さんは理解不能というように、力の抜けた表情で眉間に皺を寄せ、ゆっくり静かに私の言葉を繰り返す。私は西門さん張本人に拾われた。
316号室のドアが開くと、玄関から真っ直ぐ伸びた廊下のつき当たりから黄色い光がもれていて、背の高い西門さんの形だけくり抜いて、後ろから射してくる光が眩しかった。
ともかく暖かい場所に入れてくれた西門さんは、ドアを締めるやいなや機関銃のように私がここに残っていたことを責め立てる。
相当頭に来ているのか、文句が尽きないといった様子に返す隙が無い。
めずらしく優しいレモンイエローのセーターを着ているのに、私を跳ね除けようとする冷たい言葉は竜巻のように荒々しくて、私は通り過ぎるのをひたすら待った。
受けるべき責めはサッサと受け入れ、その後ちゃんと話を持って行くつもりだった。「・・・ダメ?何がだめだと?」と屈んで覗き込まれると、久しぶりに西門さんの瞳が間近に迫り、瞳の光が近くに感じられる。
あの懐かしい西門さんの香りが微かに鼻腔を通ると、色んな感情が夕立直前の積乱雲のように不気味に蠢(うごめ)き始め、コントロールを失い荒れ狂いそうだ。
にわかに、ちゃんと言い切れるか自信がなくなって、心もとなくなる。
ボロくなった涙腺がたちまち熱を持ち始めてくるから、口を一文字にして精一杯頑張ってみる私。
「・・あ・あんな気持ちのまま、電車になんて乗れっこないよ。」
「それは、お前の都合だろ。俺には関係ないことだ。」
「西門さん、私ね、西門さんが居なくなってすごく寂しかったよ。
すごくすごく・・・・会いたかったの。」
西門さんは、廊下の白い壁に顔を向けたまま何も答えない。
シャワーを浴びた直後なのだろうか、黒いサラ髪は所々何本かの束を作り、艶やかに光っている。
「毎日、自分でも呆れるくらい西門さんを思い出して、いろんな事後悔して。」
「話ってそういう事か?」
「え?」
「わざわざ、そんな事を話しに来たのか?」
「そんな事って、大事なことだよ。」
「牧野の居る場所はここじゃないだろ。
そんな話する暇あったら、美術館の一つでも回って身になることでも探せよな!」
「どうして?
さっきの女の人が居るから、話も聞けないってこと?」
「そうだと言ったら、納得するのか?」
「・・・納得なんかできるわけないじゃん。」
「牧野、俺は牧野が思っているほど出来た人間でもないし、今やひがみ根性の塊だ。
俺から学ぶことなんて何一つないぞ。」
「何か教えてもらおうなんて思ってない。
ただ、会いたくて仕方なかった、それだけなの。」
「じゃあ、もう気がすんだろ。
もうここには来るな。」
「どうしてそんな悲しい事言うわけ?
全然わかんない。
会いに来るのが、そんなに迷惑なことなの?
なんで、黙って姿消しちゃったのよ。」
「毎晩、夢が怖くてベッドで大汗かいてブルブル震えてる。
最近じゃあ、暗闇恐怖症か?真っ暗にできない神経症のガキみたいだ。
昔の頃に戻りてえ・・・ってメソメソ泣いてるとこなんて見せらんねえだろ。」
「いいじゃない、誰だって泣いたりするんだよ。
西門さんだけじゃないよ。
だから、一緒に頑張ろうよ。」
「・・・わかんねえ奴だな、牧野も。
そんなに簡単じゃねえんだよ。」
「西門さんは、頭で考えすぎてるよ。
ダメかもしれないけど、やってみなけりゃわかんないし、なんでも思ったとおりには行かないのが普通なんだよ。
私なんか、生まれてこの方、自慢じゃないけど思い通りに出来たことなんて、せいぜいお芋の煮っ転がしの味付けくらい。」
私は一歩前に歩み寄り、ダラリと下がっている西門さんの右腕に触れようとした。
すると、西門さんは振り払うように姿勢を変えて見下げるように言う。
「世の中、牧野みたいに根が素直なやつばかりじゃねえんだよ。
まさか、牧野に説教されるとは思ってもみなかったわ。
けど、それも仕方ねえか、俺はお前らの幸せを願ってる振りして、本当はちっとも願ってなんかねえ口先ばっかの小せえ男なんだし。
本心は、自分が可愛くて仕方ない狭量なヤツなんだぜ。
情けねえだろ、ふっ、落ちぶれて・・・・最低だ。
こんな俺じゃ、家元にならなくて正解だわ。
神様っているんだな。
ちゃんとわかってる。
何が“和の心を大切に”だよなあ、ックク、物事に動じまくりのこの俺が、ホント笑うよな。」
「止めて、そんなに自分を卑下するのは・・・らしくない!」
「こんな俺は見たくないか?
こんな卑屈にゆがんだ俺は見たくないだろ?
だったら、帰れよ!!
俺だって、見られたくないんだよ!
こんな恥さらしたくないんだよ!
帰れ!
二度と来るな!!周のことだけ見てろ!」
「・・・西門さん。」
「お前らから逃げて、暗闇から逃げて、女に逃げて、現実から逃げまくりだ。
こんなしょうもない男に関わらず、周を信じてついていけばいいだろ。
あいつは俺の弟だぞ、あいつなら大丈夫だ。」
西門さんは、真っ直ぐ私を見つめながら最後の言葉を吐き出すように言った。「・・・一緒にいたい。
西門さんの喋る声や動く仕草を側で聞いたり見たりしていたいの。
同じ場所にいる、それが幸せだったんだもん。
今まで気付かなかったけど、どれだけ特別な時間を過ごしていたのかやっと気付いた。
ただ、側に居たいだけだよ。
他に何もいらない。
お茶を教えてくれなくてもいいし、どこにも連れて行ってもらえなくていいから。
私でも何かできるでしょ。
不自由だったら、手伝ってあげたいしマッサージもしてあげたい。
寒そうだったら、温かいスープを食べさせてあげたいし、
疲れていたら、声かけて元気づけてあげたいし、
もし、もしも、こんな私でよければ、西門さんのために何でもしてあげるよ///。
・・・私じゃあダメなの?」
西門さんの心に恥らう意味までちゃんと届くよう願いながら言った。
「・・・!?」
「私だって、好きなんだよ。
西門さんのことが大好き!
あの人に負けないくらい好きなの!」
「・・・牧野。」
ビックリしたような表情の西門さんに、さらにたたみ掛けるように言った。
「西門さんは一番大切な人なのに、あんな気持ちのまま帰るなんてできなかった。
お願いだから、私を拒まないでよ。
お願いだから・・・。」
西門さんの喉仏が上下するのが見えた。
「・・・勝手にしろ。」
西門さんは、踵を返して突き当たりの部屋へ入ってしまう。
煌々と光る黄色い明かりが、ドアの隙間から誘うようにこちらへ届いて、私は心を決めた。
求められれば拒まない。
女の意地だ。
「お邪魔します。」
囁くように声をかけて靴を脱いだ。
そして、その明かりの中へ歩いて行った。
つづく -
shinnjiteru55 55.
突き当たりの扉を開けると、明るすぎる光の刺激に数回瞬きしなければならなかった。
目が慣れてから見渡すと、左から豪華なアイランド型キッチン・ユニット、ガラスの6人掛けダイニング・テーブル、そして、ゆったりとした黒皮ソファー、それらが白く長い壁に囲まれている。
乱反射する光のせいで黄色い明かりが幾層もの濃厚な光の束となり、なんだか大人のパーティーを連想させる部屋だ。
西門さんはどこ?
姿が見えない。
私は一人で勝手にやってろということなのか。
所在なげに立ちすくんでいると、突然ピンポーンというチャイムにドキリとした。
キッチンの左手ドアから西門さんが現れて、インターホン越しに何やら話しかけ暫くすると、見覚えのある女の人が木製のおかもちを携えながら入ってきた。
「あら?以前お見かけしたお嬢さんですよね、まあ、いらしてたんですか。」
「あっ、その節はお世話になりました。」
目の細いその人には覚えがある。
確か、西門さんがこのマンションに引っ越したことを親切に教えてくれた母屋の人だ。
「今、いらっしゃったばかりですか?
そのコート、ハンガーにおかけしましょうね。
この時間、外は寒かったでしょう。」
そう言って、背後に回り、脱ぐのを手伝ってくれる様子はどこまでも気のいい仲居さんみたいだ。
「さあさあ、中へ。すぐに温まりますから。」
私のコートを手に持ち、リビング側にある別部屋に入ったかと思うと、手ぶらで戻ってきてテキパキと働き始めた。
「総二郎さん、今夜はタンシチューをお持ちしましたので、すぐにお二人分ご用意させていただけますが、どうしましょうか?」
「あっ、いえ、私は・・・。」
私の方は見ずに、手を動かしながらも西門さんの返事を待っている様子。西門さんと私は無言のまま佇み、確かにある種の思いに同調し合い、そして同時に探り合っていた。
首尾よく世話をしたがる使用人の前で、二人してふさわしい返事を探す作業の共有感に浸りながら、別なところでは、降って湧いたような緊張感の中、どちらかの決定的な一言で、簡単に何もかもが決まってしまうような怯えを共有していた。
提案者のペースに乗っかるのが楽だと知りながら、それでもお互い抵抗を感じるのは、急遽、追い立てられるように二人の時間を想像させられたからだ。
微かな期待と不安が入り乱れ、あと一歩が怖くて進めない。
お互いの姿を視線の端に感じながら、どうするべきか決めかねていた。
沈黙を破ったのは、西門さんだ。
「食べるか?」
「・・う・うん。」
「じゃあ、こいつの分もお願いします。」
「私、お腹ペコペコ。」
そうでも言わなければ、なぜか辻褄が合わない気がしたから。「とりあえず、身体を温めろ。」
そう言って、西門さんは私をバスルームへ連れて行き、バスタオルを手渡し、ソープ類を確認した後、バスタブにお湯を張るためコックをひねり、指を当て温度を調節してくれた。
かいがいしく世話してくれる西門さんは、左脚を横に流し器用にしゃがんで、そんな姿が新鮮だったりする。
「クスッ、西門さん、いいよ、後は私がやるから。」
「あ・・あぁ、日頃、ここは使ってないから。」
俯き加減に横を通り過ぎる西門さんをじっと見つめていると、何か言いた気な顔をして結局無言のままその長い腕でバスルームの扉を閉じる西門さん。
「誰がお前の裸なんかのぞくかよ。」
なんて懐かしい声が聞こえた気がした。白い湯気の中につま先からそっと入り、静かに湯船いっぱい身体を埋める。
隅から隅まで順番に温められていくと、体内をめぐる血流が勢いを増し、新しい息吹がバンバン生まれていくような気持ちの良い爽快感が身体中走る。
なんて気持ちいいんだか、幸せ・・・大好きな時間。
汚れたものはきれいさっぱり洗い流し、綺麗になって明日へ繋ぐ。
英徳時代、バイトでクタクタに疲れきっても、こうして湯船につかると活力が戻ってくるのが自慢であり、だから貧乏なんて怖くもなかった。
あの頃は、どんなに辛い境遇でも、幸せな未来がちゃんと待ってると思いこんでいた。
あれから私は成長したのかな?
今だに同じじゃん・・・。
いやいや、今度こそ私は幸せを掴むためにここにやって来たんだ。
与えられる幸せは勿論のこと、与えてあげる幸せだって、じっと待っていては手に入らないと気付いたわけで。
女25歳、要所は外さない意気込みが大切よ!自分の気持ちを守り抜く!
あの頃より、ちょっと図々しくなったかもしれない。
程よく温まった身体で、勢いよく湯船を後にした。広間の方に戻ると、母屋の使用人の姿は見えず、ダイニングテーブルには二人分の夕食が置かれていた。
「牧野、冷める前に食うぞ。」
「あ、はい。」
あわてて席に着くと、早速、西門さんが赤ワインをグラスについでくれる。
「俺はもう飲んでるから。」
既に西門さんのグラスには、少ししか赤い液体は残っていない。
「じゃあ、今度は私が注ぐよ。」
ボトルを受け取り、西門さんのグラスに赤い液体をコクコクと注ぎ入れる。
テーブルの真ん中にボトルを置く際、ふと視界に入ったものに目を奪われた。
私の視線が向かったのは、ついでもらったグラスではなく、テーブルの脇に置かれていた地味なお湯呑みだった。
その中に挿された一輪の黄菊がとっても可愛い。
それは、私が西門さんにプレゼントした手作りのお湯呑みだ。
周くんと初めて手作りに挑戦して、なんとなく雰囲気の出たお湯呑みだった。
「牧野って黄色いイメージだ」って言われたことを思い出す。
そりゃあ、こういう場合、自意識過剰とか自惚れって言われるかもでしょう。
でもでも、もしかして・・・。
だから黄色いお花なの?
私の事を思ってくれている?
勝手に一人突っ込んで、頬が緩んでくるから仕方ない。「西門さん、これ・・・、使ってくれてるんだ。嬉しい、ありがとう。」
「ああ、花瓶が無いから。」
素っ気無い言い方が、かえって本心を隠しているように聞こえるのはただの思い過ごしだろうか。
真実はともあれ、私の心持ちが一気に明るく軽いものに変わり、どんな冷たい言葉も温めて優しく返してあげられるような自信が天から降りてきたようだった。
「今日はごめんね、急に来て。
今度はちゃんと連絡して来るから。」
西門さんは、スプーンを握ったまま私を呆れたように見上げた。
「今日、携帯から電話くれたでしょ?そこにかけるといいよね?」
答える代わりに小さく首を捻り、事も無げにスプーンを口に運ぶ。
私は近況報告だといって、最近のお茶の行事やお稽古のこと、それから、周くんが頑張っていることをたっぷり話した。
それから、道明寺と再会したこと、いよいよ日本に帰って来ることや西門さんのことを心配していたことなどもつらつらと。
一方、西門さんは相槌さえあいまいで、ずっと無言のまま黙ってワインを傾けている。
ペラペラしゃべる私はKY女で、それでも結構。
あの日、F3と過ごした時間を思い出しながら、一人楽しげに語り続けた。
西門さんも来ればF4揃って見物だったのに・・・とはしゃいだ口調で軽口たたいてみたりもして。
お皿の中のものが綺麗に片付き、ワイングラスを置くと、ようやく西門さんが口を開いた。
「牧野、これから帰るの無理だろ?
あいにくベッドは一つしかないから、悪いが俺のベッドで我慢しろよな。」
え?一つのベッドで?ついにきたか?
ビビッているのが伝わった?
「俺は適当にソファーで寝るから。」
呆れたようにいいながら、西門さんの口元は笑っていた。
ホ~っと肩から力が抜ける。
「あの・・いいよ、私がそこのソファーを使わせてもらうから。
すみません、一晩お借りします。」
西門さんは、面倒くさそうに背もたれに身体を預け、無表情に言う。
「ッチ・・・とにかく、そうするから。」西門さんの寝室はキッチンの奥にあり、扉を開けるなり、むせ返るほど西門さんの香りが充満していた。
枯れ草色のコンフォーターをめくると、同色のシーツの上に、長い髪の毛が落ちていて、否応無しにあの瑠璃ちゃんのものだとわかってしまう。
西門さんに借りた男物のシャツ姿で、シーツの中に身を滑り込ませて、急いで目を瞑る。
植物系のバニラがかった甘酸っぱい香りとどこか男臭い香りが交じり合い、その横には瘡蓋(かさぶた)のように甘い女の香りが張り付いていて、脳までそんな香り漬けにあいながら、平気で眠れるわけなど無い。
このベッドで、西門さんとあの女性(ヒト)は裸になって・・・と乏しいイメージながらも自ずといやらしい想像も始まって、だんだん目が冴えてくる。
自分の足の付け根の間からお臍にかけて、ムズムズと熱く感じるのはなんとかならないの?
なんだか身体の芯が落ち着かなくて、こんな所じゃ全然眠れない。
暗闇の中、どのくらい悶々としていただろうか。
私は起き出して、西門さんが眠っているはずのリビングへ近づいていった。
リビングは、薄っすら明かりが灯っていて、西門さんが眠っている場所が一目でわかった。
黒皮ソファーに長い手足を器用に投げ出し、整った顔をこちらに向けて眠っている。
瞼はきっちり下ろされて、長い睫毛が影を作ってチラリとも動かない。
眉毛から繋がる鼻梁は完璧な美しいラインを描き、思わず手を出して触れたくなりそうで、そのままキリッとしまった唇までなぞってみたらどんなだろうと激しい誘惑に駆られた。
とがったような喉仏の下に続くのは、男らしい平らな胸。
それが私を待ち構えているように見えて、座り込んでその胸にそっと顔を埋める。
「ッ・・・うおっ!・・・・え?牧野?」
頭の後ろから、心底ビックリしている西門さんの声が聞こえたけれど、私は無視して動かなかった。
「そこで、何してる?」
西門さんの顔が見えないのをいい事に、すましたように答える。
「別に何も。」
「何もって・・・。まさか、俺を襲うつもり?ククッ。」
「まさか。」
「眠れないのか ?」
「うん。
私、西門さんのことが好き。」
「・・・。」
「わかっていてね。」
「・・・おう。」
西門さんは掠れた声で返事して、暫くそのままじっとしてくれていた。
「牧野?そこで眠ってんの?」
「ううん。起きてる。」
「そろそろ戻れ。俺、限界に近い。」
「・・・?」
スクッと身を起こし西門さんの方を振り向いた。
拗ねたような顔をしている西門さんと目が合うと、早く行けという風に顔をベッドルームの方へ向けられた。
「いやだ。私、あそこじゃ眠れない。」
「じゃあ、どうするつもりだ?このまま襲われるのを待つつもり?」
「別にいいよ、西門さんなら。」
絶句する西門さんの声が聞こえ、その瞳が薄明かりの下でキラリと光る。
「お前、牧野だよな。寝ぼけてるのか?」
確かに、その時の私はいつもの私じゃなかったけれど、きっと後悔はしないってわかっていた。
西門さんが視線を反らすまで、私たちはお互い見つめ合い、少なくとも私は西門さんに抱かれる姿を視線の先にやんわりと描いていた。
つづく -
shinnjiteru56 56.
ピー ピー ピーヨ
どこかから鳥のさえずりが聞こえる。
五感の中でも、ひときわ感受性豊かな聴覚神経が動き出した。
伝播された情報は凄い速さで脳へと伝わり、頭の中で細胞が猛スピードで活動を始める。
一夜明け、新たな一日の始まりなのに、まだ身体全身が耳になった感覚が残っていて、現実と夢との境界線が不明瞭、なんだか気だるい。
寝返りを打つとキッチンが視界に入り、続く白いドアで視線が止まった。
そうだ、西門さん家に泊まってるんだ・・・。
あのドアの向こうに西門さんがいると思うと心が騒ぎ、頭の中に昨夜の映像がながれ出す。「じゃあ、俺があっちで寝るから。」
そう言って、私に触れることも無く、びっこを引いて歩いていった西門さん。
口ぶりと正反対に貞操つつましく、あっさり姿を消してしまった。
取り残された私は、実際襲われたなら、相当ビビッて暴れたりしたのかもしれないけれど、夜中に男に素通りされて肩透かしを喰った虚しさに、事態をどう解釈したらいいのかしばらく頭が回らなかった。
頑張る気持ちいっぱいなのに、ふとしたことで不安になって、強気の自信が影を潜めてしまう。
かつて、西門さんは自他共に認める女好き・女たらしの遊び人だっただけに、下半身はだらしないイメージを抱いていたせいかもしれない。
ベットに残った女性の毛髪が、忘れかけていたイメージを鮮やかに思い出させた。
どうして、私に触れもしなかった?
彼女のために守ったの?
久しぶりに西門さんに会えたと思ったら、いきなり泊まった挙句、夜中には自分から飛び込んで、昨夜の私はどうかしてたけど、深い仲の彼女がいるのにあんなことをしてと反省する傍ら、熱く燃える石のような自分の気持ちに気付く。私の右頬は西門さんの程よくついた大胸筋の段差を覚えていて、そっと手を押し当てるだけでドキドキしてくる。
寝入った男に自分から身を寄せる芸当なんかしちゃって、頬がカーッと熱くなるし、大胆さにビックリするけど、不思議と恥ずかしいと思ってなくて、むしろ、ちゃんと目的を持って、抱きつくなりして迫った方が良かったのか、そういう場合どうすればよかったのかと反省する私が居る。
そんな思考回路に愕然とするやら、知らない自分に困惑してしまう。
目が覚めるにつれ、心の中がハッキリした形状を見せ始め、心にも瞼があるならすぐにでもシャットダウンしたかったのに、朝の光は、時に残酷に現実を見せつけるものだ。
自覚しても、何にもならない気持ち。
昨夜の私は瑠璃ちゃんと同じように西門さんに扱われたかった。
長い指で頬に触れてもらい、優しく撫でられたかった。
あの香りに包まれて眠れることが出来たら、それが慰めだとしても許せたのに。
女として扱われなかった悲しみが、鉛のように乗っかっている。
そんなこんな考えていると、どんどん虚しくなっていきそうだから、それ以上考えないことにして、とびきりおいしい朝食を作ることに決めた。
窓の外に向かって顔を上げ、思い切って起き上がった。冷蔵庫にあったのはサラダ向きの食材だったので、いくつかサラダを作ることにした。
時間をやり過ごすため、カボチャをフライにしたり、胡瓜を甘酢漬けにしてみたりして、朝から手の込んだサラダを作る。
昔から身体を動かすと気分が明るくなる性質(たち)で、それが功を奏して元気が出てきた。
鳥のさえずりが美しくさわやかに聞こえ始めた頃、西門さんがようやく起きてくる。
「あっ、西門さん、お早う!」
満面の笑顔サービス進呈。
「・・・。」
現状把握に一生懸命努める眼差しは、中性的な男の子のそれで攻撃性はゼロ。
なんだか西門さんが幼く見えもする。
「ゴメン、うるさかった?もしかして、もう帰ったと思った?お生憎さまだよ~。 」
「いや・・・別に。」
「じゃあ、顔洗ってきて。朝ごはん、食べよう!」
西門さんは瞬きをした後、まるで看護婦さんに誘導されたように姿勢よく、素直に部屋へ戻っていった。「これ全部、牧野が作ったのか?」
「うん、野菜がいっぱいあったからサラダづくし!どう?4種類のサラダのお味は?」
西門さんは、再びフォーク片手に黙々と食べ始める。
「でも、冷蔵庫に色んな野菜が入っていて、ビックリしたよ。
西門さん、野菜好きだったっけ?」
「身体を動かさない分、野菜を多く摂るようにしてる。
朝は自分で作るし、たまに昼も、適当にサンドしてつまんでる。」
「へえ~、西門さんのお坊ちゃんが自炊ですか。」
西門さんはギロリと睨んで、胡瓜を口に放り込む。
「掃除も?」
「基本的な衣・食・住は全部、母屋の人が来てくれてるから困ってない。」
「ふ~ん、だから私に帰れって?・・・はは。」
「ああ、何も困らない。だから、帰れ。」
一晩寝たら一皮分厚くなったのか、そんな程度じゃかすりもしないよ。「可愛い彼女もいるみたいだしねぇ。」
触れるつもりなんてなかったのに、唐突に出た棘のあるセリフにあわてた。
「彼女?・・・ああ、あいつか。誰のことかと思った。」
はあ?それって、ステディではなく、遊び相手ってこと?
「ああ、あいつかって・・・、
こっち来て昔の病気が再発したんじゃないの?」
黙れ、私!話が挑戦的になっていく。
さわやかな朝、目の前にはおいしいサラダがあるというのに、どうしてドラマみたいに和やかにいかないのかな。
「あいつは彼女とかじゃないし。」
あいつあいつって、名前くらい覚えるもんでしょ、普通。
三歩あるいたら忘れるニワトリじゃないんだから。
「でも随分仲がいいみたいじゃない。良かったね、親切な友達が出来て。」
ヤバイ、これは角がミエミエじゃん?
「だったら悪いか?
人に迷惑かけてるわけじゃないし、俺の勝手だろ。」
遊び相手でよかったと安堵する自分が居るのに、素直に喜べず、喧嘩するつもりも無いくせに、吹っかけ続けるこの口が悪い。
西門さんは、案の定真っ直ぐ返してきた。
ここで言い返したりしちゃあダメ。
言いだしっぺの私が折れなくちゃ、振り出しに戻って馬鹿みたいだ。
「う~ん、あ!そうだ、西門さん!
宿の御礼にお昼ごはん、私が作ってあげるからさ、今日はDVDでも借りて一緒に見ない?」
「はあ?」
「ほら近くにあったじゃない、レンタルビデオ屋さん。
あそこにゆっくりお散歩がてら行って、何本か借りてこようよ。」
「お前、何考えてんの?」
「一緒に楽しめることに決まってるじゃん!」外に出ると、白い雪の照り返しが眩しくて、西門さんのグラサンが恨めしい。
軒先からポタポタと水が垂れ落ち、北陸に春が来るのを感じた。
西門さんとこうして歩くなんて久しぶり。
松葉杖を使っていても、普通に歩くスピードと変わらなくて、拍子抜けした。
「西門さん、車椅子使わないんだね。」
「昨日は一応使ったけど、この通り歩けるし。
良くなってるから心配するなって言っただろ。」
「うん。」
端に寄せられた雪が車道を狭くして、車は人とすれ違うように通り過ぎる。
ショベルでかき集められた歩道の雪を避けながら歩いていると、ヌーッと松葉杖が出てきて、私の太腿辺りを押さえ込んだ。
「おい、危ないからもう少し外側を歩け。」
「あっ、ありがとう。ちゃんと見ながら歩かないとね。」
「ボーッとして、滑るなよ。」
「わかってるよ。西門さんこそ転ばないでよ~、そんな大男持ち上げられないからね。」
西門さんは微かに口角を緩ませ、もう一度松葉杖を前に突き出してアゴをしゃくる。
「ほら、前見て歩く!お前が転んだら、置いてくからな。」
私は振り返って、鼻をフンと鳴らしてやった。
ちょうどその時、一滴の雪解け水が西門さんの瞼を濡らし、西門さんはそれを腕で拭おうと立ち止まった。
「冷て~。」
「そんなイケズ言うからだよ・・・っはは。」
「うわっ、ちょ・・牧野、早く進め。また落ちてきやがった。」
「水も滴るいい男じゃない。・・・いい眺めだったのに・・・クスッ。」
私はバックから取り出したハンカチで、まだテカってる西門さんのおでこと瞼をそっと拭いてあげた。
「両手塞がっている人限定サービスだよ。」見上げた先には、じっと私を見つめ返す瞳があって、ハンカチから伝わる体温と皮膚の柔らかさがそこに西門さんがいる、生身の身体がここに在るってことを、この場で突きつけられるように感じた。
西門さんが私を見て、何かを感じる。
私も何かを感じて言い返す。
それだけで、幸せで胸がいっぱいになる。
西門さんの側にいたい。
ただそれだけで何もいらないって思っていたのに、昨夜は色々あって見失うところだった。
こうして過ごす時間が恋しくて、会いたくてどうしようもなくてやって来たのだ。
瑠璃ちゃんは彼女でないって言うなら、それでいい。
西門さんが私に触れなくてもかまわない。
同じ時間を少しでも長く一緒に過ごそう。
時間というタネを薄く長く伸ばして、広げれるだけ広げてみる。
そう、そこに西門さんが居るのだから。
つづく -
shinnjiteru57 57.
アメリカ発の金融危機を発端に、世界経済の激震は広がる一方、まさかの老舗大手金融機関破綻など、海を渡り欧州まで派生している憂鬱なニュースが途絶えない今日この頃。
比較的、打撃が少なく余力ある我国日本は今こそ商機とばかりに、金融商品の売り込みと企業買収に本腰を入れ始めていると教えてくれたのは、企業家として商機を狙っている類だった。
類の誕生日祝いを渡したくて、久しぶりに青山のレストランで向かい合い食事をした時だ。
「こういう時には、アラブの本当の王子さま達からお金もらわないとね・・・。」
なんてふわりと言って、日焼けした肌に白い歯からさわやかな微笑みをもらす。
「やっぱり類は生まれながらにして企業家の血筋引いていて、それが長い間、青虫みたいにじっとしてたけどさ、ついにサナギから孵って動き出したんだよ。
誰に教えられたのでもなく、本能のまま空に向かって羽ばたいていくんだねぇ。
美味しい蜜を求めてね。」
「オイルマネーを吸いに飛んでくってこと?」
「ええ?いやいやそんな露骨に・・・、お金その物じゃなくて、そういうお仕事全部ひっくるめてさ。」
「俺、確かに・・・血が騒ぐよ。
うちもインフラ事業やってるし、存在感を示すチャンスだからね。」
「・・・!。」
「牧野、日本は輸入原油の9割近く中東から輸入してるの知ってるでしょ?
もう金を払えば資源を売ってもらえる時代じゃない。
お互い持ちつ持たれつの関係を築く、離れられないがんじがらめの関係を築く。
幸い、日本には技術力と勤勉な国民性があるからね。
日本にとって安定した資源確保に繋がる事業が俺の責務だと思ってるんだ。
しばらく日本にいれると思っていたのに、・・・残念だけど、またしばらく向こうの生活かな。」
長い付き合いの中、仕事を語る類は珍しく、しかもその内容に驚いた。
鷹(たか)のように抜かりなく、隼(はやぶさ)のようにすごい速さで世界の流れをキャッチする優秀なビジネスマンが頭に描いているのは、国レベルの話。
他人(ヒト)のことなんかどうでもいいって言ってた頃の面影はどこにもなくて、経営者としての責任と
日本国の将来まで見据えていて、心底頼もしく見える。
仕事にかけては緻密な計算のもと冷静に動いている人であり、その人がいよいよエネルギッシュに静かな炎を燃やす言葉に返事すら忘れ、また一回り大きく精悍さを滲ませる類を、目を見開いて見つめていた。
「牧野、どした?」
「昔は非常階段で眠ってばっかりだったのに、すごいな~って思って。
あの頃、仕事の出来る類なんて想像も出来なかったもん。
あっ、ごめん。
私の想像力が貧弱だったせいでもあるね。」
「でも、牧野が蜜でいてくれたら、俺はそこから離れないと思うよ。」
はあ???なんじゃそれ?
冗談でも、感動してる時に言わないで。
しかも、お願いだからそうやって優しく微笑みながら言うのは止めて欲しい。
ドキリとするセリフをその顔で言われたら、足が浮いてきちゃいそうだよ///。
「クスッ、牧野には迷惑か・・・。」
「迷惑なんて//。」
「ねえ、総二郎、こっちに帰ってくる気なさそう?」
「え?
ああ~、西門さんは、何も不自由ないって言ってたからね。」
「牧野も一緒に住んじゃえば?交通費、バカにならないでしょ。」
「バ・バカ言わないでよ。
私には仕事もあるし、第一、一緒に住むなんて・・・。」
西門さんと居るだけで、妊娠しちゃうよ。
・・・妊娠しちゃうよ。
・・・妊娠しちゃうよ。
続くセリフが嘘くさく聞こえる状況になるなんて思ってもいなくて、最後まで言い切れなかった。あれから一度、金沢に遊びに行った。
携帯電話に一方的に、“行くからよろしく!”と電話して、そしたら、西門さんは諦めたように戸をあけてくれた。
西門さんから声をかけてくる事はなかったけれど、私に帰れ!とはもう言わなかったし、持参したお弁当は静かに食べてくれた。
私が話すことに小さく笑ったり応答してくれたりもして、そんな時、自分の図々しさを忘れそうになったし、一緒に居れることが嬉しくて、じんわり幸せも感じた。
その夜は泊まり、結局、静かになったリビングで一人瞼を閉じた次第だ。
薄暗い部屋のソファーで横になりながら、寝付けず目を開け色々考えてた。
テーブル脇に置かれたお湯呑みと黄色い花を視線の先に小さく捉えながら、闇の中で目を凝らしていると、「俺と付き合わない?」って聞いてきた黒皮ジャン姿の西門さんが記憶の中から飛び出してきた。
一年も経たないのに、その声は懐かしく、なぜかエコーがかかって遠かった。
けれど、銀色に光る西門さんの瞳はあいかわらず妖しくて、心がキュルルと揺れる。
あれから事態は大きく変わり、西門さんをめぐる環境は反転してしまったといってもいいかもしれない。
「まさか、お前、俺が前に付き合ってくれって言ったこと本気にしてた?
やっぱり、お前は呆れるくらいチョロイよな。」
事故後、そう冷たく言う西門さんの背中が痛々しくて、あの頃は何もしてあげられない事が歯がゆくて、胸が破けるかと思っていたんだ。
それが友情や同情でなく、愛情だったと気付いた私は、あのお湯呑みと黄色い花にすがり付いてもあの真摯な瞳を信じてみたいと思った。
そして、その願望はそこから大きく育っていくことになる。
ガンバレ!と優しい囁きと慰めと勇気を小さな花からもらった夜だった。「類が忙しいってことは、道明寺も忙しいだろうね。またNYに逆戻りかな?」
「さあ、司はどうだろう。
NYには司の母ちゃんもいるし、日本でもやる事いっぱいでしょ。」
「またさ、皆で集まれる日がきたらいいな。
皆それぞれ偉くなって忙しくなっちゃったけど、いつかは集まれるよね?」
「もちろん。総二郎にも会いたいし。」
「皆とだったら、きっと昔に戻ったみたいに話せるよね。」
優紀・桜子・滋さん・私・西門さん・道明寺・類・美作さん。
西門さんを真ん中にして皆が笑ってる和やかな構図が浮かぶ。
それが夢で終わらず、絶対そうなるように心をこめて願をかけた。そして、東京は再び桜の見頃を迎えた。
春の花見茶会・炉塞ぎや初風炉などの行事に忙しく、周くんのサポート役として一生懸命動いているうちに、
春爛漫の二ヶ月はゆっくり愛でる間もなくあっという間に過ぎていった。
それでも、有給をやり繰りして月一ペースで金沢通いは続けており、嬉しいことに西門さんと顔を合わせやすくなった気がする。
けれど、あいかわらず、瑠璃ちゃんの痕跡は男所帯に色濃く残っていた。
遠いので、一晩宿を借り、友人として一緒に過ごすパターンに落ち着き始めて、今回もそのつもりで乗り込んだ。
汽車から見る北陸沿線の眺望は、広大な広葉樹畑。
露に濡れ、辺り一面黄緑色に光っている。
瑞々しい景色は、バタバタとした日常生活を脱ぎ捨てて、気持ちよく西門さんに会いに行くのに十分な効果を与えてくれた。
今回、持参したのは手作りのお弁当とボードゲーム等、二人で過ごす時間を楽しめるのを色々考えてのことだ。金沢駅構内を歩いていると、多くの若いカップルとすれ違う。
その中に瑠璃ちゃんがいたと気付くのに時間がかかったのは、彼女達がごく普通の幸せそうなカップルで、仲良さそうだったから。
瑠璃ちゃんはメガネをかけたスポーツマンタイプのガッシリした青年の二の腕に、甘えるように頭をくっつけて笑っている。
楽しそうに青年を見上げ笑う横顔は、どこから見ても大好きな彼とのデート中ってところだろう。
こ・これは・・・、瑠璃ちゃんのデート現場目撃?
もしや、西門さんが二股をかけられているということ?
もしかして、瑠璃ちゃんって人は西門さん顔負けの遊び人なの?
あんな純情そうな可愛い顔して・・・と疑問がグルグルめぐる。
このことを西門さんに告るべきか、でも、そんなの聞いたら男としてどうなのよ。
頭の中でバトル寸劇が始まって、逆上する瑠璃ちゃんが居たり、苦悩する西門さんが居たり、だから私にしておきなさい!とせせら笑う自分を横からなじる自分が居たり。
ドキドキしながら、西門さんのマンションにたどり着いた。「こんちわ~!厚かましくやって来ましたよ~。」
西門さんはもう松葉杖に頼らず過ごしていて、びっこを引きながら迎え出てくれた。
「牧野、荷物はこの部屋な。」
指差す部屋を覗いてみると、窓際に木目チェスト、窓にはパステルグリーンのブラインドウ、そして同系色のカバーがかけられたクィーンサイズ・ベッドが置かれている。
「え?まさか、私の為に用意してくれたの?」
「どのみちゲスト・ルーム用だから。」
西門さんはポケットに手をかけ、首をかしげながらサラリと言う。
「ソファーでもよかったのに・・・。」
「俺が困るの。一応女だろ?」
「え?」
ビックリして見つめていると、私のリアクションが意外だったらしく、え?っという表情で見返された。
「女扱いされてたんだ・・・私。」
呆れたような溜息をつく目の前の男に、なんか悪いことを言ってしまった気がする。
「あ・ありがとう。ごめんね、気を遣わせて。」
感謝しながら謝って、なんだかややこしい変な顔だったかもしれない。
「バーカ。」
は?
そして、なんだか笑っている?
ポケットに手をつっこんだまま、リビングに向かう背中はなんだか笑いを堪えているみたいで、とっても懐かしい後姿だった。
バーカ・・・。
そんな軽口がこんなに私を喜ばせてるのに、気づいてるのかな、西門さん。
嬉しくて、なんだか気持ちがいっぱいいっぱいで、口からこぼれてしまいそうになる。
「西門さん!ありがとう~!」
手を口の横に当て、声を張り上げてみた。
つづく
注)インフラ事業について・・・インフラとは基盤・下部構造などの意味を持つinfrastructureの英単語の略。一般的には上下水道や道路などの社会基盤のことで、生活に欠かせない部分を作る事業のこと。一部Wikipediaより引用
現在、日本の総合商社は中東各国から淡水化・発電・鉄道事業・その他の受注を受けるなどしており、投資ファンド作りにも積極的に動いていると新聞に掲載されております。 -
shinnjiteru58 58.
初めてこの隠れ家に足を踏み入れてから、訪ねた回数は片手を越えた。
マンションは何もかもが新しく機能豊かで、始めのうちは感嘆ばかり。
お洒落なオープンキッチンの機能に慣れてくると、新聞を広げる西門さんを盗み見しつつ、野菜を切ったりなんかして、まるで新婚生活みたいとニヤケることもあったりして。
そんなマヌケ顔が見られやしないかヒヤヒヤしつつ、夕食作りは大きな楽しみにもなっている。
まずは、持参したボードゲームを取り出し広げることにし、西門さんを強制的にソファーに座らせた。
そして、私は地べたに割り座で座り、説明書を読み上げる。
スタート地点に自分のコマを置き、サイコロを振り、ゲームスタート。
西門さんには気の毒だけど、有無を言わさず、巻き込んじゃう。「えっと、何々?10万ドル出資した会社が倒産・・・。どういうこと?」
説明書とにらめっこしていると、西門さんが説明書を貸せと手を出してきて、目を通すなり、あっさり解読。
「牧野は10万ドル銀行へ渡して、振り出しに戻る。」
「うそっ、いきなり出金?」
「そう書いてあるだろうが・・・。どこ見てるんだか。」
「フン。」
ムッとしながら、手持ちから10万ドル紙幣をつまみ上げ、西門さんの目の前でヒラヒラさせて上蓋の中に放り込む。
「ククッ、ゲームにそう真剣になるか。」
「悪いけどね、お金には西門さんよりず~っとシビアなんだから、ゲームでも同じなの!」
「・・・ふっ。」
西門さんは幾分表情を和らげ、上半身を乗り出して、サイコロをボードの上へ転がした。
それが転がりすぎて、テーブルから落っこちて、コロコロ コロコロ ・・・。
私の横を通り過ぎ、オーディオ機器の近くまで行きようやく止まる。
「もう、西門さん、力入れ過ぎだよ。」
「わりぃ~。」
私は四つん這いで取りに行き、いたずら心で、その場所からおもむろに西門さんへサイコロを放り投げてみる。
「うおおっ!・・・。」
「わっ、西門さん、ナイスキャッチじゃん。」
無意識に掴んだサイコロを胸の前で握り締め、ビックリしていた西門さんは固くなった身体から見る間に緊張を解いて、表情を緩めた。
そして、柔らかく口元をほころばせ漏らしたのは、太く温かい響きの声だ。
「お前・・・。」
ややあって、ふいに右手にサイコロを持ち直し、私に向かって投げ返そうとするから、ドギマギしながら両手を胸の前で構えた。
「・・・な~んて俺がするかよ。
・・ったく、牧野のスローイングは厚かましいというか、やっぱスゲエわ・・・。」
西門さんは片方の口角を少し上げ、言外の意味をたっぷり含ませながらニヤリと笑う。
「 ! 」
この顔・・・西門さんだ。
懐かしい西門さんだ・・・。
昔の西門さんにはもう会えないと何度諦めかけた事か。
再び見れた喜びは、尊く貴重で、痺れに似ていることに気付く。
懐かしく温かく、じわりじわりと胸の中に広がって、待っていたかのように乾いた表面が潤い出すのを感じた。
そして西門さんは私の気持ちを知ってか知らずかニヤリと笑い、ボード上のもう一個のサイコロを渡すようにと手を差し出してくる。
目の前にあるサイコロを拾い上げ、空(くう)で弧を描くように放り投げた。
西門さんは右手で上手にキャッチする。
少し斜めの暴投気味だったけど、ちゃんとキャッチして、サンキューって・・・。一方通行の厚かましさにようやく慣れたと思っていた。
あぁ・・・ふいに訪れたこの展開、思いがけなく抜け出せそうな予感に全身がビリッと痺れる。
どう返事していいのか戸惑うけれど、行ったり来たりの相互通行は久しぶりの心地良さ、しばらくこのまま脱力してプカプカと身を任せてみたいと思った。
胸の奥に押し込んでいた昔の西門さんが、釣り糸で引き上げられるように浮上を始め、面白いように色んな西門さんが次々と上がってきて、頭の中には西門さんがいっぱい、次々と重なり合っていく。
静かな茶室で、お茶を点てる西門さん。
真っ直ぐに伸びた身頃から続くしなやかな腕。
きりっとすぼめられた口元は石像のように不動のまま、指先は音を成すように美しく踊る。
それから
区民センターでお気に入りの茶腕を愛しそうに見つめるきれいな横顔。
「焦げそうなんだけど・・・」と横を向いたまま言う涼し気な声色。
水戸の梅園、場違いな黒い革ジャン姿。
私の手を取り、茶会に紛れる不可解な横顔。
心を奪われそうになる銀色に光る瞳。
見つめてきた真摯な瞳。
激しくどんどん膨れ上がり、浮かんでくる昔のイメージはあっという間に大きくなって、目の前の西門さんと一体化しそうなほどの量感で眩暈がしそうだった。
私は頭を左右に振り、現実に立ち戻って目の前の男を眺めた。
ゲームボードから顔を上げた西門さんは、次は私の番だと人差し指でボードを示している。
何をやらせてもスマートな男だけれども、白いドレスシャツにはシミ一つ見当たらなくて、憎いくらいに似合っている。
・・・胸がキュンとした。お弁当はいつもと大差ないはず、でも、不思議と格別美味しい。
一緒に過ごせることが素直に幸せで、それは聴覚や視覚、そして味覚からも感じられるものなのだ。
さんざん腹を立たされ、そして、焦がれるほどに会いたかった人が目の前にいて、普通に会話できるこんな穏やかな時間に戸惑う私。
干上がりかけた水槽に再び液体が貯まり始め、無くなり始めてようやく気付いた平穏の尊さが身にしみる。
望んだ場所で微笑むことに、感謝せずにいられない。
西門さんが美味しいと感じる顔を発見し、胸の内で高声を上げ、それだけでお腹がふくらんだ。ピンポーン♪
リビングに入ってきたのは瑠璃ちゃんだった。
「あっ、こんにちは。」
「・・・えっと、前に、このマンションの入り口でお会いした方ですよね?」
「そ・そうです!あの時の・・・。」
「こいつ、学生のころからの知り合い。牧野つくし。」
「学生の頃からのお知り合いの方?」そして、瑠璃ちゃんと初対面の挨拶を交わした後、彼女は用件を切り出した。
「西門さん、これ、頼まれ物の書類です。
あと、近くを通ったからこれも。専門学校なんですけど参考になるかと思って。
ここに置いておきますね。」
「手数かけたな、助かった。」
「いえ、これくらいのことならいつでも。」
そして、彼女はキッチンへ入って行き、慣れた手つきで冷蔵庫を開け、手に持っていたスーパーのビニール袋を袋ごとしまい込んだ。
私は地べたに座り込んだまま、瑠璃ちゃんがあいかわらず可愛らしく西門さんに尽くしている様子を眺め、他の男と楽しく笑っていたのを思い出さずにいられない。
一体全体、西門さんとどういうつもりで付き合っているのか、喉元まで声が出掛かり、急いで唾を飲み込むと、次に瑠璃ちゃんは西門さんのベッドルームへ当然のように入っていった。
ヒャ・・・入っていったよ。
西門さんを振り返れば、説明書を手に取り読んでいた。
「ねえ、西門さん、彼女のことよくわかってる?」
「は?」
私は、鼻先を西門さんのベッドルームの方へ向ける。
「ああ・・あいつのことか、わかってるつもりだけど。それが、何?」
「・・・。」
「叔母が何かと不便だろうからって付けてくれたんだよ。
あいつ、手術直後は泊まりで世話してくれたし、通院や買い物・・・外出の時はいつも付き添ってくれて、地元に詳しいし、よく気がつくし、便利な奴だから。」
「でも、それだけじゃないじゃん。でしょ?西門さん。」
「・・・。」
「あのさ、二人でちゃんと話し合ったほうがいいと思うよ。」
「牧野、何が言いたい?
強引に入り込んで、男女交際について干渉?」
「・・・っ!?そんなつもりはないんだけど、ただ心配で。」
「それは心配じゃなくて、ジェラシーという面倒くさい感情?」
「違うよ!!まっ、そりゃ、全部は否定できないけどさ・・・はは。
でもほんと、これは違うのよ。
例えば、西門さんが知らない事に、女の私が気付いてしまった場合だってあるでしょ。」
「何だよ、それクイズか?
俺が知らなくて、女の牧野が気付いてること?
そんなのあるか?」
「んも~、例えば、二股かけられてるとかさ。」
「俺が二股かけられてる?
まっ、それはあるかもな。俺は、その点、寛容なの。」
「えっ?ありなの?」
「そりゃあ、仕方ないだろうが。」
「ちょっと待って西門さん、決まった相手でもってこと?」
「牧野、それは具体的に瑠璃ちゃんを特定して喋ってるのか?」
私は答えずに黙っていた。
すると、沈黙を破るように背後から女の人の声がした。「西門さんとは身体だけ・・・了解済みですから。
私、ずっと愛してる人がいるんです。」
振り返ると、瑠璃ちゃんが平然と立っていて、清純な表情を湛え私を見つめていた。
驚いて、西門さんと瑠璃ちゃん二人を代わる代わる眺めたけれど、どちらの眉もピクリとも動かず、お互いの瞳には種火さえ灯ってない、二人とも平静そのものと結論づく。
「愛してる人って、今日一緒に歩いていた眼鏡かけてガッシリした男性(ヒト)だったりする?」
瑠璃ちゃんは小さく頷いた。
西門さんは、溜息とともにドシリとソファーの背もたれに身体を倒したようだ。
「でも、何故?瑠璃ちゃんみたいな真面目そうな子が、どうして?
西門さんに無理矢理・・って訳じゃないよね?」
「おい!俺は犯罪者か?」
「いいえ、西門さんには感謝してるんです。
どうにもならない袋小路ってあるんですよ、そんな時に西門さんに出会って、思い切って飛び込んだ。
・・・だって、西門さんって誰が見ても素敵って思う人でしょ。
彼は詮索せずに優しく抱いてくれました。」
「あのさ、男にしか女を救ってあげられない時もあるんじゃないか。」
西門さんはこの話を締めくくるようにそう言ってから、立ち上がった。お互い納得済みって事は私にもわかった。
男女の間のことなら、私が口を挟むことじゃないだろうし、わかったようなわかっていないような割り切れないままでいい話なのかもしれない。
でも、どうもしっくり来ない。
やり過ごせない。
金沢駅で見た瑠璃ちゃんと眼鏡の人の姿が浮かぶ。
仲良さそうにしていた二人の障害って何だろう。
不倫?
私は黙ってられなかった。
「西門さん、全部、知ってたの?」
「まあな。」
「瑠璃ちゃん、相手の人とこれからも不毛な関係を続けるつもり?
それでいいの?
それで幸せになるの?
そんなに愛してる人なら、奥さんか瑠璃ちゃんかちゃんと選んでもらいなよ。」
「ふっ、牧野さん、あの人はね、結婚適齢期の独身男ですよ。」
「独身?」
ゆっくり頷く瑠璃ちゃん。
「じゃあ、どうして?」
「・・・血の繋がった実兄なんです。」
「は?実兄って、お兄さんってこと?」
「そ、こいつ、ブラコンなの。ブラザー・コンプレックス。
誰にもどうしようもない関係。」
「私、ずっと兄が好きで結婚する気でいたんですから、ふふっ。
兄とはキスまでの関係。
その先は怖くて進めなくて、断ち切りたくても離れられなくて、兄も私も苦しんでいました。
何かの悪い因縁なのかとお祓いなんかもしてもらいましたけど、結局、ずるずると感情を引きずって、そんな時に西門さんと出会ったんです。」
呆然としたまま、西門さんに視線を向けると、西門さんは素知らぬ顔でサイコロをボードの上に転がして、綺麗な指で私のコマを摘み上げた。
つづく -
shinnjiteru59 59.
ベッドルームのダウンライトを最小限の明るさまで落とし、マシュマロのように柔らかな素肌の上を指の腹でゆっくり這い回る。
そして、その度、自分より小さなその肢体に夢中になる。
男は誰でもそんなもんだろう。
折り曲げ、くねらせ、陰影の深みまで堪能しつくし、最後に中身をいただく。
果ててしまえば、ドッと重力を感じ、耐えられずに全身ベッドに沈み込む。
生娘だった瑠璃ちゃんは回数を重ねた分、包容する準備にも慣れ、抱き心地もよくなってきた。
だが、容赦なく激しく抱いてしまうのは、それだけの理由でないことをこいつも気付いているだろうか?
隣で天井を見つめたまま何も発しない裸の女。
もしかして、やり過ぎたか?
「瑠璃ちゃん、大丈夫か?」
「・・・。」
ダウンライトの明かりをほんの少し上げ、肘をマットに付きながら瑠璃ちゃんの横顔を伺った。
すると、透明の液体が目の端からみるみる湧き出て、耳の方へツーっと流れ落ちる。
「ど・ど・どうした?なんで、泣いてる?どこか、痛むのか?」
首を振る瑠璃ちゃん。
「じゃ、何がつらい?」
「つらいよ・・・何もかも。」
「何もかもって、身体のどこかが痛むとかじゃないよな?
胸ん中の話だろ?」
「・・・ねえ、私をどこかに連れ去ってくれない?」
瑠璃ちゃんは、ずっと天井をみつめたまま涙を隠そうともせず、俺にそんな無茶を言う。
「・・・どこに行きたい?」
「どこでもいい、誰も居ないところならどこでも。」
「大好きな兄貴がいない所でいいわけ?」
「ううっ・・・結局、私は行くとこ無いの。」
「何を言ってる?何かあった?」
俺は瑠璃ちゃんの頭に手を載せ、優しくあやすように撫でてやる。
「・・・うっ。」
「・・・。」
「もう、西門さんの所には居れないよね。」
「何でだよ。
好きなだけ、居ればいい。
瑠璃ちゃん、牧野に言ってただろ。
俺たちは身体だけの関係だって、始めから割り切ってただろ。
今さら何?
それとも、目的達成したら、一回きりでお終いの方がよかった?
俺も俺だったけど、合意の上だっただろ?」
「わかってるよ。
よく覚えてる。
飛び込まなきゃぁ、わからないと思ったあの時の勇気、男になんかわかんない。
忘れてる訳じゃないの。」
「じゃあ、俺を選んだこと、後悔してるわけ?」
「・・・そうかもしんない。」
「兄貴と何かあったから?」
「別に無いよ。
あってくれたら、笑って万々歳なのかもしれない。
男性(オトコ)に抱かれてること、とっくに気付いてるくせ、その話題は腫れ物扱いだし。
胸も触ってこない、キスだって西門さんがするのとは全然違う。
あいかわらず、放し飼い状態だもん。」
「じゃあ、なんで泣く?」
「幸せになれなくて悲しいから・・・。
どうしていいかわからなくて、涙が勝手に出てくる。」
「そんなの、考え込んでも仕方ないんじゃないか?」
「でもね、西門さん、私って空っぽな入れ物じゃないんだよ。」
「・・・ふん?」
「西門さんが激しくなるのは、牧野さんを頭に描いてるからでしょ?
だって、彼女が来てからだもの。
時々、私を抱きながら、頭の中で違う女性(ヒト)とすり替えてる。
身代わりはイヤ。
我儘なんか言える立場じゃないの、わかってる・・・けど、そんなの悲しいよ。
なんだか自分でもよくわからない、どうして泣いちゃうんだろ?」
「・・・。」
「好きなんでしょ?西門さんは牧野さんのことをとても。」
「昔・・・好きだった。」
「うそ。」
「牙城が高くて、面倒くせー女。
そんなのに手出すわけないだろ。」
「つまり、西門さんに意気地がないだけなんだ・・・わざと目を反らして諦めているだけ。」
「はあ?」
瑠璃ちゃんが涙を見せながら、俺にパンチを喰らわせるような女だったと思ってもみなかった。
小さな青い実だったくせに、裸の間柄になると、突如として熟れた果実の芳香を感じさせるのが女。
不思議な生き物だ、わかんねえ。
まさか、瑠璃ちゃんがそこまで踏み込んでくるとはマジで驚いた。
そのつぶやきは胸を突いた響きだった。
なぜなら、それは図星だったからだ。やがて、金沢に夏が来た。
ギラギラした太陽が照り始め、開け放たれた窓から子供達の泣き声が大きく聞こえるようになった。
夕暮れにはいっせいに蝉が鳴き始め、実家の庭園を思い出させる。
「西門さん!ニュースだよ。
今度ね、F3がここに来るってさ。
もちろん、滋さん達も一緒でね、昔みたいに騒ごうって話になったのよ。
ねっ、いい話よね?
類の帰国に合わせてスケジュール調整するって言ってたけど、西門さんのスケジュールは?」
牧野が皮肉を言っていないのは承知だが、多忙な旧友達に比べ、無職の俺が忙しいわけも無い。
「了解、日にちが決まったら教えてくれればいいし。」
「うん!」
実家に頼りきった毎日、ここではまるきり風来坊だ。
この生活も長くなり、板についてきた。
大事な予定すらなく、事故前の忙しさはまるきり違う世界の住人で、あれは遥か昔のように思える。
「牧野、今日は美術館でも行くか?」
「西門さんの注釈付きで観て回れる、やった、ラッキー!」
牧野は俺が誘うといつも嬉しそうに笑い、そんな顔が見たくて、まあいいかと誘ってしまう、一瞬の牧野の明るい笑顔に癒される俺。
やっぱり見たいものは見たいから、いつの間にか、再び、あいつを受け入れていた。
牧野がここに来始めて半年、改めて、あいつの図々しさに幾度も唖然とさせてもらった。
言葉を変えれば、あいつの芯の強さに閉口し、降参したのだが、そもそも牧野は気付いた時には俺の中に入り込み、いつの間にか勝手に住みつきやがる奴だった。
天下のF4の一人、ポーカーフェイスで知られた俺が心に蓋をして、隙を見せずに対峙していても、あいつだけはスーッと心に入り込み、フッと緩ませる何かを持ってる。
そして、俺の関心を捉えて離さない奴だった。
「西門さん、前から気になっていたんだけど、このパンフレットは西門さんのためのもの?
もしてかして、学校に行こうって考えてるの?」
牧野は、積まれた大学案内のパンフレット等を手に持って、ペラペラめくっている。
「まだ、決めてない。」
「そうだよね・・・ゆっくり考えなきゃ、これからのこと。
私で何か出来ることがあったら、何でもするから言ってね。」
「おう、サンキュー。」
牧野のTシャツから伸びた二本の腕と細いジーンズのウエストは、とても頼りないにもかかわらず、俺を助けようとする笑顔はものすごくデカイ。
「でも、西門さんがまた学生に戻ったら、私も並んで一緒に勉強したいな~。
最近、学生時代にもっと勉強しておけば良かったなってよく思うのよね。」
「おい、誰が学生に戻るって?」
「え?勉強するつもりでパンフ集めてるんじゃないの?」
キョトンとする牧野。
「・・・教える側。
講師とか、色々あるだろうが。
実際、話を貰ってるから、それで調べ始めたってところだ。
飯食うための給料貰うってこと。」
「あ!そっか。
女子大だったら、やばいんじゃないの?
モテモテで、授業にならなかったりして・・・ハハハ。」
ストレートの髪を揺らし、出かける用意をし始める牧野を見ながら思う。
こいつさえ側に居てくれれば、後はどうでも関係ないと・・・。
今の俺は、確かに意気地が無い。
諦めなければいけないと思いたったあの時点へもう一度戻り、今の自分と真正面から比べてみる。
そして、何を選ぶべきかもう一度考え始めた。
つづく -
shinnjiteru60 60.
俺は瑠璃ちゃんから届いたポストカードを手に取り、再びその写真をじっと眺める。
一週間前、海外からの絵葉書が郵便受けに入っていた。
異国情緒たっぷりな風景は、アジアンチックな観光名所で、静かな夕刻の様子を伝えている。
陽が沈みゆく時刻、緑豊かな美しい場所に、それぞれ頭上に設置された細いアローの先っぽを、グレイッシュブルーの大空へビュンビュン放つように真上に伸ばす真白い仏塔郡の写真。
木立の影になって、ほの白く浮かびあがる背の低い仏塔郡、その左手に胴体が一際大きく背の高い黄金色の仏塔があり、そこだけ残照が反射し神々しい気品と輝きを見せている。
Wat Suan Dok, Chiangmai, Thailand
確か、チェンマイ王族の墓。
裏を返すと、瑠璃ちゃんの小さな字がびっしりと並んでいた。ご無沙汰しています。しばらく西門さんへ連絡しなくてごめんなさい。 実は今、タイのチェンマイにいるんですよ。強引に兄の出張についてきて、3日目です。この絵葉書、きれいでしょ?昼間の時間つぶしに行ってみたら、こんなきれいなお墓を見つけました。世界に目を向ければ、色んな形のお墓があって、異教徒でさえ心惹かれるものですね。日本に帰ったら、私もどこかに連れ去ってくれる人がいないか本気で探してみようかな。お部屋は兄と同室ですが、(告白です!)昨夜は西門さんの肌が恋しいと思いました。身体は正直で困ります。でも、兄以外にも男は居るって希望が湧いてきます。ありがとう、西門さん。お元気で。瑠璃子より 生活面は母屋の人が来てくれるし、金沢を一人でぶらつくことも平気になってきた俺は、瑠璃ちゃんから長く連絡がないことに気付きながら、こちらから連絡しないでいた。
『・・・時々、私を抱きながら、頭の中で違う女性(ヒト)とすり替えてる。』
そう指摘する瑠璃ちゃんをさらに傷つけるわけにもいかなかった。
単純にはけ口として利用し続けた俺は責められて当然と思っていたが、瑠璃ちゃんは遠い異国でどう整理つけたのか、今も俺に感謝しているみたいだ。
女って、やっぱわかんねえ・・・繊細なようで、俺よりよっぽど図太い生き物だよな。
あの雑草女の牧野だってどんな神経してんだか、へこたれねえ所、驚異的だし。
瑠璃ちゃんがどういうつもりで兄貴の出張について行ったのか触れられてないが、何かの決意を胸に秘めた旅だったろうし、幸せ探しの旅なのは間違いない。
心休まる風景とタイの人々の微笑みが、苦しむ瑠璃ちゃんの心を宥め、落ち着かせ、そしてゆとりを分け与えたのだと想像できる。
ブラコンなんて、ヤバイ奴じゃねえかと思ったけれど、話を聞いてみれば、まともな考え方をするちゃんとした娘だった。
その悩みにはさすがに共感してやれなかったけれど、何度か抱いているうちに、あいつの瞳の中にも俺を求める普通の女の欲望がちゃんと見てとれて、望み通り、新しい世界に連れて行ってやれたと思ってる。
まあ、俺も随分楽しい思いをさせてもらって、こういう場合、どちらかというと男が得だよな。
結局、瑠璃ちゃんは俺に見切りをつけ、歩き出す気になったということで、この絵葉書は俺からの卒業宣言ってことか・・・。
俺も牧野に対して、いつまでも中途半端な態度を取るわけに行かないし、かといってこのまま、牧野の気持ちを受け入れ、なし崩し的にあいつを抱き寄せてもいいものか?
こんな俺に牧野を幸せにすることができるのだろうか?
今の俺に一体何が残っている?
どこをひっくり返しても、何もないだろ。
まだ何も取り戻していないだろ。絵葉書をひっくり返し、再び異国の、それも大昔の王族の墓を虚ろに眺めた。
黄金の塔は威厳に満ちて美しい。
かつて俺が目指していた茶道の世界にもこれとよく似た象徴があったことを思い出さずにいられず、実家の顔ぶれと今生庵の古い佇まいが脳内をよぎる。
王族達は皆、終生の役目を全うし、この美しい墓所で永遠の眠りにつくのを許され、さぞ盛大に黄泉の世界へと送り出されたことだろう。
幼少の頃より剣術の練習・戦術の勉強、さらには帝王学を叩き込まれ、即位後は、己の解放を慎まねばならない孤独を背負い、生きぬいた者達の安住の墓。
だからこそ、こうして一際輝いていられる。
あの強靭な気力なくして、勤まらないのが王座だと理解する。
こんな風に理解できる環境に育った俺なのに、今の俺はどうだ。
途中でドロップオフし、メインロードに背を向けたまま、今はのらりくらりと過ごしているわけで、都落ちもいいところ、西門流の歴代の家元にどうやって顔向けできるだろう。
俺は一体何をやってるのか。
事故から既に随分日がたっているのに、立ち止まったまま一つも進めてはいない。
茶道も牧野も、全てを諦め放棄し、ここ金沢で一体俺は何を探すつもりだったのか。
納得できるビジョン、いや生きていく方向性さえつかめないまま、月日が過ぎていた。
与えられた一度きりの人生、レールをどこにスウィッチさせて最後まで全うしたいのか霧の中だ。
だが、ここでハッキリわかったものもあった。
それは、俺には牧野の笑顔を跳ね除ける術が、情けないくらい微塵も無く、愛しい女はますます愛しく、ますます大事な存在になりつつあるということだ。
俺の腐った心の窓は牧野によって、こじ開けられ、新鮮な空気を無理矢理送り込まれた。
最初は戸惑い追い払うつもりだったのに、所詮、そんなのは無理なこと。
牧野のあの強い瞳が俺を見つめ、耳に届く伸びやかな声で、小さく震える細い肩と僅かに紅潮した頬を俺に見せつけながらああ言った時。
『お願いだから、私を拒まないで・・・。』
あの時点で、俺は降参だったのかもしれない。
か細く、表面を張る薄い膜のような言葉が俺を包み込んだ。
心底、あいつを拒めることなどできるわけない。
牧野、お前は待てるか?
こんな俺を信じて待てるか?
俺が自信を取り戻すまで待っていられるか?ピンポーン♪
インターホンをのぞくと、本物の牧野がそこにいた。
ポストカードを乱暴にテーブルに置き、俺はすぐさまロックを解除する。
「西門さん、また来たよ!今回は2泊、よろしくね。」
フォークロワ調のショート丈のワンピにスパッツという軽快ないでたちの牧野。
あいかわらず薄化粧の顔は、はるばる遠出してきた26女にしては、えらく気を抜いてるんじゃないか。
けれども、まあ、それが可愛いく見えるのだから、俺の趣味もよくわかんねえ。
「西門さん、早速だけど、今日は買い物つきあってよ~。
明日は、いよいよF3と滋さん達が来る日だもんね、準備しないと。」
「だから、料理は母屋に頼めばいいって言ったろ?
向こうは人がいっぱいなんだから、何の遠慮することもないって。」
「いいの、いいの。
私の発案なんだし、迷惑かけたくないよ。
それに、西門さんも手伝ってくれるでしょ?」
「俺が?料理のヘルプ?」
「そう!まあ、頼んない助手だけど、背に腹は変えられないし我慢してあげるよ・・・ッフフ。」
牧野は慣れた手つきで、冷蔵庫を開けミネラルウォーターをグラスに注ぎ、それを一気に飲み干した。
「あ~、おいし!生き返る~。」
「今日も外は暑かったか?」
「外はまだまだ残暑がしぶとく残ってる。
西門さん、朝はちゃんと起きて、太陽の陽を少し浴びたほうがいいよ。
ずっとクーラーの部屋ばっかだと病気になっちゃうから。
あれ?ねえ、これ・・・素敵な写真・・・アジアっぽいけど・・・エアメール?」
牧野はテーブルへ行き、絵葉書の仏塔郡を眺めている。
「その写真はタイの王様のお墓。
前ここで鉢合わせした奴いただろ、あいつから。
兄貴と一緒に行ってるらしいわ。」
「瑠璃ちゃん?お兄さんと旅行なの?」
「日中は一人で観光地をブラブラ散歩して、あまりハッピーな旅行じゃないみたいだけどな。」
「そうなんだ・・・大好きなお兄さんと一緒なのに残念だね。」
「あいつ、もうここには来る気ないんだと。
どうやら、俺、振られたみたい。」
「え?・・・私が余計なこと言ったせい?
瑠璃ちゃん、そんなに気にしてたの?」
じっと絵葉書を凝視する牧野。
牧野が気を病むことは何もないのに、すぐ自分のせいにしたがって、また瑠璃ちゃんのことを心配してる。
「裏を向けて、読んでみろよ。
スッキリしてるみたいだから。」
牧野はゆっくり絵葉書を引き寄せ、頭から読み始め、そして読み終わるなりポソッとこう言った。
「きっと、瑠璃ちゃんは・・・西門さんともっと一緒にいたかったんだね。
もしかして、好きだったのかな。」
「いいや、そんなことないって。
俺らそんな甘いムード一切無しのあっさりした関係だから。
本人自身がそう言ってただろ。
まあ、牧野の出現にはちょっと焦ってたみたいだったがな。」
「焦ってるってことは、既にもう感情がからんでるじゃん。
やっぱり切り離せないものなんじゃないの?
最初は身体だけのつもりだったけど、心も動いちゃった・・・。
西門さんのこと、お兄さんとは違うところで、大切に思い始めてたんじゃないのかな・・・言えなかったんじゃないのかな・・・瑠璃ちゃん。
女の意地だけで焦ったのなら、こんな風に告白付きのカードなんて送ってこないよ。
そんなこと、一緒にいて西門さんが見抜けないはずないんじゃないの?」
下から見上げてくる視線は、伺うようにも責めるようにも取れる。
瑠璃ちゃんが見せた涙を思い出すと、牧野が言ってる事も有り得なくない・・そう思えなくも無い・・・確かに。
深く関わることを怨むように避け、『同じ女とは三回まで主義』と得手勝手に決め込んでた俺は、媚びてくる女の扱いや女の子を気持ちよくさせてあげるのはお手の物だったが、あんな長続きするなんて異例中の異例、初めてのことだった。
まあ、足の故障でついに年貢の納め時と諦念すら悟っていた俺には、三回主義など昔話にしかならず、本能のまま瑠璃ちゃんを抱き続けたのだ。ずっと雲を抱くような実体の感じられない不思議な感覚、ずっと靄の中での交わりのようだった。
情けなく余裕もない己の有様に背を向け、牧野への恋慕からも背を向け、瑠璃ちゃんと一緒に靄の中へ逃げ込みたかった俺の甘えで新たな悩みを与えてしまったなら本当に申し訳ない。
どんだけ複雑にこんがらがっていたんだろうか・・・瑠璃ちゃんの胸ん中。
けど、つくづく女はわかんねえ。
男と女の違いと言えばそれまでだが、最後まで心と身体を生理的に割り切れるのが男。
俺の気持ちがブレることなんか考えられない。
心に入って来た奴は、一人。
目の前に居る奴だ。
絵葉書を大事そうにテーブルに置いた奴。
・・・ただ一人だけ。
「牧野。」
「ふうん?」
「俺、やっぱお前のこと好きだわ。」
つづく -
shinnjiteru61 61.
「そんなに悩むなら、どっちも買っちまえよ。」
「私は1束だけ買いたいの。」
「たかが野菜だろ?余ればまた食べればいいだけだろ。」
「馬鹿なこと言わないでよ、一つで十分。」
西門さんは助手として大型カートを押しながら、子供のようにピタリと後ろから付いてきて、それは歓迎なのだけど、その口にチャックはついてないの?
案外、せっかちなんだ、西門さん。
「お前、さっきからどんだけ野菜に時間かけてる?」
「そりゃそうなんだけど、いいじゃない。これも楽しいの!」
答えながらも、手と目は忙しく動くのを止めない。
「ッフ、目を皿のように・・・そんなに真剣になるか?」
クレソンの大束を2つ手に取ったまま、呆れたような顔を作って振り返った。
「私は食べたい物を買いたいの、ちょっと黙って待ってて。」
何もわかってない、西門!
料理のイマジネーションはここから始まってるのよ。
野菜売場は吟味の勝負の場なの!
玉ねぎなら、芽が出ていなくて、全体が均一でしっかりしているもの。
じゃがいもなら、表面に皺・傷が無くハリのあるもの。
トマトなら、見るからに赤くツヤがあり美味しそうで、ヘタが元気に緑色のもの。
スーパーに並ぶ商品に目が利くのは育った環境の賜物なんだから。ようやく吟味し終え「行こ。」と告げると、休めの姿勢をほどきながら私に向かってニヤニヤするスラリと見るからのモテ男。
「何?」
「別に。」
「こんなことに一生懸命になって馬鹿みたいって思ってるんでしょ?」
「いいや、クルクル動いて、おもしれえなって思って見てた。
お前、何でも一生懸命だよな。
どっからそのエネルギー出てくるわけ?」
「西門さんとスーパーにお買い物なんて初めてだもんね、珍しいだけでしょ。」
「・・・ッフ。」
「そうだ、シャンパンを冷やしておく?
西門さん、ワイン選んでよ。」
「リョーカイ。」
スーパーはもともと酒屋が前身だったらしく、膨大な種類のお酒が並んでいて、お値段もピンからキリまで勢揃い。
西門さんは酒類の陳列棚を素通りし、壁側に設置された薄暗いワインパントリーへ入っていく。
主にビンテージワインが置かれてあるところだ。
その世界は西門さんにお任せするしかないのだけど、その中の一本買うだけで、今日の野菜が何セット買えるかわかっていますでしょうか?
西門さんにお任せすると、破産する。
「あの~、もうちょっと安いのでいいよ。人数もいることだしさあ。」
聞く耳を持たず、あれこれ物色している西門さん。
「ねえ、聞こえてる?あっちの棚に並んでるやつでいいじゃん。」
西門さんは顔をあげ、呆れた顔で口を開く。
「俺も飲みたいやつを買いたいの、ちょっと黙って待ってて・・・ッフ。」
語尾におちょくるような『・・・ッフ』がついてるし。
「もう、真似して。」
「おっ・・・そういえば、牧野、俺のサンドウィッチまだ食ってなかったよな?
明日の朝は、上手い手料理をご馳走してやるわ。」
ベーカリーコーナーの前で立ち止まり、スライスされたパンを遠目に見ている西門さんは良い事を思いついたように嬉しそうだ。
手料理って・・・サンドウィッチでしょ。
きっと準備で忙しい私に代わり作ってくれるのだろうけど、私には西門さんが一緒にそうやって旧友達のもてなしを考えてくれるのが何よりも嬉しい。レジでの支払いは全て西門さんがしてくれた。
「ごめん、また出してもらって。」
「トーゼン、そんなことくらい気にするな。」
何も言わなくても、西門さんは入れてもらった袋やワインをさっさと重い物から順にカートに戻し、助手として役立ってたりなんかする。
「よし、これだけだな?じゃ、行こう。」
「サンキュ、西門さん。」
笑顔でそう言い、タクシー乗り場へ移動しようと出口へ身体を向けると、サッと西門さんの左手が私の背中に伸びて来て、労わるように優しく押し出した。
小さいものを守るように添えられたその手は、もう離れない不思議な安堵感を思い起こさせる。
西門さんからそんな風に触れられるなんて、水戸の梅園以来のこと。
だんだんその手が背中いっぱい大きく感じられ、全ての意識が集中し始めると、とたんに心臓がドキドキうるさく鳴り始める。
スーパーではありがちな光景、けれど、私の頭はどう反応するべきかで大汗状態。
西門さんが出かける間際、あんなこと言うからだ。
『牧野、俺やっぱお前のこと好きだわ。』
沈黙の間ずっと私に向き合う眼差しは、焦点がつかめず、どこを見ていたのか・・・まるで私を透過するかのように深く、冷静でとても涼し気だった。
力みながら見つめていたのは私一人のようにも思え、もしかして、からかわれているのか?と思う。
けれど、冗談なんかじゃなく、観念したように率直で迷いのない様子だった。
余りに突然、しかもさらりと言われて、ホント調子狂うよ。
理解しようと見つめ返しているうち、西門さんが視線をはずした。「西門さん・・・・手・・・。」
「別にいいじゃん。好き合ってる者同士・・・だろ?」
好き合ってるって本気なの?
西門さんの意図がさっぱり読めなくて、どうすればいいんだか。
「牧野、さっき言ったこと冗談なんかじゃないって、マジだから。」
左手が背中からスッと離れ、カートへ戻っていく。
昼間の太陽は容赦なく二人を照らし、西門さんの黒いサラ髪と綺麗な肌色の鼻先はキラリと眩しくて、そのままジリジリ音を立て焦げていきそうだった。
つづく -
shinnjiteru62 62.
翌日の午前中は、予定通り準備に追われ、あっという間に皆を迎える時刻となる。
ピンポーン♪
「よお、総二郎、元気そうじゃないか。
お前なぁ、たまには連絡くらいしろよな。」
「おう、悪かったな。」
ハイタッチし合う西門さんと真っ白なTシャツに黒いジーンズ姿の美作さん。
胸元にはシルバーの男性用チェーン・ネックレスがキマッている。
二人とも白い歯を見せ、こぼれるような笑顔が贅沢に狭い玄関を満たす。
そして、合うなり抱きついてきた滋さんにバトラーを連れてきた桜子。
ますます大人っぽくなった優紀。
続いて、ダンボール箱を抱えた道明寺と類が顔を出し、二人とも西門さんの顔を見るなり口元を緩め、馴染みの挨拶を派手に交わす。
誰もが屈託無い笑顔全開で、肩に手を置き久しぶりだと言い合う様子は、まるで時計の針を巻き戻し、英徳のカフェにでもいるような光景で、懐かしさで胸が熱くなる。
見たかった光景を目の当たりにし、もう嬉しくて気を抜いたら大泣きしそうだった。
大きな男が4人もいて、ワンちゃんと派手な顔ぶれが揃うと一気にリビングが狭くなり、華やかでにぎやかな声があふれ出す。
優紀がダンボールを開けて、中から次々と名店のお料理を取り出し始め、感動しながら早速テーブルに並べた。
「じゃ、皆、座って!
すごく忙しい人達ばっかりなのに、ホント今日は集まってくれてありがとう。
皆が元気にこうやって集まれることに乾杯しよ!」
「牧野、総二郎に乾杯の音頭譲れよ。」
「道明寺・・・。」
まだそんな事させられない気がしていた私は心配で、西門さんを窺い見る。
水滴で曇り始めたシャンパン・クーペを手に取り、西門さんが静かに口を開いた。
「皆には心配かけて・・・それに長く連絡もしないで悪かったと思ってる。
でも、この通り、なんとか歩けるようになったし、もう大丈夫だから。
残念ながら、家元は弟の周三朗に任せることになったんで、今後、何かあった時はあいつの力になってやって欲しい。
俺は、お陰で放免され、今や自由の身。
もうしばらく、ここ金沢で静養生活を続けるかな。
兎に角、今日は再会を祝って飲もうぜ。」
それぞれ何を感じたのか、幼少の頃より一緒に過ごしていた男達は押し黙り、すぐグラスに口を付ける者は居なかった。
そこにこの人有り!と、パッと電気が付いたように滋さんの明るい声でパーティーの序奏が鳴り始める。
「はいはい、じゃあ、乾杯ね~。
つくし、今日はジェラートも持ってきてるんだよ!
それに、このプロシュートは絶品だから、こうやってクラッカーと一緒に食べる!」
大きな口を開け、アペタイザーを口に放り込む滋さんは、あいかわらずの食いしん坊で、底抜けの明るさでもって盛り上げる才能は天からの贈り物だよね。
「私、金沢って初めてなんですけど、東京のあのギトギトした暑さが無くていいですね。
西門さんがこんな避暑地に居てくれてラッキーですよ。
よかったですね、先輩。」
何だか意味ありげに言う桜子。
「そうだね、とてもきれいな所だよ。
滋さんも優紀も、明日は一緒に観光できるんでしょ?」
口をモグモグ動かしながら頷く滋さん。
「バトラーもお腹すいたよね~。出してあげましょうね~。」
キャリーから出てきたミニチュアダックスフンドは、その黒く光った鼻先を忙しくクンクンしながらテーブルに向かって短い脚を掻いている。
「そいつ、また大きくなったんじゃないか?
もう成犬だろ?やりすぎたら、太るぞ。」
「美作さんに言われなくても、わかってます。」
「そのタンクトップみたいの、パッツンパッツンじゃねえか。」
「こういうデザインなんですってば。」
突然、バトラーは桜子の腕をくぐりぬけ、テーブルの上に両足を載せたかと思うと、素早い速さで目の前のテリーヌをペロリと食べてしまう。
あわてて、テーブルのグラスや食べ物を避難させる私達を尻目に、長い胴体を翻し、テーブルの反対側へ移動するバトラー。
「こら、バトラー、ダメでしょ!!」
「ちょっと~、桜子、早く捕まえて!」
「おい、何とかしろよ!」
長い脚を揃えソファーに上げて避難する美作さんと道明寺。「おいで。」
混乱の中、場内のざわめきを知らぬかのような穏やかな低音が一声響いた。
「ほら、おいで。」
手にローストビーフのスライスを持って、腕を伸ばす類の声だ。
生成り色の麻のシンプルなシャツが、日焼けして精悍になった類によく似合っていて、ガラス玉のような薄茶の瞳は健在、ますます透明度を増しているみたいだ。
確かUAEから戻って、一週間もたってないはず。
時差ボケは治ったのだろうか・・・いつもマイペースな類が居ると何だか安心する。
「おいで・・・よしよし。」
バトラーは素直に類の手に捕まって、腕に抱きかかえられた。
「また、そういうカロリーの高いやつ喰わしていいのかよ?」
「ダメなの?」
「まあ、今回ばかりは仕方ないからいいです。
でも、デザートを抜きにしますから。」シャンパンに続き、ワインがドシドシあいていき、男達は自然に近況報告をし始め、私は道明寺が現在、道明寺グループ本社の副社長に就任し、メープル東京の代表取締社長を兼任していることを知った。
「もう社長かよ、司はすげえな。
俺はイタリア修業がまだまだ続きそうだな。」
「でも、あきらだってミラノのあの大きなイタリア支社の長やってるでしょ?」
「ああ、肩書きだけはな・・・下働きばっかだといってもいいくらい、企画から営業と幅広くこき使われてるぜ。」
「類、お前はいつまでドバイに行ってんだ?」
「う~ん、まだわかんないけど、もう落ち着いてきたから、あとは様子見て任せるつもり。
だってあっちは暑くてひどい渋滞だからね。」
「・・・ったく、お前はあいかわらずそんな暢気な事言ってるのか?
日本に帰っても、次のステップが待ってるだけだろうが。」
「うん、そうかもね。」
類はどこ吹く風のように、道明寺の言葉をさらりと受け流し、バトラーとにらめっこしてまるで子供みたい。
それにしても、あの日本語知らずの道明寺が、今は一歩先から振り返り、皆を心配してるなんて想像もしなかった事で、皆より少し大人に見えるよ。
道明寺の身体にピタリと張り付いたVネックの黒いTシャツ。
程よく締まった大胸筋と上腕筋はどうしても目に入る、女性なら誰でもその無駄の無いシャープなルックスに目を奪われるだろう。
クルクルとツヤのある天然の巻き毛の下には、はっきりとした目鼻立ち、血色のいい薄い唇は天下の道明寺グループを引っぱる厳しさと勢いを感じさせ颯爽とすら見えるのは、現在の肩書きを聞いたせいで、単なる思い過ごしかな?
昔、東の角部屋で優しい言葉を吐き、私に甘い口づけをくれた唇があれだったなんて、にわかに信じ難くて、思わずじっと見入っていた。
「な・な・なんだよ、牧野、俺の顔に何かついてるか?」
「ううん、別に///。」
「ふふっ、道明寺さん、貫禄ついてきましたもんね・・・、先輩じゃなくても見ちゃいますよ。」
「そうそう、滋ちゃんも司のこと惚れ直しちゃいそう♪」
「お前ら、今頃、俺様の魅力に参ったか・・・ふっ。」
「もう、私はそういうんじゃないってば!」
「牧野、総二郎が嫌になったらいつでも言え、なっ?」
冗談交じりにそう言う道明寺は、西門さんにも視線を向ける。
「いいな~つくしは。
もとカレからそんな風に言ってもらえるなんて、女冥利に尽きるってもんでしょ。」
「つくし、幸せそう。」
小さく微笑む優紀。
「そうかな・・・優紀も順調でよかったね。」
優紀は彼氏ができて、もう4年になる。
面白いジョークを飛ばす彼は、優紀のことをとても大事にしていて、そんな二人を見ているだけで幸せな気持ちをお裾分けしてもらえた。「なあ、総二郎、これからどうするか考えてるのか?」
「まあな。」
「お前、まあなって。
NYで何度か茶会に出たが、椅子に座って茶を点ててたぞ。
あれなら、正座じゃないし、十分出来るんじゃねえか?
今まで茶道バカみたいにやってきたのに、もったいないだろ。」
「おう、それなら、俺も出たことあるぜ。
大使館の関係者を招いて、オール立礼式の茶会だったな。」
「・・・。」
俯き押し黙る西門さん。
すると、類が立ち上がり、西門さんへバトラーを「はいっ。」って押し付けた。
「こいつ、牧野の匂いがするよ。」
西門さんの黒い半袖コットンシャツの胸元に茶色いミニチュアダックスフンドが納まる。
真に受けたのか、西門さんは恐る恐る鼻を近づけた後、不可解そうに首を傾げた。
「ちょっと!私は犬の匂いなのぉ?西門さんも類に合わせて匂わないでくれる?!」
「バトラーには最高級のシャンプーを使ってるんですよ!」
「牧野、こいつと同じの使ってるのかな・・・クスッ。」
滋さんと優紀まで、バトラーに近づき鼻を寄せようとする。
「え~、わかんない。ちょっと、先につくしのを匂わせて。」
「ヤダ、止めて、こそばいから、滋さん。
もう~、類が変なこと言うから~。」今度はポケットから携帯電話を取り出して、細長い指で触り出した類。
ブラブラとぶら下がるストラップに目が行き、それがバレンタインのプレゼントだとすぐ気が付いた。
ちゃんと使ってくれてるんだ・・・心がちょっと跳ね上がる。
類には銀製の音符やら、西門さんには本やら月のデザイン違いを、どちらにもマカライトが末端に付いた新進気鋭のアーティストさんの作品が気に入って決めたんだ。
西門さんもそれに気付いたようで、じっとそのストラップを見つめていた。
「総二郎、これいいでしょ、俺のお気に入り。」
類は機嫌よく面白そうにストラップを触りながら、独り言のように言う。
「おい、桜子、この犬。」
西門さんは不機嫌そうに桜子の腕にバトラーを押し返し、新しいワインボトルを手に取った。突然、パンパーンっと花火の音。
近所の若者が、終わりゆく夏を惜しみながら、残りの花火を始末しているのだろうか。
リビングのカーテンを開け、外をのぞき見た。
「あっ、あそこだ。
ねえ、皆、来て!花火やってる・・・よく見えるよ!」
「ホントだ。」
「どこどこ??」
「きれいね~。」
いくつかのシルエットがお地蔵さんのように並び、仲良く去り行く夏の風情を楽しむ。
思いがけない御興に、小さな歓声を上げながら喜ぶT4。
その時、私の腰に触れるものがあった。
横を見ると、ワインを一口啜り、その赤い液体が喉を流れ落ちていく様が見えるよう、上下にはっきり動く喉仏がすぐ目の前にある。
そして、ゆっくりこちらを向く西門さんの瞳とぶつかった。
温かい手はしっかり私を包むように添えられて、少し上滑りに背中へ上がり、瞳がだんだん近づいて、そのまま私の髪の中へキスを落としてきた。
へ?
西門さんの香りでむせ返りそうな状態の中、耳元で囁かれる。
「牧野の匂いの方がいいよな。」
言葉の魔力か、香りの魅惑か、それとも、お酒の酔い心地のせいなのか、一瞬、足の裏が痺れるような感覚で、立っているのも大変、痺れは腰まで駆け上がり、砕けそうになるのをなんとか立て直し、文句の一つでも言おうと口を開きかけた。
「オアツイネ、お二人さん。」
「お前らの仲のいい様子も見れたし、そろそろ俺ら帰るわ。」
「うそっ、もう?」
「おう、空港が閉まる前に行くわ。」
聞くと、道明寺のジェット便を小松に待機させているらしい。
F3は旧友を励ますため、数時間をあけてやってきたのだ。
観光どころか、これ以上ゆっくり出来ない様子。
そして、来た時と同じように、大きな男達はゾロゾロ廊下を歩き、挨拶を交わし合った。
「じゃあな、総二郎、ガンバレよ!」
最後に道明寺が西門さんの肩をたたきながら、大きな笑顔でそう言ったのが印象的だった。2週間後、空は高く、きれいな青色の秋晴れ。
乾いた風は木々を揺らし数枚の木の葉が、目の前を優雅に舞い落ちる。
夏の余韻は跡形さえ感じられな肌寒い午後だった。
西門さんが私にこう言ったのだ。
「牧野、聞いて欲しい。
もう、ここには来ないでくれるか?」
「え?」
「・・・ごめん。」
「急に何言い出すの?」
「頼むから、何も言い返さずに我侭を聞いて欲しい。
別に、前みたいに逃げる訳じゃあないぜ。
ちゃんと自分を取り戻したいから、納得できるまでは会わずにいたい。」
「ど・どうして・・・今・・・。」
「俺は牧野が好きだし、ずっと一緒に居られたら幸せだろうと思ってる。
多分・・・ずっと変わらないだろうと思う。
だから、こんな俺じゃあダメだろ?
いや、ダメなんだ・・・絶対。」
「何言ってるのよ!どんな西門さんでも私は側にいたいって言ったでしょ。
それが幸せなんだもん!」
口を一文字にして、何も言わず大きく首を横に振る西門さん。
「牧野が許しても、あいつらに恨まれるし・・・っふ。」
「あいつらって・・・。」
「ホント、牧野の気持ちは俺にとって一番ラッキーな事なんだろな。
でも、わかって欲しい。」
「いつまで?いつまで待てばいい?」
「簡単には行かないだろうし、長くかかるのは間違いないな。
だから、牧野を縛る資格なんか無いのもよく分かってる。
もしかすると、上手くいかなくてこれきりもう会えないかもしれないし。
もし、牧野がその気になったら、新しい恋愛や結婚をすればいい。
女なんだから、いつまでも馬鹿みたいに待ち続けるなよ。」
「そんな・・・。
ねえ、今までみたいに、側にいてはダメなの?」
「ああ・・・ごめん・・・誰にも遠慮することなく頑張ってみたい。
そういう性分なのかもな。」
「どうしても?」
「ああ。」
「未来のためだよね?前向きに考えてるんだよね?」
「ああ。」
「ずっと会わないつもりで追い返す訳じゃないんだよね?」
「もちろん。」
「わかった・・・。」
「・・・。」
「でも、一つだけお願いがある。
ずっと西門さんにお願いしたいと思ってたこと。」
「なに?」
「想い出が欲しい・・・忘れる事のない物を身体に焼き付けて欲しい。」
西門さんの瞳が凍りついたように開き、息を飲むのがわかった。
「・・・っ!?」
「だって、後悔したくないから。」
「俺が言った意味ちゃんと分かってるよな?
もう牧野と二度と会わない可能性だってある男なんだぜ。
俺たち何も約束してないんだぜ?」
「そんな事ないもん。
西門さんのこと信じてるもん。」
西門さんの喉仏が動き、信じられないというような表情を見せる。
「本気か?」
私は迷わずコクリと頷いた。
「後悔するのは二度とイヤなの。」
つづく -
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shinnjiteru64 64.
あれから、ようやく1年が過ぎた。
振り返れば一年なんて、たかが365日。
大したことないって今なら言える。
まだ暗く、陽が昇る前に動き出す新聞配達のバイク音。
子供達の挨拶が通りに響き、私も溜まった洗濯物のスイッチを入れる。
だんだん白から色づく空の下、日々の繰り返しをこなす音で、町が次第に目覚めていく。
にぎやかな営みが再び始まり、動き続ける人々の生活。
交差し合って成り立つ世の中、決して止まらないのを実感する。
移り変わる季節も愛しい。
朝露に光る朝顔を愛でながら、障子を開け放ち、きちんと点てた朝一のお茶。
すがすがしさに背筋がしゃんとした。
蒸し暑さも過ぎ去れば、蝉の亡骸も何処へ消えて、気付けばまた薄ら寂しい夏の余韻。
また一つ西門さんへと近づいていく。
ゆっくりと過ごせる穏やかなくつろぎタイム、一人まったりしながら、私の中の刻印とひっそり向かい合うのが好き。
身体の中に落とされた西門さんの思い出が、私を強くさせてくれるから、素敵なお守りをもらったことに後悔なんてするはずもない。
でも、始めの一ヶ月、あれは長く感じたな。
一ヶ月は半年みたいで、半年は一年みたいで、カレンダーを睨みつけて溜息ばかり吐いていた。あの夜のことを思い出すと、蘇ってくる西門さんの香りと肌の感触。
ベッドの中で敵うわけない相手に何もかも委ね、私はただ大事なものを差し出しただけ。
それは何が何だか、どういうことになっていたのかさえ覚えていない有様で、今もって様子を全部説明できるわけじゃない。
けれども、無理強いしない西門さんの優しさをあんな風に感じることができるなんて、やってみなけりゃわからなかった・・・幸せな時間だった。
目を開けてちゃんと見てるつもりだったのに、計算外の痛さに計画失敗。
まずいことに、西門さんの表情が思い出せない。
あの夜、ベッドは全部、西門さんの香りがした。
それだけで、ドギマギしていっぱいだったのに、扉から現れたのは裸みたいな格好の美男子で、思わず固まってしまった。
筋肉質ではないけれど、角張った肩から贅肉のないお腹まで、明らかに男性的なラインは、日頃見慣れてる自分のものとは異なるジェンダー特有のライン、どんな競技もこなせそうな筋肉の付き方が羨ましくさえなった。
そんな私を笑った西門さん。
覚えているよ。
「・・・食いつかないって。」と言う西門さんの少し困ったような顔。
見つめ合って交わした初キスは、鼻先を擦らせ合った時間をかけたスキンシップ。
あの端正な顔をマジマジ見ながら、見れば見るほどの男前に、私はすっかり魔法にかけられ、腑抜け状態に落っことされた。
キスが深まると、例の植物系のバニラがかった甘酸っぱい香りに包まれて、嗅覚から麻痺して気を失うかと思ったよ。西門さん、今どこで何してる?
まだ、金沢のあのマンションにいるのかもね。
約束はしてないけれど、私は信じてる。
だから、終わったらちゃんと迎えに来てよね。
希望って人を強くさせるんだよ。
勝手に夢見て、固まっていく未来への希望は明るい。
この身体が西門さんを離さないから待ってられるよ。幸せなことに、切りないほどネタの出てくる出版のお仕事。
それから、周君始め、私を必要としてくれる世界もある。
するべきことはいっぱいあって、シクシクやってるわけもいかず、日々の暮らしと折り合いをつけるのに精一杯が実情だ。
毎日の繰り返しの中、小さな事件なら数え切れないくらい起こってる。
怒ったり、泣いたり、大笑いしたりやってる訳で、西門流の専任講師のお仕事だって責任持って奮闘中。
西門さんに会った時、『腕を上げたな・・・牧野』、なんて言う顔が早く見たいよ。
自宅のダイニングテーブルの黄色い兎はそのままに、香合として現役中。
取材で訪れた御香屋さんで見つけたのは、可憐な箱に収まる桜の御香で、季節はずれだけど、今のお気に入りだ。
『ただいま!』
そう声かけてマッチを手に取れば、一日を平穏に終えた安堵に一息つく。
マッチをすると、擦れる音が耳に心地よく、白い煙に注意を奪われて、オレンジ色の炎に魅せられるなり、嬉しい予感に見舞われる。
瞬きしているほんの合間、炎の揺らぎの向こう側に、西門さんの顔が見え隠れする。
脳裏に浮かぶ様々な風景は、バイクで走った世田谷の幹線道路や西門邸の西門さんのお部屋の中だったり・・・あの整った顔が何やら言いたげな口元をして私を見つめていたりする。
それはもう習慣となり、家に戻ってくつろぐ儀式のようなもの。Trurururururururu・・・・・
携帯の着信音が鳴った。
『ごめん、お待たせ。
そのまま道路の方に歩いてきて、拾うから。』
送信人は、友達以上に大切な人。
昔から付かず離れず、側にいてくれて・・・我侭言えるなら、そのまま変わらないでいて欲しい人。
花沢物産 本社総合経営企画室部長 兼 ドバイ支店ゼネラルマネージャー の肩書きを持つ類からメールだ。
私は急いで、飲みかけのコーヒーを喉に流し込んで、ペーパーカップをゴミ箱に放り込み、道路へと歩く。
一台の白いポルシェが黄色に染まる銀杏の木に横付けされて、鏡のような車窓がタイミングよくガーっと滑るように下りていく。
顔を見せたのは、若干日焼けが落ちた類だ。
こちらを見るなり、ニコリと微笑み、私を呼んでいる。
「牧野、乗って。」
「はいはい!!」
右腕で内側から扉を開け、優しい笑顔で迎えてくれる。
芽吹きの季節を思わせる温かな、そこだけほっこり“春”の空気をはらんだ彼だけが持つ柔らかい雰囲気はかわらずで、不意打ちのように、大好きな天使のような微笑み攻撃をしかけてくる。
すると、いまだに胸キュンでやられてしまう私。
「クスッ、類は昔からそうなんだよね。」
「ん?」
「すっかり寒くなったのに、類の周りだけずっと“春”みたいに見えるもん。」
「そう?
じゃあ、牧野と一緒だ。
牧野つくし・・・一年中、春のような名前。
ガッツのある逞しい春だけどね・・・ククッ。」
「どうせ風情も色気もないですよ。」
運転中の横顔は、ポニーテールを切り落としたせいで、昔の類を思わせる。
・・・まさか、まだ自分で切ってるとか?
「類、髪の毛、切ったんだね。
最近、切ったの?」
「ああ、これは・・先週、切ってもらった。
久しぶりに行ったんだ。」
「そりゃ、さすがにもう自分では切ってないよね、アハハ。」
「そりゃね、もう、面倒だよ。」
「昔さ、類に髪の毛切ってもらったことあったでしょう?
あん時は・・・ホント助かりました。
でもさ、どうしてカッターを持ち歩いてたのよ?
ずっと不思議だったんだよねえ。」
「あれは護身用。」
「へえ~、なるほど、身を守るためか。
そりゃあ、F4でもさ、素手だと限界っていうものがあるもんね。」
「・・・クククッ、信じた?」
「何?嘘なの?」
「別に理由なんか無かったさ。
便利だから持ってただけ。
本当に役に立って、良かったでしょ。」
「もう~、信じちゃったじゃない。」
「牧野、簡単すぎ・・・ップ。」
私の知らない類と懐かしい類が、かわるがわる入れ替わるけど、一緒にいるとなんだか落ち着いてくる。
今も昔もかわらない。
昔話をしながら、目的の場所へ高速で連れて行ってくれる類。
今日は来日中のフランス現代アート作家とのインタビューがあり、都内のホテルへ。
カメラ・クルーとは別に行って共に会食をする。
類の口利きあっての話。
大きなホテルのロビーでも、その婦人は綺麗な紫色のシフォン・ブラウスに身を包み、存在感は際立っていた。
流暢にフランス語で話しかけた類はその婦人の頬にキスの挨拶し、婦人の目はとたんに優しく類を捉えて、両手で類の頬を挟んで唇にキスを返した。
絵になる二人を眺めていると、自分の仕事がぶっ飛んでいきそうになるけど、そこは根性で営業スマイルだ。
類の同席のお陰で、会食もインタビューも滞りなく済んだ。
「類、今日は本当にお世話になりました!!」
「いいよ、俺も久しぶりに彼女に会えて嬉しかったし。」
「類がそんな事いうの珍しいよね。
彼女も類のこと、大事そうに見つめてたし。」
「小さい頃さ、現地に行った時、あの人がフランス語の先生だった。
ルーブルとかよく連れてってもらったんだ。」
「そう・・・だから、彼女にとっても類は特別なんだね。」類は小さく微笑んで、窓の外に顔を向けた。
32階の高層タワーの窓から見下ろす東京は、長細いビルがひしめいて、夕日を反射板のように照り返している。
小さな車はどれも明度を失い、人なんてどれも黒点にしか見えない。
横に立つ類だけが、有機的な温かさを感じさせる生き物みたいで、類と一緒に居れて嬉しく思った。
類の横顔にも照らされる鮮やかな夕日は、紅茶色の瞳と溶け合い小さな池のような深みを帯びていて、見つめていると吸い込まれてしまいそうだ。
「牧野、総二郎と離れて一年が過ぎたね。
今度は大丈夫そう・・・かな。」
「類・・・。」
ゆっくりこちらを向いて、夕焼け色の瞳から目を反らすことができない。
飛び込んだら、きっと気持ちよく泳げるだろう。
きっと、優しく迎えてくれるんだろうけど。
「類・・・。」
「ん?」
「あのさ、前に言ったこと、真に受けなくていいからね。」
「前に言ったことって?」
「ほら、私が道明寺と別れてボロボロだった頃、慰めてくれたでしょ。
約束だって、そう言って聞かなかったじゃない?」
「ああ・・・あれね。」
「もし、牧野が30まで結婚できなかったら、貰ってやるって。
保険になってあげるから元気だせって、そう言ってくれたんだよね。」
「・・・。」
「30なんてあとたった3年だよ。
アハハハ・・・案外、歳とるのって早いよね。
私ね、多分30越えても、西門さんのこと待っていると思う。
だから、類、もう保険のことは無効でいいんだ。」
「うん、わかってるよ。」
類の瞳は少し寂しげに揺れていた。
「わかってるから・・・牧野の頑固さ・・・クスッ。
じゃ、行こうか。」
「うん、地上へ戻ろ。」
歩き出す類は、もういつもの後姿に戻っていた。
つづく -
shinnjiteru65 65.
恒例の春の茶会、「西門流花見の会」が御苑で開催され、私は主催者側の一員として早朝から仕事に追われていた。
糸のような春雨が降った翌日の晴天。
水気を含んだ空気がすがすがしい。
庭園の枝垂桜は乱れんばかりに咲き誇り、薄桃色の花弁が枯山水に降り注ぐ。
梢に当たるいたずらな風が淡い集合体をユラユラ揺すり、いつまでも眺めていたい気持ちにさせる優しい風景だ。
「あらまあ、牧野さん、その付下げ良く似合ってる。
牧野さんはピンクが似合うものね。
裄(ゆき)の直しも要らなかったのね、本当に良かったわ。」
「はい、有難うございます。
いつも素敵なお着物をお借りできて、本当に助かっています。」
「いいのよ。
使わずに仕舞いこんでいると、着物を作った職人さんにも申し訳ないものね。」
私は返事の代わりにニコリとしながら会釈した。
「・・・あら、また同じことを話して。」
少女のようにこぼす夫人と顔を見合わせ、微笑み合う。蓬(よもぎ)色の色留袖に銀蝶柄の丸帯を締めた家元夫人。
サンゴの帯留め飾りが、艶やかな黒髪に差し込まれた朱色の簪(かんざし)と合わせた物で、和装の雑誌から飛び出てきたように隙がない。
茶事全般、完璧という枠に入れても、この人なら誰も文句は言うまい。
著名な招待客や流派門下生の中にあって、夫人の所作全て、緻密に演出された役者のような見応えもあり、自ずと目がいってしまう。
私はその家元夫人に何かと目をかけて頂き、行事の折には着物をお借りするのがもはや珍しくも無くなった。
そして、そのお礼を言う度、夫人は同じ事をおっしゃる。
『仕舞いこんでると、職人さんに申し訳ないから。』
『牧野さんに着てもらうと、着物が喜んでいるわね。』
そんなセリフを聞くたび、この人の手に渡った着物は幸せだと、そして、私もいつかそうなりたいと憧れる。「おや、二人で楽しそうですね。」
声をかけてきたのは家元、その隣には周くんがいた。
家元と時期家元のツーショットは、意外にお目にかかれないので、知らずに背筋が伸びていた。
周くんが私を見て、目を細める。
そして、人懐っこい笑顔でサラリと言った。
「牧野さん、綺麗だよ、今日も。」
「っ?//もう///照れるよ。」
あいかわらず周くんは、さわやかな好青年で、この手の話がダイレクト。
「だって、本当だから、クスッ。
その桜色の着物だって、着てもらう人を選びたいでしょ。
春爛漫のこの日にピッタリだ。」
「ふっ・・・周三朗さん、牧野さんが困ってるわよ。」
「確かに、牧野さんに良く似合っとるよ。」
「家元まで・・・//有難うございます。」
3人が過ぎ行くのを、一礼して見送った。研究か茶道、心に決めるやいなや、茶道の修行に精励恪勤、岩をも通す一念で精進を重ねている周くん。
家元の横に立つのも、微笑ましい。
事故当時の不穏な噂は大昔の話、西門流の歴史ある大河は現家元が手綱を締め守っており、また、その後ろには頼もしい若者が控えている。
西門流の茶会は白波さえ見えず、平穏で順風満帆としたものだ。
門下生の中には、未だに周くんと私の仲を信じる者もいるけれど、何も始まらないし、何も起こらない。
家元側はそんな噂に対して意にも介さず、彼氏の事など詮索してくることはない。
そして勿論、彼らが西門さんの近況を匂わすことはない。
触れられない話は、口を噤(つぐ)むとますます固くなる性質なのか、西門さんの存在を忘れているのではと思うことさえある。
私はというと、こんな茶会では決まって西門さんの和装姿が浮かんでくるから、人知れず唇を噛み締め、時の過ぎるのを待っていたりする。
ピーンっと張った空気、着物の擦れる音、湯の滾る音、和装姿の周くん達・・・すると、影のようにふんわり浮かんでくるのだ。
繰り返し、何度も眺めていた西門さんのお点前姿。
鮮やかに蘇り、私の身体中をすり抜けていく。
目に飛び込んでくる華やぎはピカ一の男性(ヒト)だった。
日常に溶けていた寂しさが凝固を始め、浮き上がるように盛り上がり、にわかに脈を持ち始めて、胸の内側を押し上げる。
そして、どこかにいる愛しい人にたまらなく会いたくなる。
じっとしてると辛くなる程に。
だから、いつも以上に手足を動かして、ちゃんと仕事をしよう。
テキパキ動くのが、こんな時の対処法だとわかってるでしょ?・・・私?。
茶道名家出身でありながら、実家に背を向けどこかで生きている男は今いづこ?
ここにはもう、西門さんの気配もない。
お棗や茶杓を掴んでいた指は、今は分厚い本を掴んでいるというのに。
長い間、着物に袖も通していないだろうに。
染み出るように浮かんでくる西門さんの和装姿に、心が軋んだ音を立て押さえこまれる。長い年月が矢のごとく過ぎた。
事故の日から、数えてみれば、丸6年だ。
月日の流れは、じっと卵を抱えるように恋慕をじっと抱える私を包むように過ぎていった。
飽きることなく抱え続けて、気づけば、そんなたくさんの月日が流れていた。
西門さん、「花見の会」が盛大に行われているよ。
今日はね、私が半東(はんとう)をして、後半の亭主を周くんが務めるの。
綺麗な春を想像してみて。
今日はまさにそんな日だから。
ソメイヨシノも咲いてるけど、枝垂桜がカーテンのようで見事だよ。
そういえば、吉野の別邸の桜を見に連れて行ってくれるって言ったの覚えてる?
吉野の桜はもう散ったかな。
忘れてないよね、西門さん?
いつか連れてってやるって、西門さんから言ってくれたんだよ。
本場の吉野桜は、どんな桜なの?第二席を終え、水屋から出て廊下を進むと、庭園で談笑しているジャケット姿の道明寺がいた。
今日も黙っていると、惚れ惚れするくらい、それはもう上品にお茶碗を回し、口をつける仕草もこなれていて、『さすがに三つ子の魂百までだわ』と思ったところだ。
私は履物を探し、道明寺に声をかけに行った。
「道明寺!」
「おお、牧野、探してたんだぜ。」
「そうなの?」
「少し話せるか?」
「うん、少しなら。」
「歩くか?」
私たちは群集を抜け、静かな場所へ移動した。
「あいかわらず、道明寺は上手にお茶を飲むんだよね・・・感心・感心。」
「えらそーに。
でも、お前だって、亭主と一緒に締めの挨拶なんかして、ちょっとは進歩してるじゃねえか。」
「まあね。
緊張したけど、まあまあだったでしょ?
ねえ、お茶はおいしかった?
さすが、家元のお点前だよね、緩急がはっきりして、見てるとドキドキしてくるっていうか、目が離せないでしょ。」
「あ?茶の味か・・・ああ、うまかった・・ってか、そんなことはどうでもいい。」
「??」
「牧野、お前、まだ総二郎を待つつもりか?」
突然、何を言い出すかと思った。
私は返事の代わりに、道明寺を見つめてコクリと頷いた。
「総二郎から連絡あったか?」
その聞き方は、傷口に触れる様に柔らかい。
私は首を横に振る。
「何にも無いよ。 でも、西門さん、本を書いて出版したみたいだから、元気で頑張ってるんだと思う。」
「そうか・・・。
なあ、牧野、俺たちが出会って何年経ったか考えたことあるか?
俺は、時々、考える。
牧野と知り合った時期のこととか、タイミングってやつをよ。
俺もお前も高校生で、若かったよな。
10年一昔って言うけど、そんなのとっくに越えちまってるし。
巡り合わせって、一回きりなのか?
もっかい回ってきてもいいんじゃね?」
道明寺はそれだけ言うと、私を見つめて黙り込んだ。
棘の無くなった目つきは道明寺がずっと成長したことを感じさせ、言葉を呑みこんだまま返事を待つ時間も思いやりを感じさせた。
「道明寺、ありがとう。」
「・!?・・返事になって・・。」
遮るように言葉を繋げた。
「道明寺、ありがとう。」
再度、重ね塗りするように同じ返事を繰り返す。
「・・・。」
そして、笑って伝えたかった。
「今はね、待ってる事で強くしていられるの。
こうやって、道明寺もいてくれるしさ・・・本当に嬉しいんだよ。」
言葉尻の余韻が消えてもなお、ある種の沈黙が取り残される。
それは重いというよりも、辺り一面の瑞々しさに同化して溶けていくような沈黙で、ややあって、揺れていた道明寺の眼差しが再び力で充ちてきた。
「そうだよな。
俺様が友達なんだ、最高に決まってる。」
いつも、一番大事なことを教えてくれた道明寺に伝えたかったのは、今の私自身で、それが何よりの返事だってあいつならわかるはず。
心の中で、繰り返し思う。
今までの感謝と言葉に代えられない苦い思い・・・『ごめん。』道明寺は何事も無かったかのように、旧友の話を持ち出した。
こんな風に上手く仕切り直され、改めて道明寺が社会に出てから、何百回・何千回も鍛えられてきた事を思い知る。
「牧野、知ってるか?
あきらが紡績会社の社長令嬢と結婚するらしいぞ。」
「へ?うそっ!?いつ?」
「来春だとよ。」
「そう~やっぱり。
美作さんが一番乗りだろうって、思ってた通り。」
「お前、そんな事思ってたのか。」
「だって、F4の中で一番お婿さんに向いてそうじゃない。」
「まあ、そうだろうけどよ。
それでな、さすがにあきらの結婚なら、総二郎、出てくるんじゃねえか?」
「・・・!」
じっと見下ろす道明寺の瞳が少し寂しげで、私はその眼差しを受け止めながらも、必死で心を静めようと躍起になっていた。
西門さんと再会できるかもしれない。
言葉が脳で処理される時間が長くなるほど、現実味を帯びて、期待が一気に膨らむ。
道明寺は、そんな私を端から冷静に見つめていた。
まるで写真で切り取ったように動かない瞳で、私をじっと。
その印象的な道明寺を忘れることはないだろうと思った。
つづく -
shinnjiteru66 66.
滋さんが楽しそうに私の顔を覗き込んできた。
「つくし、ドキドキしてる?」
「そりゃあ・・・今日はF4初の結婚式だし。」
「ん?ううん?」
そんなに近くに寄らなくても見えるでしょ・・・もう~。
「・・・まあね、少しは。」
「そうだよねー、わかる、わかる。
ながーい冬がようやく終わろうとしてるんだもん・・・魔法の氷も溶けて、二人が手を取り合う時が来た!・・・か。
周りの男に目もくれず、純愛を貫く姿は健気で美しかったけどね~。
これって、『冬ソナ』か現代版『君の名は』じゃない?
滋ちゃんも純愛したくなるなー。」
「ップ・・・滋さん、ドラマ見過ぎ。大げさだよ。」
「西門さん、本当に来るのかな?」
ベッドの端に腰掛けた優紀が、心配そうにつぶやいた。
この部屋にいる私以外の3人とも、自分のことのようにワクワクしながら、糠喜びを恐れている。
「私、美作さんの所に行って、返信葉書を確認させてもらいました。
ちゃんと、出席に丸が入っていて、西門さんの手書きのメッセージも書いてありましたから、
間違いないと思います。
変更の連絡は無いみたいですし、もし、ドタキャンなんかしたら、西門さんの人格を疑いますね。」
「さっすが、桜子!あきらくんもちゃんと見せてくれて、いい奴なんだから~。」
「桜子に言われたら、普通の人は断われないでしょ。」
「まあ、美作さんも先輩のこと心配してましたから、アッサリ出してくれました。」今日は、美作さんが身を固める結婚式。
もし、西門さんと会えれば、私にとっても特別な記念日になるはずだ。
新婦の夢だった、この信州にある教会の挙式に出席するため、私たちは昨日からこのホテルに滞在しており、身支度の済んだ三人が私の部屋に集合し、出発までの時間を一緒に過ごしている。
というより、緊張をほぐしに来てくれているのか・・・。
大きな窓から入る柔らかな光は、緑いっぱいの敷地にあって、東京と比べうーんと粒子が綺麗で、これが花嫁のベールを透過したらさぞかし綺麗だろう。
ここには壁にありがちな絵画は一切無く、その代わりに等身大の窓枠木製フレームが景色を楽しめるよう大胆に配置されている。
空と木々が雑踏から避難した宿泊客を憩わせる、そして、大自然の力で心を癒す効果がありそうだ。
私はさっきから、窓の外に視線をやっては深呼吸を繰り返してばかり。
斜め下を向くと、大きな不安が襲ってきて、まるで試験一週間前のように落ち着かなくなる。もうじき西門さんに会える。
何も約束していない私たちが再会したとして、飛び上がる喜びの後には確約した明日があるわけでもなし。
西門さんだって、いままで色々あったはずで、あのまま気持ちが残っているとは限らない。
漠然としたネガティブな考えに駆られ、思わず弱音がこぼれ出る。
「ねえ、この洋服、変じゃないよね?」
ドレスの裾を少し広げて見せながら言う私に女友達は口々に『大丈夫!似合ってるってば!』と元気に答えてくれるけど、やっぱり漠然と不安だった。
だって、あれから何年経ってると思う?
いよいよ出発する時間になると、身体が固まって動かなくて情けない。
「しょうがないな、つくしは・・・。」
そんな私を一人は背中からそっと、一人は腕を優しく、もう一人は扉を開けてニッコリ、引っ張り出してくれた。チャペルに続くプロムナードは、野原のようにのっぺりした広い芝と歩道に添えて植栽された季節の小花に挟まれ、その間を散策できるようになっていて、私たちは花道をゾロゾロ歩いていく。
緑をバックにひっそり立つ教会。
絵に描いたように可愛いくて、花嫁がずっと憧れていたのも頷ける。
白いチャペル前には既に何人かの人だかりが出来ていて、その中に一際背が高く目立つ存在の類と道明寺が居た。
あれっ?
西門さんは?
辺りを見回すが見当たらなかった。
「よお、司、花沢さん!
ねえ、西門さんは?来てるんだよね?!どこにいるのよ。」
開口一番、勢い良く聞く滋さんの率直さを羨ましく思いながら、道明寺達のリアクションに注目した。
「挨拶より、まずそれかよ・・・っふ。」
道明寺はポケットに片手を突っ込んだ姿勢のまま、私をチラリと見て付け加えた。
「ちゃーんと来てるよ。」
道明寺の低音が耳に届くと、ひとまずホッとした。
類は両足揃え、両手共ポケットに突っ込んで、何も言わずに茶色いサラ髪をサラサラさせながら微笑んでいる?
「もう、会ったんですか?」
今度は優紀まで、たまらず口を開いた。
類と顔を見合わせる道明寺は、こんなおいしいチャンスは無いとばかり、何か良い悪戯を考えながら、焦らしてる風にも見える。「あっ・・・。」
桜子が漏らした小さな声に全身が反応し、その原因へと目がいく。
向こうの方から、白いフロックコートに身を包んだ新郎とブラックスーツを着た二人の男がゆっくり歩いてくる。
視線の先は紛れも無く、金沢で別れて以来、消息を知ることも無かった男、再会を夢にまで見て、ずっと心から離れなかった男。
私の想い人・・・どう見ても・・・西門さんだ。
20mくらい先まで近づいただろうか、顔を上げた西門さんが私を見咎めたようで、だんだん歩みがのろくなり、まるで引かれた白線の前で足止めされたみたいにピタリと止まった。
なおも視線は奥のほうから私だけを見つめているのがわかる。
まるで水辺で黒い羽を休めるクロサギのように、小さな顔を真っ直ぐこちらへ向けて立ちすくんでいるようだった。
A点とB点を結ぶ見えない糸が二人の間に張られ、程よい均衡で保たれている。
心のベクトルは糸の真ん中辺りでぶつかり、静かに、けれども激しく互いの波紋を探りあっている。
西門さん以外の何に注意が向くだろう、世界はもはや彼だけしか見えず、鼻の奥からヤバく痺れるような、不快でもどうすることもできない震えが上がってくる、口から漏れる溜息に似た声に手を当て留めるのに精一杯になった。
『西門さん・・・。』
柔らかな時間と清らかな空気が西門さんを取り囲んでいるようだった。
それは、私にもそうだったのだろう。
けれど、感じられるのは西門さんの存在だけ。
何もかもがこの再会を中心に回っているような気がして、二人だけ透明の箱で仕切られた気配を感じる。
西門さんは、長い待機時間が終了し納得したように、突如、再び歩き始めた。
そして、一歩一歩近づいてくる。
辺りは祝福の陽光で満ちていて、そんな春の小花のプロムナードを一歩づつやって来るのは決して幻影ではない。
あれだけ襲われた不安なんか微塵も感じ無かった。
ただ、世界がひっくり返るような喜びで頭は占領され、『西門さんだ・・・西門さんだ・・・』と壊れたプレーヤーのように繰り返しつぶやく単純な世界へと変わっていた。さらに西門さんとの距離は狭まり、5mくらい先で歩みを止めた西門さん。
もはや、西門さんの表情がハッキリ見える。
憎らしいほど整った顔は変わりなく、若干、男っぽさが増しているかもしれない。
かわらない黒いサラ髪はあの日のまま、そして、顔色も悪くない、とっても元気そうだ。
西門さんってこんなカッコイイ人だったっけ?
そんな風によぎるやいなや、思い出したように不安が頭の中を流れ始めた。
『こんなにカッコイイ男が私なんかをずっと想ってくれてるはずがないよね?
あれから7つも歳をとってしまった私なんて、どうよ?』
リフレインする不安。
けれども、そんな私に構わず、西門さんは痺れをきらしたように首をかしげ、懐かしい口角をニヤリと上げる癖に続き、懐かしい声で聞いてきた。
「まだ、俺に権利ある?」余裕のある懐かしい声で、口元には笑みさえ浮かばせる目の前の男を、目を開いて精一杯見返しながら思う。
そう・・・やっぱり、やっぱり、私は西門さんが好き。
『私はこの男に首っ丈なのだ。』と木槌でコテンパンに叩かれたような気分だった。
懐かしい声が聴覚を通じて脳へと伝達され、聞かれた内容を噛み砕くと、胸に花が咲いたような嬉しさでいっぱいになり、にわかに目の前の視界が涙に濡れて滲みはじめる。
ポロポロこぼれ落ちる涙をぬぐうハンカチもなくて、かっこ悪いったらありゃしない。
私は青空に向かって、右手をゆっくりあげる。
かすかに響いた腕を擦れる微音。
腕に納まっていたバングルが陽の光を浴び、目にも眩しくキラリと輝きながら、肘の方へ滑り落ちてくる。
「あるも無いも・・・私、もうとっくに捕まってるじゃない・・・。」
どうにか出した言葉は西門さんに届いたようで、とたんに嬉しそうな表情を見せ、走り寄ってきた男は、空に掲げたバングルの右手首をグッと捕み、腕ごと私を胸の中にすっぽり包み込んだ。
西門さんの香りはあの日と変わっておらず、つい昨日もこうして抱きあっていたような錯覚を覚える。
人前という事も忘れ、いつまでもその中に居たいと思った。
幸せが嘘みたいで、油断すると舞い上がりそうだから、身体をギュッと固くした。
西門さんはそっと身体を離し、私の両肩に手を置くと、少し前かがみになって改めて私の顔をのぞきこむ。
ポーカーフェイスの西門さんでも、嬉しい顔って隠せないんだね。
ちょっぴり目尻が下がり、涼しげな目元が今にも崩れて、笑い出しそうな顔。
少なくとも記憶の中には無い表情だよ。
男前の顔に浮かぶ喜色の色は、もしかして、歳とったせい?
けれども、その顔がどれだけ私を安堵させ、喜ばせてくれているのかわかるかな。
良かった、本当に良かったって・・・嬉しくて声も出ない。
私たちは話さなければならない事が余りにも多すぎて、ぎこちないカップルのように見つめ合ったまま、少なくとも私はまるっきりの初心者のような心境だった。
何から始めていいやらわからないのは、西門さんもそうだったのか、何も言わず細長い指先で私の涙を拭ってくれた。会場の方がにぎやかになったと思ったら、チャペルのドアが大きく開かれ、参列者の入場をうながしているようだ。
西門さんは私の右手をしっかり握って、歩き出した。
力強い頼もしい手に引かれ、私も歩き出す。
もう一人じゃない、抱きしめられた余韻に埋もれたまま、身体が勝手についていく。
手を引っ張られるまま、素直に付いて行くだけの頼りきった依存がとても心地よく、もう決してこの手を離さないと決心する。
帰ってきたんだ、西門さん。
ジワジワ感じる現実の喜びにようやく落ち着いてきた。
優紀がもらい泣きして目が真っ赤になっていることに気付いた。
滋さんも桜子も。
『よかったね・・・。』
皆、お化粧くずれてるじゃない・・・大丈夫?
美作さんの結婚式はこれからなのに。白いチャペルの階段を上りながら、ちらりとこちらを見下ろす西門さんと目が合った。
眠っていた乙女心がドキッと刺激される。
忘れられないあの瞳、銀色めいて光る瞳で見下ろされたからだ。
長い間止まっていた針はようやく動き出し、再びカチカチ音をたて始まった。
一気に色彩豊かに再スタートを切った感じだ。
もう夢の中じゃなく、横には生身の西門さんがいて、二人で同時に終わりと始まりの線を跨いだといったところか。
幸せを呼ぶ白い鳩が数羽止まっていた。
今なら私も一緒に、青空を高く飛べる気がする。
明日への期待で胸もいっぱい、私は愛しい人の手にギュッと力を入れて微笑んだ。
つづく -
shinnjiteru67 67.
教会の扉がギギーッと開くと、素朴だけど高らかな鐘音が鳴り響いた。
水彩絵の具の水色をかなりの水で薄めたような空へ解き放たれた数羽の白鳩。
新郎新婦を前に、我先へ勢いよく飛び出していく。
パサパサ・・バサバサ・・・どんどん上昇するその飛行が目に鮮やかで見とれてしまう。
ドイリーのように繊細で力強い羽ばたきに、私の心まで舞い上がりそうだった。
笑顔あふれる新婦と美作さん、二人を迎える花道は笑顔いっぱい、お天気までもがスカッと晴れ渡り、祝福している。
私の横には西門さん。
時々こちらを振り返り、小さく微笑みかけてくれる。
春の妖精がその口元から、チャリンチャリンと生まれ出てくるのが見えた。
この一瞬を永遠に留めることが出来たなら、もう何も要らない。
時を止める魔法があったら、今こそ使いたい。
今まであった辛いことは全部チャラで、明日からの心配なんてカス同然。
神様なのか運命なのか、物凄い力が私を後ろから押し出していて、いつの間にかここにたどり着いた。
その力への感謝しか思い浮かばない。
西門さんの肘にそっと手を伸ばし、掴むでもなく、存在を確かめるように触れてみる。
「何・・・?」
西門さんの声が聞こえる。
生身の西門さんがちゃんといて、応えてくれる。
幸せ過ぎると声も出ないんだね、知らなかった。
微笑み返し、『何でも無い。』って首を振る。主役二人を見送ると、招待客はパーティーへ向け、三々五々に散らばり始めた。
人が散っても、西門さんがずっと居ることが嬉しくて、確かめる様に話しかけてみる。
「ウエディング姿、綺麗だったね・・・。」
すると、鼻先で頷いた微妙な返事、直後にサラリとこう言った。
「俺ら、先越されたな。」
「!・・・////。」
ちょっちょっとぉ・・・ストップ。
ひやぁ~、それって、それって・・・。
わかっていながら、ドギマギする役者みたいかもしれないけどさ、再会の喜びと甘い幸せに浸るだけで、胸はいっぱいだって言うところ、その突拍子は何なのさ。
えっと、物事には順序ってものがあるでしょ・・・にしかどさん?
まさか、これってプロポーズ?・・・って訳ないでしょう。
ん?・・・でしょ?
確か、私たち、何の約束もせず別れて、そしてさっき再会したばかりだったよね。
近況報告もしてないわけで、西門さんの詳しいことは一切不明な状態だよ。
そういえば、忘れてたよ。
西門さんはこういう奴だった・・・もう私ったら、今さらながら思い出しました。
基本事項を幸せボケで忘れてた!?
そうそう、西門さんは確かにこういう奴だった。
ジワッと記憶の断片が思い浮かぶ。
いけない、油断大敵・・・何の準備もしていなくて、思い切り虚をつかれまくり。
強心剤でも打たれたみたいに心臓が跳ね返って、目から飛び出るところだったじゃない。
私は思い切り狼狽した。
「・・・ククックッ・・お前、変わってないな、その顔。」
「んなにぃ~、あのさ、西門さんこそ全然変わってないじゃない!
もっとずっ~と、大人になってるかと思ったのに。」
「俺?俺は大人になったぜ。
忍耐を覚えた・・・お陰さまで。」
そういって、私の肩に手を乗せる。
このノリ・・・見覚えあり。
時の流れとはある意味、詐欺師みたいで恐ろしい。
「ちょっと・・・西門さん・・・。」
そこへ、桜子が割って入ってくる。
「先輩たち、もう気を許しあって騒いでるんですか?
どうなるか心配しましたけど、手助けなんて無用でしたね。」
「まだ、そんなんじゃないって・・・。」
「ねえ、あっきーのお嫁さんさぁ、美咲ママと双子ちゃんの間に入っても、違和感ゼロだったね。
あっきーもメルヘン好きだった訳?!
でもさ、ほ~んとに幸せそうで羨ましくなったな。」
無邪気に話す滋さんはくるりと後ろへ振り返り、言葉を続ける。
「ねえ、司、滋ちゃんに誰か紹介してくれない?
今すぐ、結婚したくなっちゃった。」
「・・・アホか、自分で連れて来い。
俺様が判定してやる。」
後ろに居た道明寺は、あいつなりに思いやった返事を返した。
でも、道明寺の判定なんて、基準がどこにあるのやら。
なんだか笑えて、その場が和む。
私達一行は西門さんをつつきながら、ホテル近くまで歩いた所で、そのままロビーへ直行し、私に代わって桜子が西門さんの近況を聞き出すことに話が纏まった。「ちょっと、ゴメン、牧野を借りる。」
突然、私の右手首を掴んで立ち止まった西門さん。
花壇では色とりどりのパンジーが春を謳い、のどかな日差し、ピクニックにぴったりのロケーションの中、二人を残して皆は行ってしまった。
西門さんは私にベンチに座るよう促し、自分は花壇の隅に腰を下ろすと、改めて私に向かい合う。
少し前屈みに膝上に肘を置き、組んだ掌に顎を乗せ、私を真正面に見つめている。
長い脛(すね)のセンター・プレスが際立っていた。
値踏みされているようで、再び蘇ってくる緊張感。
何を聞かされるというのだろう?
「さて・・・、牧野、何か俺に聞きたいことある?
皆に話す前に、先に答えておきたい。」
「そ・そ・そりゃ、いっぱいあるよ。
西門さんが今までどうやって過ごしてきたかとか、今、どこに住んで、何して暮らしてるかとかさ。
西門さんだって、私のこと知らないでしょ?
長い間、離れていたんだもん、変わらないほうが不思議でしょ?」
「俺は、牧野のたいがいのこと知ってたぜ。」
「はあ?」
「周から詳しく聞かされてたし、たまに、類からもつっつくような電話もらってたし。」
「うそ!?」
「嘘じゃない。」
「ってことは、私だけ何も知らなかったの?」
「そ。」
ニヤリと笑う西門さん。
「それ・・・馬鹿にしてる。」
「おいおい、怒る事じゃないって。」
「何よそれ・・・んもう~、腹が立ってきた。」
「ククッ。」
キッと睨みつけると、片手を上げて降参のポーズ。
「悪かった・・・牧野。」
西門さんは、急にまじめな顔でそう言って、ワンテンポ遅れを取って、低い声でこう続けた。
「長い間待たせて、悪かったな。」
はにかむように首を傾げる西門さんの表情が可愛くて、抱えてあげたくなった。
とたんに、紐が解けるように、ユルユル緩んでくる私のしょうがない涙腺。
今日は緩み過ぎじゃない?
みるみるうちに視界が歪んで、分厚い牛乳瓶の底から見るようなアバウトな視界の中に、心配気に見つめる優男が映った。
そして、内ポケットから白いハンカチを取り出し、目の前で「使え。」と言う。
以前にもこんな風に、「これ使え。」って差し出されたことあったような・・・デ・ジャビュに襲われ、それがクリスマスの夜の出来事だったのを思い出した。
ホント、こういう所、嫌になるほど格好よくって変わらない。
西門さんはタイミングよくさりげない気遣いができる男性(ヒト)、またそれが絵になるの男だった。「簡単に説明すると、今は京都に居て、大学で準教授として教鞭をとってる。
それから、非常勤講師として他大学でも教えてるし、講演依頼も増えて、結構忙しく働いてるんだぜ。
本の出版、知ってただろ?」
「一応、その業界の人間なんで知ってる。」
「本を出した頃から、色んな依頼が増えたわ。
こんな業界でも、マスコミの影響力って凄いんだな・・・っふ。
話しは戻るけど、あれから一人になって、俺、大学院に入って勉強しなおした。
もともと、日本の歴史文化とかにも興味あったし、茶の道というのは総合芸術だろ?
だから、スイッチしやすいことに気付いたわけ。」
私は西門さんが、学生の前で教鞭を振るう姿を簡単に頭に描くことが出来た。
時折、芸術品の注釈を入れてくれた西門さんは、愛しそうに対象物を見つめ、興味深げに背景やらを分かりやすく語ってくれて、それを聞くのが好きだった。
考えてみれば、知識人としての教養や高い学力、人前で話す存在感や説得力、それから、西門の家で養われた茶人としての豊富な経験もある西門さんだ、大学の教職が天職のように思えてくる。
「うん・・・よかった。
西門さんにピッタリだと思うよ。
ホントに良かった。」
涙の向こうに西門さんが照れるように苦笑いするのが見える。
「私はね、ずっと西門さんを待ってた。
・・・私だけ蚊帳の外だったの、知らずにね・・・ッ。」
小さく口を尖らせ言ってやると、肩をすぼめる男。
「待ってる間、自分の歳の事考え込んだのは数回だけ・・・ッフフ、仕事があったしね。
恋人は仕事って勢いで没頭してたよ。
宗教信仰ってこんな感じかも?なーんて思うこともあったり、でもね、とにかく自然に過ごせてラッキーだったんだと思う。
不思議なくらい、疑わなかったんだろうな・・・私。
・・・良かった、西門教に裏切られなくて・・・ハハッ。」
乾いた笑顔をくっつけて言ってみる。
西門さんは心外だという顔を作って見せ、話を変えた。
「牧野、西門の方も随分、精出して働いてくれたんだってな。
点前の腕も上げたって、周から聞いてる。
色々手伝わせて、悪かったな。」
「ううん、西門さん家にはよくしていただいて、感謝してる。」
満足気に頷いた西門さんは、顎を乗せていた手を膝に置いた。「他に聞きたいことは?何でもどうぞ。」
「じゃあさ・・・一つだけ。」
「どうぞぉ。」
「西門さんはこんな長い間さ・・・ずっと一人だったの?」
気を張って、思い切って聞いてみたのに、コクリと素直に頷く西門さん。
もう一度確認する。
「女の人と付き合わなかったのか?っていう質問なんだけど。」
「心配無用。
身辺整理はついてる。」
「ふぅー、やっぱりね・・・また西門さんは女の人と楽しくしてたんだ。」
「あのな、本気と遊びの違いは、天と地ほどあるんだぜ。
俺の心は、ずっと一人、牧野だけだから。
・・・もうビックリするわ。」
「ビックリするって、どっちのセリフよ。」
「まあまあ・・・それは今話す程のことじゃないから、俺を信じろって。」
調子よくポンポン飛び出す中に、ちゃんと欲しい言葉をくれて、それだけでテンションがピュンと上がってしまう。
幸せ色がまた私を包んで、この一瞬があれば幸せな気になってくるのだ。
「そろそろ行くか?」と腰を上げ、手を差し出す西門さん。
私はもう一度、西門さんのハンカチで涙を拭いて、笑顔でその手を取った。すると、ぐいっと引き寄せられ胸と胸がドスンとぶつかって、戸惑う間もなくキスされた。
顎を支える指先から伝わる皮膚の硬さと丸さ、そして、唇から口内へと伝わる柔らかな温もりが全身を一気に駆け抜ける。
遠慮なく舌を割り入れる性急さに嬉しく応える我が身の単純さにはあきれるけれど、自分の変化に嘘はつけない。
唇から西門さんの熱い想いが流れ込んでくるような、こちらまで延焼されつくしてしまう深く長いキスだった。
唇が離れた時は、放心状態。
砂漠を歩き続け、渇望の中、ついに得た恵みの水を奪えるだけ奪うような欲望のキス。
西門さんの力強さにへなへな座り込みそうになった。
ガブ飲みし、とりあえず本能を満たされ力が抜けていたのは私の方だ。
「行ける?」
耳に届く西門さんの声は、張りがあって頼もしかった。
握りあった手はさっきよりも熱い、体の芯に小さな火が灯ったのがバレやしないか隣を窺うと、サラ髪の奥からちらりと見返され、小さく聞こえた。
「メチャ最高。」
今にも鼻歌が聞こえそうな懐かしい西門さんだった。
つづく -
shinnjiteru68 68.
パンジーの花咲く花壇のすぐ側にて、いきなりのキスを受けた後、ずっと胸の奥がドキドキしっぱなしで、地上から1センチ浮いた所を踏んでるような、不確かでフワンとした感覚が付きまとった。
内輪のパーティー会場では、新郎の美作さんと楽しそうに何を話していたのだろう。
立ち上がって、今度は道明寺と一緒になって豪快に笑っていた。
そこへ類も加わって、男同士の会話が弾んでいるようだった。
私の視線に気付いていながら、素知らぬ振りしてた西門さん。
そんな横顔を盗み見ばかりの日も暮れて、パーティーは無事終了。
それから、男達は別の場所へ、飲みに繰り出したようだ。
部屋に戻りベッドに潜り込むと、あっという間に空が白み始める。
ピイーヨ ピヨ・・・鳥のさえずりが、耳に気持ちよいはずの翌朝がやってきた。
はあ~寝不足・・・。
西門さんがどアップでチラチラ瞼に現れて、実際、すぐ側にいるかのようにリアルに動いてた。
香りまで漂ってくるから、夢か現実の区別もつかず、興奮状態が続いていたと思う。
この牧野つくし、どこでも眠れる女と言われ続け早30年!
けれども、ここへきて、しかも高級なマットレスがあるにもかかわらず、明け方まで悶々と眠れずとはどうした事だろう。
チェックアウトの時刻は気にせずと言われても、明日は私も仕事がある。
結局、私は桜子の車に乗せてもらい帰路につくことに決めた。その夜のこと。
ピンポーン・・ピンポーン・・・ピンポーン・・・・・♪
既にベットで眠りの世界を気持ちよく浮遊中、聞こえてくるチャイムの音。
どこか遠くでチャイムが鳴っている?何度も鳴ってるよなあ。
ピンポーン・・ピンポーン・・・・ピンポーン・・・・ピンポーン・・・・・♪
あれ?・・・これって、うち?
ようやく覚醒し、その音がハッキリ耳に飛び込んでくる。
昨夜の寝不足のせいで、ベッドから起き出すのが億劫だ。
仕方なく、ドアまで行って「どちら様ですか?」と寝ぼけたまま返事を返す。
「俺・・・。」
「・・・。」
おれ?その声は・・・ひゃあ~。
「とにかく、開けて。」
我が身は着古したコットンのパジャマにスッピン。
ヤバイと思いつつも、何故だか手が勝手に鍵を解除していた。
現れたのは、何年ぶりかで見る黒皮ジャン姿の西門さんで、玄関の中へ入ってくると、皮ジャンから冷たい木の香りが漂ってきた。
「お前、寝てた?どうりで中が暗いと思ったわ。
でも、まだ9時だぜ。」
「えっ?」
西門さんの革ジャン姿が懐かしくて、夢の続きに居るみたいだった。
「何度もメールしたんだぜ、一向に出やしないから見に来た。
・・・ククッ、爆睡してただけか?
お前、眠っちまったら起きねえとこ、あいかわらずだな。」
「え?・・っそう?」
「寝ぼけてる?
しっかし、9時に寝るとは子供みたいな奴だよな。」
表情はからかうように優しげで、私を見つめたまま一歩づつ近づいてきた。
大きな両手で私の両頬を挟むと、西門さんは少し前屈みに顔を近づけた。
目・鼻・口、あいかわらずバランスのとれた超端正な顔。
なめらかな肌は特別のお手入れをしているのか、吹き出物も見当たらない。
「起きろ~、牧野!俺、わかるよな?」
頬に当たる男の手の感触にピクリとして、頭の中がちゃんと起動する。
「ちょ・ちょっと///・・・西門さんに決まってるじゃない。
誰のせいでこんな早い時間に寝ることになったと思ってんのよ。」
「俺のせいって言いたいわけね?」
「そ・そうだわよ。
西門さんがキスなんかするから、ずっとチラチラ、チラチラ・・・ったく。」
「・・・ッフ。」
ニヤリと口角をあげて真っ直ぐ見下ろされると、涼し気な目元から一瞬、銀色の煌きが瞬いて見えた。
そして、シャラリと星屑のように零れ落ちる。
いつかもここで見たことがあるアレだ。
瞬きのほんの合間のこと、白いメタリックな光線が私の心をぐいぐい引き寄せ、カラクリのわからないマジックのようにすっかり惑わされて、魂を吸い寄せられるように、心から魅せられてしまう、そして、呆けたように何も言えなくなってしまう瞬間なのだ。
再び、端正な顔が近づいてくる。
唇が触れるや否や、西門さんの両手は私の薄いパジャマの背中部分へ回されて、シカと掌を広げ、力いっぱい抱きしめられた。
キスはどんどん深くなり、食べられてしまうような雄々しさを帯びてくる。
「ヤベ・・・牧野・・・このままいい?」
大好きな人の瞳の奥から懇願されて、NOなんて言えるはずも無い。
コクリと頷くと、手を取り、ベッドの方へ引っ張って、皮ジャンとロンTを脱ぐい去り、しなやかな胸の筋肉を見せつけられた。「布団、温ったけえ・・・牧野の匂いもする。」
言うやいなや、今日の疲れを溶かしていくように、鼻先を何度も何度も擦り合わせ、ゆっくり距離が縮まっていくのを感じる、体温がわずかに上向く。
あの懐かしい、植物系のバニラがかった香りが一層厚く私の身体を包み込む。
視線と視線はぶつかり合ったまま、15センチ先の距離を行き来しているけれども、薄暗いベッドでは、西門さんの瞳の中はのぞけない。
ただ、涼しげな瞳の中に私を求める熱い炎が灯っているのが感じられた。
温度が上昇し融解点に達すると、待っていたかのように西門さんは更にその先へと動き始めた。
唇同士が触れ合って、小鼻が交差する。
その時、囁くような西門さんの声が聞こえた。
「牧野・・・結婚しような。」
さらりと言われたプロポーズ。
しかも、どんな表情で言ったのかハッキリ見えない状況だ。
「ズルイよ・・・こんなところで、そんな簡単にあっさりと。」
西門さんは私に覆い被さったまま、少し顔を離すと言葉を続けた。
「・・・ごめん。
そうかもしれないけど、やっぱり今、けじめ付けさせて。
牧野と一生を共にしたい。
なっ、結婚しよう、いいだろ?」
「・・・。」
「返事は?」
「うん・・・いいよ。」
西門さんがそのつもりでいることは、なんとなくであるけど想像していた私には、プロポーズを不思議なほど素直に受け止めることができた。
契約書のサインの場所から心得ているかのように、全て想定どおりサラサラ答える自分の言葉の方が新鮮だった。
「ヤッタ!・・・これで、今晩は思い切り出来る。」
「何よそれ。」
西門さんは私の髪を撫で付けながら、口角から耳たぶに渡り、飛び石を跳ねるようなキスを幾度かして、そのまま私のうなじへと鼻先を埋めた。
つづく -
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shinnjiteru70 70.
いつもの部屋。
いつもの朝食メニュー。
違うのは、目の前で西門さんが機嫌よく食後のコーヒーを飲んでいて、我が身が少しくすぐったくて、火照ったようにけだるい事。
男と女が狭いベッドで一夜を過ごし、一緒に迎えた朝だから。
昨日が美作さんの結婚式で、再会したばかりの私達。
なのに、この早い展開はさすが色男・・・いや、元色男?
西門さんだから普通と言っちゃあそれまでなのだけど、私にとっては人生最大級ドラマティックな展開で、一夜明けてガラリと違った朝に感じる。
天井から畳まで、幸福色に塗り替えられたような、世界を明るいフィルター越しに見ているような、全てが薔薇色、花びらに囲まれうっとりしている自分に酔いそうだ。
昨夜の西門さんは私の緊張ごと包み込んでくれた。
まずはゆっくり温め、丁寧に溶かしていった西門さん、あの場面を思い出すだけで赤面してしまう。
それは西門さんと私が特別の関係にあるという確認であり、一つになれた時には私が女であることを痛烈に意識させられたし、西門さんを受け止められるこそばいような喜びが呼び起こされた。
男女一対が手を携え求め合う行為は、行き止まりの無い神秘的なもの。
受け止めてあげたいと、まさか女の方も積極的に思うものとは知らなかった。
西門さんの手元を見つめ、まるできれいな甘いお菓子を味わう様に、ニンマリとぼんやり二人の未来を描きながら、ようやく訪れた甘い幸せを噛み締めている最中だった。「なあ、牧野。
いつから俺と一緒に住める?」
「・・・(ゴクリ)。」
「出来るだけ早く一緒に暮らそうぜ。」
「ちょっと、待って。
それって、同棲ってことだよね?」
「まあ、そういうことだ。
俺たち結婚する仲だし、どうせ一緒に住むんだから問題ないだろ?
今さら、互いの両親が反対するとは思わねえ。
なんなら、籍だけ先に入れてもいいし、牧野の好きなようにしていい。
なっ?
俺は明日にでも牧野を連れて帰りたい。」
「えっ?西門さん、もう明日には京都へ帰っちゃうの?」
「ああ、戻らないと。」
西門さんはそういって、私の手に自分の掌を重ねた。
「なっ?一緒に暮らそう。」
「でも、そう簡単に仕事は辞められないよ・・・それに・・・。」
グループ・キャップに持ち込んだ武士の生活企画の一端、スポンサーとの打ち合わせは今日の午後3時から。
用意しているプレゼン内容が思い浮かんで、急速に現実的な事柄が目まぐるしく襲ってくる。
「それに・・・何?
しばらく仕事は、京都からの通いでも大丈夫なように俺から話つけてやる。」
「止めてよ。
西門さんに助けてもらわなくても、自分でちゃんと考えてやるから。」
「自分一人で出来るんだな?
じゃあ、早速、この後、役所へ寄ってくか?」
「そうじゃなくて・・・そうじゃなくてさ、西門さんのところには絶対に行くけど、ちょっとだけ時間が欲しいの・・・気持ちを整理する時間みたいなもの。」
「出たよ・・・牧野節。
んで、どんくらいしたら整理できると思ってんの?」
「わかんない・・・仕事に一段落ついて、これで気持ちの整理がついたと納得できるまでかな?」
「そんなの待ってたら、お前、おばあちゃんになっちまうぞ。」
「・・っんな、ならないわよ!すぐよ!すぐ!」
「すぐってどんくらいか?って聞いてんだけど。」
「わかんないわよ・・・気持ち次第だわよ。」
「ハア~、一体、どんな気持ちの整理がいる?
俺について来るのがそんなに不安?
今の俺には自分の人生任せられない?」
西門さんは可哀想なくらいがっかりして、大きな溜息をつく。
私は思い切り、かぶりを振った。
「西門さんは私に不釣合いなくらい立派な人で、すごい頼もしいと思ってるよ。
そういう不安じゃなくて、なんていうか、昨日の今日のことで、ビックリしてるっていうのもあるし、なんだかこれって現実なのかなあ~?って信じられない所もあったりして。
それにさ・・・あのぅ~西門さんって・・・鳥みたいでさ。」
「はあ?鳥?」
「・・・!」
「お前、俺のこと、おちょくってんのか?
そういや、昔、司のこと犬呼ばわりしてたよな。
今度は、俺が鳥かよ?
俺のどこに羽がついてるんだよ。」
「あ・あ・あのさ・・・ごめん、気を悪くさせたんなら謝る。
西門さんって、昔から近くて遠いイメージで・・・鳥みたいに何考えてんのかわかんないミステリアスなとこがあるからさ、そうそう・・・格好いいイメージなんだよ。
道明寺みたいに単純馬鹿なイメージじゃないし・・・ハッハハ。
だから、夫婦になるっていうのがピンと来ないっていうか、ちょっと・・・怖いっていうかさ。」
「俺の奥さんになるのが怖い?それとも、俺が怖いの?」
珍しく涼しげな目元はどこへやら、眉間に皺を寄せ詰め寄ってくる西門さん。
「いや・・あの・・・怖いっていう表現はピッタシじゃなくって、付き合い期間なしで大丈夫かな?って心配なわけで・・・。」
詰め寄られて、しどろもどろな答えになってくる。
頭の中で、自分自身にもどうしたいのか問いかけながら答えてるからだ。
「なら、なおさら離れてたらダメだろ、いつまで経ってもそのままだろうが。」
さっきまで重ねられていた西門さんの掌が引っ込められ、10センチ向こうに置かれると、なんだか手の甲が寒々しい。
「ちょっと、タバコ買ってくる。」
「・・・。」
西門さんが皮ジャンをはおり、振り返りもせず、玄関ドアを開け外へ出てしまう。
すると、とたんに部屋の中ががらんと味気なく見えた。あーあ、怒らせちゃった。
西門さんとようやく会えて・・・プロポーズだって、どれだけ嬉しかったか。
イエスの返事は心からでた素直な気持ち。
さっきまでこの世の春のように、甘い幸福感に浸りきり、西門さんをずっと信じていたのが報われたってニンマリしてたのに。
「待たせて悪かった。」って強く私を抱き寄せて・・・約束もしてなかったのに、迎えにきてくれた西門さん。
思いのほか、私のこと、一途に思ってくれていたんだよね。
私も西門さんとずっと一緒にいたいと骨の髄から思ってるんだよ。
でもね、西門さんのこと全部を理解しているわけじゃないから、自信がないんだ。
いきなり結婚生活なんて、どうなるんだろう?
一緒に暮らしたら、私の知らない西門さんがいっぱい出てくるような気がしてビビッてしまって、腹をくくらなきゃって思ったの。
英徳ではすけこましのポーカーフェイス、その後は私の師匠で、全て承知してるような先生面と向き合ってきたわけで、長い間、完成された西門さんばかり見てきた。
そりゃあ、弱い部分も少しは見た。
でも、誰だってあんな事故の後じゃあ、一時つぶれて当たり前だ。
実は、すっごい怒りんぼかもしれないし、すっごい甘えたかもしれないし、ケチンボじゃないだろうけど、ものすごい浪費家かもしれないし・・・ひょっとすると、まだ女と切れて無くて、ストーカー被害を受けてるかもしれない。
この6年弱、音信不通で久しぶりに会った晩にプロポーズされ、妻として迎えられるって?もし、私の手におえなかったらどうするよ。
さて、牧野つくし、どうする?カチカチ・・カチカチカチカチ・・・
時計の針の音がやけに大きく響いている。
西門さんが出て行くと、とたんに針の音が耳について、残された静けさが寂しく感じる。
一人でも、寂しくなかった部屋なのに、今は寂しい。
早く戻って私のすぐ側に居て欲しい、わずか30分の不在がこんなに長く感じてしまうなんて・・・タバコって、一体どこまで買いに行ったんだろう。
『まさか、このまま会えなくなるってことないよね?』
心臓がドクンとはねて、掌にじんわり汗がにじんだ。
思うやいなや、居ても立っても居られず、玄関へ行きサンダルに足をつっこみ、鍵も持たず慌てて外へ飛び出した。
階段を下りていくと、大きな黒いバイク、その横にこちらに背を向け立っている革ジャン姿の男、タバコの煙を吐き出しているすらりとした男が視界に入る。
『良かった~。』
鼻の奥が熱くなったけれど涙は出ずに、代わりにビックリするほど感じた安堵感。
『良かった、居てくれて良かった~。』
西門さんに触れたくて近づいていくと、サンダルの音に気付いた西門さんが振り返り、長い煙を吐き出した。
少し苦そうに眉間に皺を寄せ、低い声でこう言った。
「ん?どうした?何、泣きそうな顔して。」
「・・・だって・・。」
「俺がどっか行くかと心配になったんだろ?」
素直に認めて、コクリと頷づくしかない。
「行くわけないだろ・・・っふ。」
「ずっと一緒にいようね。
私には西門さんが必要・・・やっぱり、離れたら寂しいよ・・・。」
涙腺はとうとう決壊し、涙がポロポロこぼれ落ちると、私は西門さんの胸に向って飛び込んで、そして腕を回してきつく抱きしめた。
西門さんも腕を広げ、私を抱きしめ返してくれる。
その力が私のよりもずっと強くなると、耳の側でメシメシッと革ジャンのしなる音が聞こえて耳に優しく響いた。
「あぁ、懐かしい匂い・・・西門さんも、この皮ジャンの匂いも大好き。」
「気持ちの整理とかはいいのかよ。俺のこと、怖いんだろ?」
「私、ちょっとビビッてた・・・でも、考えたってどうしようもなく西門さんと居たいんだもん。
仕事を片付けたら、すぐ行くから待ってて。」
「俺と結婚したら、毎晩、三つ指ついて出迎えろって言うかもよ。」
「・・・んな事言ったら・・・無視する。」
「ひど、無視かよ、怖い嫁さんになりそうだな、牧野、ククッ。
牧野が俺のことわからなくても、俺が牧野のことちゃーんとわかってるから大丈夫。
上手く行くって・・・俺ら。」
「うん・・・そんな気がしてきたよ。」
「まっ、俺もちょっと焦りすぎたって反省した。
でも、仕事片付けたら、マジですっ飛んで来いよ。」
「うん、こんな風にギュッとして貰いたいから、飛んで行く。」
腕の中で西門さんを見上げ笑いかけると、西門さんの瞳がとっても嬉しそうに笑ってて、見入ってしまう。
「そんな可愛いこと言うと・・・。」
朝っぱらから、家のど真ん前でキスされるとは思わなかったけれど、煙草の濃い匂いのキスは温かい味がして、きっと忘れられない想い出になると思った。
つづく -
shinnjiteru71 71.
結婚の意志を両家に伝えに行く日がやってきた。
もうじき西門さんが迎えに来る予定時刻。
うちのパパとママはいいとしても、西門家へも改めてご挨拶に行くわけだし、悩んだ挙句、春らしいサンド・ベージュの細ベルト付きワンピにして、そして、最後の仕上げ、胸元につけるネックレスをパールか可愛いガラスのハートにしようか決めかねていた。
ピンポーン♪
『来た!』
ドアを開けると、立っていたのはスーツ姿の西門さん。
濃紺ストライプ細身スーツに白シャツ、光沢のあるロイヤルブルーのネクタイで若々しい華やぎがある。
「うわっ、西門さんのそういう服装、初めて見たよ。
パリっとしてるじゃん!」
「まあな。」
そう言いながら玄関に入ってきて、慣れた仕草で靴を脱ぎあがってくる。
ちょうどいい所へやって来たと、手にしていた二つのネックレスを掲げて尋ねてみた。
「ねえ、どっちのネックレスがいいと思う?」
「う~ん、今日はハートだろ。」
「うん、じゃあ、そうする。」
タタッーと洗面所に向かい、鏡の前でネックレスをつけるのに格闘してると、ふわっと西門さんの香りがするやいなや、留め金をつかむ指先に自分とは違う指先が重ねられた。
「つけてやるよ。」
「あっ、サンキュー。」
けれど、留め金を嵌め終わっても、離れなかったそのしつこい指先。
うなじの上を滑るように行ったり来たり、だんだん大胆に動いて、肩より少し長くなった髪の毛を器用に払いのけ、細いうなじを露わにしながら、遊んでいるようだ。
たかが2・3本の指先で弄ばれ、全ての注意を奪われている鏡の中の自分から目が離せずにいた。
背後から寄り添う背の高い男は、さも大事そうに、愛しそうに私の首筋を見つめている。
やがて、ゆっくりと鼻先を落とし、湿った口付けをその敏感なうなじに散らし始めた。
「うわっ・・・/////・・////。」
フェロモンバリバリの西門さんにそんな風に責められ、逃げられない自分を客観的に眺めながら、抗うことも出来ず立ちつくす鏡の中の自分、視線が固まったように動かず、なぜか強く惹かれ何かが疼き出す。
初めて感じる艶かしい気分、それは胸の奥で赤みを帯びた小さな渦がクルクル回り、だんだん激しく揺さぶられるような感覚だった。
「つくしちゃん?そんな自分も新鮮でビックリ?」
「・・・っ!?」
鏡の中の西門さんは、うなじに顔を寄せたまま視線だけ持ち上げ、からかう様にニヤリと笑うと、また再びうなじにキスの軌跡を落とし始める。
反論しようのない自分にどう返事したらいいのか途方に暮れてしまうよ。
「顔が赤い・・メチャ可愛い・・楽し~。」
断片的に聞こえる小さな声は、肩にぶつかってこもり気味でなんだかセクシー。
「はあ???ちょちょちょっと・・・ストップ!こういうの・・・反則でしょう?
私は免疫無し女に等しいんだから、からかわないでよね。
しかも、今日は大事な日なんだよ!」
その場から勢いよく離れようとすると、西門さんの両手で身体をクルリと回され、反転されたままギューッと腕の中に閉じ込められた。
「この一週間待ち遠しかったわ。
はあ~、思い切り牧野の匂い嗅がせて。」
西門さんって、愛情表現をこんなに素直に表せる人だったのかと感心している場合じゃなかったよ。
耳の側で思い切り息を吸い込む音が聞こえた。
「ええっ?私の匂い?何よ・・・コロンはつけてないけど、どんな匂いがする?」
「それは、俺が気持ち良~くなる匂い。」
「なんか、いやらしい。」
「そのうち慣れるって・・・これは朝の挨拶でしょ。」
ヒイエ~、西門さんと結婚したら、毎朝こんなエロ攻撃受けるの?
いつでも発情してるオスと同居ってこと~?
そりゃ、さりげない手口は日本人離れしてスマートっていうか、さすがだと拍手を送りたくもなるけどさ、毎朝、こんなのやられたらたまったもんじゃないよ。
夜が明けて朝が来たら、新しい陽の光をちゃんと浴び、挨拶をして、さわやかに一日をスタートするもんだと決まってる!
「ちょっと、西門さん!」
「なあ、牧野~早く一緒に住もうぜ。
俺、やっぱり、一日も待ちたくねえ~。」
どこか大型猫科動物的な媚びを含んだ声、西門さんの声でありながら、私の気持ちを代弁しているようだ。
その上、西門さんの指先が恋しく思う自分を素直に認めざるえない。
相思相愛・・・そんな言葉が頭に浮かんで身体から力が抜けていき、手足の自由を塞ぐ事への注意や理想の朝一番とは?の調教、全ての文句は瞬時に萎えて、西門さんの胸にそっと頬を寄せた。アパートの外には、西門家の黒いリムジンが待機しており、乗り込むやいなや、シートの上でガシッと手を握られた。
西門さんの指は長くて、力強い。
「それで、牧野のお父さんとお母さんはなんて?」
「あっ、その話なんだけど、それがさあ・・・・。」
3日前、実家のママへ電話した時の様子を伝えた。3日前
「もしもし・・・ママ?
今週の土曜日なんだけど、パパとママに会ってもらいたい人がいるんだ。」
「ええっ?あんた、彼氏がいたの?」
「居たというか、急に出来ちゃったというか。
でも、ずっと好きだった人だったから、結婚するつもり、それも、出来るだけ早くに。」
「あらら・・・つくしが心に決めた人って誰なの?ずっと好きだった人って、もしかして、アンタ。」
「うん、すっごいビックリすると思うけど。」
「まさか?えっ、そうなの?いつの間にアンタ達、復活した?道明寺さんなんでしょう?」
「ップ・・・違うよ、違うってば!道明寺とはきっぱり別れてるってば、もう~全く。」
「じゃあ誰よ。
昔からの知り合いってことは、ママも知っている人?花沢さんなの?」
「ヤダ、もう~ママ、花沢類とは良い友達の関係だって何度も言ったでしょ?」
「そうだったわよね、じゃあ。」
「あのね・・・実は西門さんなの。」
「ええええええーーーーーっっ!!!
どうして?いつ・何がきっかけでそうなったの?ええっ?
パパ~大変~、つくしが・・・つくしが・・・お茶の・・・あの・・ドウミョジさんのお友達の・・・。」
電話の向こうでアタフタ意味不明になってしまったママの声。
まあ、西門さんの事は時々看病に行ってる程度しか伝えてなかったし、驚くのも無理も無い。
まだ自分だってこの展開に驚いている真っ最中なんだもん。
「つくしか?つくしか?
今聞いた話だがな、お・お・お相手は、道明寺様じゃないんだな?
間違えるなよ、今度は西門様か?えっ?」
「パパ、今度は!っていうの止めてくれない?
私は間違えてないから、後にも先にも西門さんだけだよ。」
「ふーん、そうか。
そうか、そうか、つくし、良かったな、パパは嬉しい。
ふん、それで、挨拶に来るわけだな?いつだって?」
「今週の土曜日なんだけど。」
「ええええええーーーっっ!
また、つくしまでもそんな急に・・・まさか、お前たちはグルになって、パパ達で遊んでるんじゃないだろうな?」
「はあ?何言ってるの、パパ?
午前中には済むと思うんだけど、早ければ30分かかんないかもしんない。
都合悪いの?」
「午前中か?なら、いいと思うがな~ママ~、つくしが今週の土曜日、午前中に西門様を連れてくるらしいぞ~。」
電話の向こうで、また騒いでいる様子のパパとママ。
「もしも~し、パパ?」
「つくし?ママよ、午前中なのね、わかりました。
ママ達も、そうしてくれると丁度いいかもしれないし。」
「何?何が丁度いいのよ、どうしたの?」
「いやね、進がね・・・まあ、会った時に話すわ。」
そんな会話を交わしたのだ。現在の実家は3LDKの賃貸マンションに移っていて、西門さんにとっては初訪問になる。
部屋に入ると、パパとママは二人揃ってスーツを着こみ、少々緊張気味の面持ちで待っていた。
「どうしたの?パパもママもそんなに張り切った洋服着て、普段着で良かったのに。」
「いやいや~、どうだ、パパのスーツ姿も見てもらいたくてな。ふうん?どうだ?」
「ママもパールのネックレスなんか出してきちゃって。」
「まあね・・・こんな時くらいお洒落しなきゃね。
あら、西門さん、こんな狭い所へようこそいらしてくださりました。」
「大変ご無沙汰しております。」
玄関で一礼する西門さん。
さすがに美しい礼をする。
パパはご機嫌な顔して、自分よりう~んと背の高い西門さんの肩をポンポン叩きながら、ニコニコと何度もウンウン頷いていた。
西門さんはリビングのソファーに通され、一度はそこに座ったものの、お茶を出されるとおもむろに立ち上がり、床へと移動しそこに正座しなおした。
といっても、残念ながら西門さんは事故の後遺症できちんとした正座が出来ない身体。
歩くのは、よくよく見ると、左脚を引きずっているのがわかる程度で、日常生活には何の問題も無く、リハビリの成果が出ている。
けれども、正座だけはどうにも無理のようだ。
左脚だけほんの少し横に流れてしまう、着物だと隠れることだろうけど、体勢を変えるときには両手の支え無しに、座ることも立ち上がることも出来ない。
西門さんは今でも、左脚を揉んだりストレッチしたり、改善を諦めてる訳ではないみたいだけど。
両手で上手くフォローしながら正座をする、そんな西門さんを私は文字通り傍観しながら見つめていた。
「お父さん、お母さん、今日はお願いに参りました。
牧野つくしさんと結婚させてください。
一生、大切にしますからどうか認めてください。」
両親に向かって深々と頭を下げる西門さんは、まるで舞台で喋る俳優よろしく完璧だった。
迷いの無いキッパリした、その男らしい挨拶を見ていると、胸の中はキュンキュンするし、クラッカーがパンパーンと鳴って、なんだかうるさいくらいの感動を覚えた。
「こ・こちらこそ、よろしくお願いしますわ・・・・・・よ・よろしくね・・西門くん。」
パパの方が舞い上がって、少々声が上ずっている。
その後、私たちは両親に今までの流れを掻い摘んで説明し、途中、何度も驚嘆の声をあげられながらも、涙ながらに祝福をもらった。「そうだったか・・・急な話だったから、ひょっとすると、お前たちも?と思ったけれどもな・・・先週、再会したばかりだったら無理だよな?なあ、ママ?」
「もう、パパったら、娘の前でそんなこと。
こんな失礼な義父で、ごめんなさいね、西門さん。」
「いえいえ、楽しいお父さんで、僕も見習いたいです。」
私は、口の上手い西門さんに、思わず噴出しそうになった。
気が良くなったパパは、嬉しそうな顔のまま続ける。
「つくし達は出来ちゃった婚じゃないってことだな?一応、確認、確認。」
私と西門さんは顔を見合わせて、お互い小さく首を振った。
「実はね、進がね、いきなり、結婚するって言うのよ。
それも、赤ちゃんが出来たからって、突然。
だから、この後、先方さんの御宅にご挨拶に行く予定で、パパもママもなんだかソワソワしちゃって・・・ほら、この格好もね・・ホホッ。」
ママはそういって、ヘラヘラ笑った。
「ええーーっ?進が結婚?
相手はあのしっかりした・・・?」
「それがまた違うのよ、ねえ、パパ?」
「つくし、進はパパに似てモテモテの社交家だぞ。
合コンで知り合った相手らしい。
女の子を取っかえ引っかえみたいだったよな、なあ、ママ?」
「そ~うなのよ、つくし、・・・ったく誰に似たんだか。」
進は大学院を卒業後、総合研究機構へ就職し、男ばかりの職場で夜遅くまで働いていると聞いていたから、堅物だと思いこんでいた。
「いつの間に我が弟までが、どこかの不良学生みたいに遊んでたなんて・・・ちっとも知らなかったわ。」
横に座る西門さんを意味深にチラリと見遣ると、まるで「俺は合コンなんか知りません」という風情で、清廉潔白な仮面を被り、黙っているからなんだか笑えた。
実家を後にし、西門家に向かう車中でその様子をからかってやると、「うるさい、緊張してたんだから、仕方ないだろ。」と拗ねられ、意外だった。
「西門さんがうちに来て、緊張するなんて想像もして無かったよ・・・ハハハ。」
でも、西門さんいわく、ああいう席で緊張一つしないのは、意気込みが足りないそうだ。
その後の西門家は問題なく滞りなく大事な話しを終え、家元とお母様と一緒に夕食をいただいた席では、西門と縁のある神社で式を挙げることにし、早ければこの秋にでもと話が進んだ。
なんて決め事に柔軟で、話の早い人達なんだろう。
「牧野さん、総二郎のこと、よろしくお願いしますね。」
お義母様からそう頼まれると、改めて西門さんと一生を共にするのだと実感して、これからは私が西門さんを支えていかなくてはとひっそり腹を括った。再び乗り込んだリモ。
長い一日の最後に向かう先は、夜景のきれいなホテルのラウンジ。
二人だけで今日の記念に乾杯しようと西門さんの提案だった。
「牧野、フィアンセのお前に贈る初めてのプレゼントなんだけど、受け取って。」
渡されたのは白いリボンの付いたエメラルド・グリーン色の小箱。
ずっと昔、ホワイト・デーにプレゼントされたあのバングルと同じブランドの箱で、遠い記憶が蘇る。
「うそっ、私に?あけてもいい?」
スルスル音をたて解かれた白いリボンが座席に滑り落ちて、いくつもの弧を描いた。
中のケースを取り出し開けてみると、金xプラチナがスパイラル状に捻られている指輪が真ん中にチョコンと納まっていて、それはあのバングルと同じデザインみたいだ。
ただ、その指輪には金x銀二本の絡み合う弦に挟まれ、どうにも動けなくなったダイヤが存在感たっぷりにキラキラ輝いていた。
「うわっ・・・すごいっ、綺麗・・・。」
「気に入った?」
「うん、勿論だよ、ありがとう。」
西門さんは私の右薬指に指輪をはめて、ダイヤに小さなキスを落とす。
指輪は計ったように私にピッタリで、私の指にとても似合っていた。
つづく -
shinnjiteru72 72. *後半部分、少しだけ性的表現があります。苦手な方は、スルーして下さい。
隅田川にほど近い、大都会の中心にそびえるモダンでスタイリッシュなホテルだった。
西門さんに手を引かれ、吹き抜けのロビーに入ると、西門さんは私を残しフロントへ直行し、チェックインを済ませた。
そして、視線で私を呼び寄せ、肩に手を置き、エレベーターまでエスコートする。
磨き上げられた黒い床も、ロビーに並ぶえらく大きく角張った白い革ソファーも、フロントを照らす間接照明も、この男の背景に憎らしいほど似合っていて、絵に描いたように溶け込んでいる。
そんなスマートな男性(ヒト)に手を引かれるのは鼻が高く、自分がモデルにでもなったかのような勘違いを呼び起こしてしまう。
私たちを乗せたエレベーターの箱は、ホテル独特の優しい二連音を響かせ、揺れることなく静かにラウンジ階で止まった。
私の横にはピタリと西門さんが張り付いて、ボディ・タッチはいよいよ遠慮がなくなってきた。
端から見ればお熱いご両人、今や、その手は堂々と腰に回され、さりげなく腰骨や臀部をさすり、以前の私なら絶対黙ってられなかったスキンシップを繰り返してくる。
それがどうしたことか、ちっとも嫌に思わないで、雲の上を歩いているみたい。
非日常的な場所と婚約を決めたばかりの特別な一日。
そんな条件下、他人の視線は気にならず、むしろ、触れられる箇所から幸せな気持ちがジワーっと広がり嬉しく思えた。
勝手な妄想にせよ、まるで世界中が自分達を祝福し、温かく見守っているかのように、何も遠慮する必要ない奇妙な錯覚に陥っていたのかもしれない。
シンプルにとても幸せな気分だった。さすがに24Fからの眺望は美しく、何といっても東京タワーが圧巻だった。
すぐ目の前をオレンジ色に発光しながら、存在をアピールする巨大オブジェ。
こんな素敵な夜景を見れば、ロマンチックな夜に誰でも乾杯したくなるだろう。
西門さんはスマートに私の座る位置を指し示す。
この歳になって、今さら過去に嫉妬するのは無粋だし、百戦錬磨のモテ男相手にそりゃキリ無い話ってもの。
けれども、優しく扱われ、こんな風に女心をくすぐられると、絶好調に満たされている瞬間でさえ顔を出してくる生来の性質、自信の欠如・・・独り相撲とわかっていても、辿ってしまうこのバカな思考回路なのだ。
もっと美人でスタイル抜群の女性の方が、この場所にも、そして西門さんにも、ずっとふさわしいんじゃないのかな?
きっと西門さんは、それを聞くと怒る。
西門さんに吐き出すことは、西門さんを不快にさせ、貶(おとし)めることを意味すると知らないほど、青っちい年齢でもない。
でも、こればかりは改善ゼロ、自然に出てくるのだからどうしようもない。
天下のF4相手だもの、無意識にそう巡ってしまうのは無理ない話かもしれない。
一人勝手に素敵な女性と比較し落ち込んで、何やってんだろ。
どうしようもないね、私の悪い癖。「牧野、何飲む?」
「ジンライムを。」
「了解。」
やがて、手元にやってきたお酒で乾杯し、一日を振り返った。
両家の話から未来の話へと続き、約束を交わしたばかりの二人にぴったりの会話。
「秋なんかすぐ来るだろうし、それまで恋人期間楽しもうぜ。」
「うん・・・楽しもう。」
「じゃあ、海でも行くか?」
「海?どこの海?」
「ハワイでもニュージーランドでも、どこでも。」
「バカ・・・そんなの新婚旅行みたいじゃない。」
右手におさまる指輪をいじりながら、返事を返す。
見れば見るほど、素敵な指輪だと思い見つめていた。
「気に入った?それ、やっぱ牧野に似合ってる。
俺の目に狂いなし!サイズもドンピシャだったろ?」
「ホントに西門さんはプレゼント上手なんだから・・・どんな物が似合うか、想像できるんでしょ?」
「だから、牧野のことはわかるって言ったろうが。」
「質問なんだけど、こういう・・・指輪、何回も買ったことあるわけ?」
「おいおい、なんだよ、突然とがった質問かよ。
お前、何かすっごい勘違いしてない?
俺、指輪を選んだのも、プレゼントするのも、初めてなんですけど。」
「うそだよっ、そんなの?!」
「ホ・ン・ト。
指輪は危ないだろ・・・勘違いされちゃあ、たまんないしな。」
「私だけに?今までたくさんの女性(ヒト)と付き合ってきたじゃない。」
「牧野、お前は全然わかってないんだな~ハア~。
女に渡すプレゼントなんて、指輪以外にもいっぱいあるんだぜ。
指輪は特別!特別なだ~いじな女に贈るもんだろ?
そんなのその辺のガキだって知ってる。
あきらだって、好きな女からねだられても、指輪は贈ったこと無いはずだぜ。
いつか、聞いてみ。
そんなヘマする奴は、女に振り回されてるバカな男だけ。」
そう言って、背もたれに身体を預け、下から睨むように見つめてくる。
「うわっ、西門さん、あいかわらず、強気な発言。
でもさ・・・西門さんなんだもん・・・・・・。」
迷子になったような幼子のような声でそう返す私。
「俺だから?」
「西門さんだから・・・何でも一通りやってそうなんだもん。」
すると、西門さんは右手で拳を作り、心臓を二・三回立て続けに叩く仕草を見せた。
ネクタイの上をドン・ドン叩く音が響いても、何ともなさそうな胸板らしい。
「あんなぁ、言っとくけど、お前だけなの、ここにドーンっと入って来た奴は。
俺のこと、スケコマシとか思ってんのは仕方ねえかもしれねえけど、その辺の分別はちゃんと有りますから。」
その目は真剣で、少し怒ったような色で私を見つめていた。「牧野、行こう。」
「はあ?」
「もう、じれったいから・・・行こうぜ。」
そういって、席を立った西門さんは私の肘をつかんで引き上げた。
「えっ?でも、まだ来たばっかりだよ。」
「喉は潤っただろ?」
頷き終わるのも待てない様子で、手を引かれ、すぐにその手は腰へと回された。エレベーターに乗り込むと、箱は更に上へ上へと上昇した。
部屋の重い扉が閉まるなり、野獣さながら襲い掛かってきた男。
性急に落ちてきた口付けは今までにないほど激しくて、いっぺんに胸を焦がされ、火傷するくらいグラグラ熱く煮える欲情の釜へと真っ逆さまに落とされていくような気がした。
「にし・・かどさん・・・。」
「牧野、今からしっかり教えてやる。
お前が不安に思うことなど、一切ないって。」
私の両耳を覆うように大きな手で顔を挟まれ、我が身は壁にピタリとくっつきこれ以上後退する隙間なし、西門さんの怒気を含んだ覇気に押されまくり、もう受け止めるしかない状態だ。
キスの激しさと比例して、もみくちゃになる髪の毛。
大きな男の両掌は私の心を囲い込み、軟化させ変形させていく、そして、大きくこじ開けられた口腔内では、西門さんの舌が縦横無尽に動き回り責めたてる、変形されたまま何もかも全てが西門さんの肺の中へ吸い込まれていくようだった。
そうなっては、ドア付近で響く拗音も恋人達を扇情する音にしか聞こえず、早くも西門さんの左手は胸の膨らみへと落ち、服の上から無遠慮に揉み始める。
キスをしたまま、続いてもう片方の膨らみも同時に揉まれ、私は貼り付けられたように身動き一つ出来なかった。
そして、西門さんは何を思ったのか、急に腕を背中に回し私を抱きしめ、大きな溜息ともとれる声をもらした。
「・・・・はぁ。」
顔は見えない。
けれども、思いつめたように頑なに力いっぱい掻き抱いているといった感じで、私は今にも肋骨がポキポキポキっと音をたて、何本か折られてしまうのではないかと心配になった。
「折れちゃうよ。」
「ごめん・・・。」
男の人って、まるきり違う種類の、切れるような腕力を持っている。
西門さんらしくない加減で驚いたけど、少し力を入れただけで、瞬時にあんな風に抱きしめられた。
腕を解き、力が抜けると、私の高さに合わせるため、前屈みになった西門さんは真顔で顔を寄せてくる。
「俺・・・こんなにマジ惚れしたの初めてだから、この先どうなるか見当付かないけど。
牧野のこの目・口・鼻・・・・この身体・・・声も中身も・・全部好き。
今まで出会ったどんな女のよりずっといいと思ってる。
だから、牧野は俺を信じてついてくればいい。」
「西門さん・・・それは、言いすぎ・・・十人並みだもん。」
「いいや、光って見えて仕方ねえな。」
そういうと、ニヤリと笑い、私の手を取って部屋の奥へと促した。
つづく -
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shinnjiteru74 74.
日差しが夏色を帯び始めた頃、仕事にメドが付き、まあまあな幕引きを描けたのを区切りに、生活の拠点を京都に移すことにした。
長く一人で暮らしたアパートがすっからかんになるとしんみりもする、けれども、待ち人を思うとたちまち嬉しくなり、作業する手も軽やかにやる気が湧いた。
そして、京都でスタートさせた同棲生活。
それは転がり込むというよりも、二人で仲良く巣作りを始めたという風で、失業保険をもらいながら、残りの独身生活をノンビリ過ごすつもりだったのに、そうは転んでくれないのが私の人生?
結婚となると口を出す大人も増えるわけで、想定外の事も起こるのね。
待っていたのは、新居に入れる電化製品や家具選び、それに加え、マンション内装がセミオーダー式の為、浴槽やらドアノブやらキッチンユニットまで、好みを伝えて決める作業だった。
西門さんが住む外国人用2LDKへ引越し、片付けるのと同時進行で、日中はお店やショウルームを歩き回り、カタログと実物を見比べ、帰宅後、ゆっくり検討する。
だから、部屋の中にはそんなブツが山積みだ。
せっかくだから、人任せにしたくなかった。
そう・・・新居、出来たばかりのマンション角部屋、5LDK、大きなベランダ付き。
結婚式後、そちらで生活を始める予定になっている。
二人へのプレゼントとしてそれをポンと差し出したのは、家元・・・西門さんのお父様。
「総二郎の男臭い部屋ではあまりに可哀想すぎる。」と鶴の一声だったらしい。
そんなお気遣いには感謝していますが、それって無駄遣いじゃありません?って何度口から出そうになった事か。そんなこんなでバタバタと同棲がスタートしたある夏の暁、西門さんが運転する車で京都府丹後半島の美しいビーチへ繰り出すこととなる。
実はそこで、優紀の家族と合流する計画で、独身時代と違う形でゆっくり過ごせるのも楽しみだ。
のんびりした時間を過ごすのは、実に久しぶり。
それに、同棲して初めてとなるデートに二人とも結構な気合がはいってる。
テーブルに置かれた観光ガイド『夏だ!お奨めビーチスポット 関西編』は、「近所の本屋さんで買ってきた。」と西門さんはソファーに座り込み、しばらく目を通していたみたい。
何気にマニュアル男だったの?
西門さんの行動パターンを一つづつ、日捲りカレンダーのように分かっていくのが、新鮮・新鮮。
シーズンが終わると大部分の洋服を処分し、次のシーズンにほとんど新調するのがパターンだと知った時にはあきれ果て、新聞のニュース面を豪快に開いては、途上国関連記事を手当たり次第バンバンッ!叩きながら厳重注意したものだ。
資源の無駄遣い!もったいない!って。
見直す所もある。
趣味のいい西門さんだから、物にこだわって、うるさいのかと思っていたら、実は鷹揚で寛大。
家事は全部、自分の身の回りのことさえも、私の好きなようにさせてくれた。
それがものすごく嬉しかったりする。
「西門さんの水着、見つけたよぉ!!
寝室に出しておいたから、後で見ておいてね。」
「おう、サンキュー。」
昨夜は台所でそんな会話しながら、西門さんとお揃いの夫婦茶腕を乾いた布巾で拭いて棚にしまい、長いお箸と少し短いお箸も同じ布巾の中で絡ませ合い、カラカラ音を立て乾かした。
二人分の食器だから、食洗機は使わずに、おままごとみたいに一品ごと丁寧に扱って好きなようにしまう、そうしてだんだん自分のカラーに染めているのかもしれない。
今朝は早起きするつもりだったのに、あろう事かすっかり寝坊してしまった。
子供のいる優紀達と比べ、まだ身軽な私達は軽装のはずなのに、朝からバッタバタで、もう既に汗だく。
理由は、勿論、この同居人のせい。
昨夜、タフな男は惜しみなく愛の言葉を囁きながら、その手で私を転がすように翻弄し、なかなか寝かせてくれなかったからだ。「なんだ?その大荷物。」
「え?お弁当とお菓子とお茶と・・・それから、トランプとか帽子とか・・・大事な日焼け止めでしょ。」
「これも、持って行くつもり?」
その長い指で転がっている物を指差す西門さんの頭上には、?マークが浮かんでる。
「うん!ナイロンのシートより気持ちいいし。
イグサの茣蓙(ござ)・・・知らないのぉ?」
「えっ?ビーチにゴザ?知らないと言っちゃ、知らないな。」
「っふふ、じゃあ、丁度いいじゃん、西門さんの初体験なんて貴重だよ。
これさ、中学の時から使ってるんだけど、まだどこも傷んでないんだよね。」
「中坊の時から?マジ~~?ビックリのエコライフだな。」
「だって、傷んでないから捨てるのもったいないじゃん?」
「・・・わかった、わかった、リョーカイ、積めばいいんだろ?!」
西門さんは、私が洗濯し、畳んでおいたポロシャツを着ていた。
濃紺x白のストライプの、若者向けアメリカ・カジュアルブランドものをさらりと着こなし、腕にはホワイトゴールドのデイトナが光る、どんなカジュアルでも匂い立つような色男振りに遜色はない。
荷物を車へ運ぶ何気ない姿が格好良くて、思わず見とれてた。
ふうー、この先が思いやられる。
彼氏であり未来の旦那様だと思うと、狐につままれた不思議な気分で、今さらだけどありえない!って思ったよ。
現実は、彼とこれからデート!
まだまだ二人の時間は新鮮でドキドキ。
なんだか物凄くテンションが上がる!
「一人でニヤケテル牧野、近所の人に見られてるぜ。」
「///えっ、嘘???」
「うっそ、すぐ信じるやつがバカを見る。」
「もう~西門さん。
今日は初デートだもん!嬉しいの!天気もいいし、最高じゃない。」
西門さんは口角を少しあげ、ニヤリと微笑んだ。
「これから時間があったら、色んな所、行こうなっ。」
「うん。//」西門さんが運転する赤いBMWの四輪駆動はスイスイ高速を走りぬけ、灰色の道路を真っ直ぐ切り裂くように、差し込む光と競争しながら、ジェット・コースターのような音をたてゴーッと駆けていく。
気分は高揚し、鉄腕アトムの歌でも飛び出しそうな心境だ。
さながら、魔法の赤い絨毯に幸せなカップルを乗せ、青い空を軽々と飛ぶ。
太陽は笑い、白い雲は綿菓子のように甘く誘い、七色のキャンディー・レイが手招きして、どうぞ中をくぐれと私たちを待っている。
横にいる西門さんは、人間に化けてるけれども、本当は魔法使いで。
だから、そんな仕業は御茶の子さいさいの簡単な出し物、どんな女の子もたちまち恋をしてしまう。
とびきり器用で男前の魔法使いなんだ。
「あッ、海が見えてきたよ!」
「・・・そろそろだもんな。」
四輪駆動は砂浜へそのまま乗り込んで、ギュルルルンと鳴いてエンジンを止めた。
目の前には青い空と蒼い海、そして久しぶりに嗅ぐ・・・潮の香り。
波打ち際に、よせては引く一定の波のリズムは子宮の記憶のように耳に響き、安らいでくる。
砂浜は長くて広くて白い。
その分、照り返しがきつく目が眩む程ゴージャスだ。
今日は一日、サングラスをはずせそうもないと思った。
東京じゃあ見れない綺麗な海岸・・・白砂青松を具現化した日本の風景だ。
砂浜の白と対照的に群生する松の青々しさ、茶色い岩肌も絵に描いたよう。
ふと、葛飾北斎の富嶽三十六景が浮かんで、原稿やら出版物が山積みのデスクが懐かしく思えた。既にビーチにはたくさんの人がシートの上で思い思いに過ごしていた。
早速、着替えて、優紀たちと合流する。
優紀の娘:銘ちゃんはもうじき3歳、おしゃべりが上手で、足元で「ママも一緒に入ろう!」とグズッていて、再会を懐かしむと早々に、私達は優紀達の荷物番をかってでた。
西門さんは優紀家族の1m横に持参の茣蓙を広げ、レンタルパラソルを差し込むと横になる。
私も、よっこらしょっと隣に座った。
「西門さん、砂の音、聞こえなかった?キュッキュッって。」
「ああ、鳴き砂っていうらしいぜ。」
「例のガイドブック?」
「おう、学んだ。」
「クスッ。」
私は日焼け止めのキャップを開けながら、無意識にニヤケていたと思う。
「何?」
「別に、何でもないよ。」
遠くではしゃぐ親子三人を眺める。
「牧野、何考えてる?」
「何にも・・・。」
「当ててやろうか?」
「どうぞ。」
「お弁当喰いてえ、だろ?」
「ち・ちがうよ!そんなんじゃない!大ハズレ!」
「ふ~ん、別にいいけど・・・牧野が楽しそうだし。」
「うん・・・楽しい・・・本当にそう。」
ポツリと・・・素のまま、素直に答える私は相当幸せボケだ。
今日のこと、楽しみに考えてくれていた西門さんはこれからも、何か事あるごとにああやって調べてくれたりするんだろうか。
優紀たちを見ながら、未来を投影する私、早合点もいい所なのに・・・でも、ワクワクする気持ちはどうにもこうにも止まらない。
横たわる西門さんを振り返り、見下ろしながら笑顔でお願いした。
「ねえ、背中に日焼け止めローション、塗ってくれる?」
「おう。」
起き上がり、ココナッツの香りいっぱいの白いローションを私の肩から背中へ塗りつけてくれる西門さんの手。
私はもう、その手に掴まってピクリとも動けないし、逃げるつもりもない。
ビキニトップの肩紐を持ち上げ、上から下へと優しく撫でる様に、そして、背中の布も持ち上げ、端から端まで余すところなく丁寧に塗る。
大きな手は数回動かせば足りるだろうに、またローションを掌にたっぷり出したようだ。
「この辺、真っ白。焼けたら腫れ上がるぜ。」
脇から潰れた胸へと続くサイドライン、敏感で最も白く柔らかい部分を覗き込むように腰を曲げ、丁寧に塗ってくれている。
「ずっと触っていてえ。
牧野はどこもちっこくて、すっべすべ・・・これ、俺の特権だよな?」
「まあね、他に頼む人もいないし。」
「誰にも譲るつもりねえし。」
「/////・・・。」
幸せな気分のまま、目をつぶっていると、そんな時にも魅惑的な睡魔がやってくる。
『西門さん、ゴメン、このまま少し眠る・・・。』心の中で謝る私って義理固い?
鼻先を掠める生ぬるい風は潮の香りいっぱい心をすり抜け、窓をサッと開け放つような解放を誘うから。
子供達の歓声や近くを横切る女の子の会話は、優しく包んでくれる真綿のように、それはそれは柔らかくて、こそばすように眠りを誘うから。
どこか遠くの風景を眺めているようで、どんな風かちっとも描けない。
緩んで溶けていく意識は至福だった。
どのくらい時間が経ったのだろう?
ふと、優紀の声がBGMの音の中から、飛び出してきた。
私はうつ伏せのまま、いくらか眠っていたのかな?
「・・・本当に辛抱強いんですから、昔から・・・・ふふっ。
あの・・スピーチ・・・で、泣いてしまって。
つくし、本当に幸せそうで・・・。
西門さん、つくしのこと、よろしくお願いしますね。」
「優紀ちゃんも幸せそうに見えるよ。
良い人と出会ったんだな。」
「ええ、幸せですよ。
西門さんにも感謝してますから。」
優紀・・・。
優紀にとって、西門さんはずっと覚めない夢をみせてくれるファンタジスタだった。
夢を見せてくれる人。
あの時はそんな風に思わなかったけど、今なら少し分かる気がする。
私も西門さんといるとワクワクが止まらないもん・・・。
「主人は穏やかでおもしろくて、それにとっても子煩悩なんですよ。
ほら、銘と上手に遊んでるでしょう?
もし急に彼が消えちゃったら、どうするだろ。
つくしみたいに、長い間、待ってられるかな?」
「優紀ちゃん・・・?」
「ふふっ・・・冗談です。
多分、髪振り乱して探しまくってる・・・もう母親ですから。
彼はそんな事できる人じゃないですけど。」
「へえ~、あの優紀ちゃんがね~。」
「クスっ、つくしももっと強くなるかもですよ。」
「こいつが?もう十分・・・ハハ。」
「西門さん、つくしには大事な事はちゃんと言ってあげてくださいね。
不安にさせないであげてくださいね。」
「!・・・。」
「老婆心で・・・きっと心配無用でしょうけど。
じゃあ、私、旦那さんと交代してきますね。」
ニコリと笑って立ち上がる優紀が見えるようだった。
「あっ、優紀ちゃん・・・・・・、アドバイスをサンキュー。」
優紀の老婆心・・・ホントに昔の話まで持ち出して、昔過ぎるってば!・・・でも、ありがとう、優紀。
「お前、目、覚めてんだろ?」
「えっ?ばれてた?」
ふと、西門さんに手をつながれた。
強く握られた手から伝わる西門さんの気持ちが、こそばくなるくらい響いてくる。
『私達の幸せを守ろうと、何があっても守ろう』と固い決心が伝わってくるよ、西門さん。
旦那さんが戻ってくると、入れ替わりに私たちも海へ入ることにする。
キュッキュッキュッ・・・裸足が砂に食い込むたびに聞こえる音。
西門さんの手に引っ張られ、ズンズン海の中へ入っていくけれど、遠浅の海はファミリー向けに丁度良く、私のお臍の高さで安心だと思った。
優紀に両手を握られ、バタ足練習をしている銘ちゃんに近づいた。
「凄い、銘ちゃん、まだ3歳になってないのに、バタ足できるんだ。」
「うん、赤ちゃんの時からスイミングスクールに通わせていて、水が大好きな子なのよ。」
「へえ~大したもんだ。」
「銘、ここからあのお兄さんのところまでバタ足で行ける?」
えええっ?泳げるの?優紀!こんな子供に、そりゃ無茶でしょ??!
すると、心配を他所に、銘ちゃんは返事もせずに5メートル離れて立つ西門さんに向かってバタバタと泳ぎ出した。
自分がこんくらいの時は、砂浜で遊ぶのがせいぜいだったと思う。
それを思うと、この小さなスイマーが驚異的に思えるし、西門さんもビックリしたようで、咄嗟に腕を広げ、心配そうに見守っている。
1メートル・80センチ・50センチと近づいて、西門さんが根負けしたように銘ちゃんを掬い上げた。
「すげえ~、銘ちゃん、良くできました!未来のオリンピック選手だ!ご褒美に、ホラ。」
そう言って、高い高いをする西門さんは白い歯を見せ、楽しそうに笑っていた。
銘ちゃんもキャッキャッと嬉しそうで、まるで若いパパとその娘のよう。
コアラのように小脇に抱えたかと思うと、もう一回とねだられて、高い高いを何度か繰り返す。
ふと周りを見ると、オバサンから若い女の子まで、無邪気にはしゃぐ嘘親子に視線が注がれている気がした。
その腕にはデイトナを光らせ、濡れた黒髪はオールバックに、わずかに前へ落ちる髪の束からその超端正な顔に雫が落ちて光る、パパにしては格好良すぎ、確かに目立ってる。
いや、浮いてるよ!!
「銘、そろそろ、こっちに戻ってらっしゃい。」
すると、また来た時と同じようにバタバタと、あっぱれな泳ぎっぷりだった。「牧野、もっと深いところ行こうぜ。」
「ヤダ!」
「大丈夫だって。」
抵抗むなしく、引っ張られて歩き出す。
ズンズン行くと、足下の水温が急に下がり、水面が顎まできていた。
「ストップ!ここでストップ!にしかど~!!」
気付くと、つま先立ちでマジ焦った。
あわてて、大木にしがみつくように、西門さんの身体につかまるのは条件反射。
腕を背中に回し、両脚まで絡ませて、溺れる者、藁をも掴むの心境か。
「ちょっと力抜け。ちゃんと、銘ちゃんみたいに抱っこしてやるから。」
「ええっ?恥ずかしいでしょ。」
「いいじゃん、そんくらい。もう誰もいねえし。」
ニヤリと笑う西門さんの白い歯が、ジョーズのように光って見えるよ。
「そうそう、それでいい。」
私の腕を西門さんの首の後ろで交差させ、胸の間に少し距離を置き、お腹とお腹は密着させて、目の前には水に濡れた西門さんの顔が来る。
「な?平気だろ?」
「うん・・まあ、平気だけど・・・近すぎる。」
西門さんは私の瞳を覗き込み、微かに微笑んだ。
視線を私の瞳から下へとずらす、そして、唇に焦点を当てじっと眺めるように見つめている。
その物欲しげな表情・・・そんなのを目の前にすると、胸がギューッと押される感じがして、何か言わなきゃって思った。
すると、聞こえてきた辛そうに甘えた声。
「牧野、キスしたい。」
「・・・」
思わず、ゴクリと唾を飲み込んで見つめ返す。
西門さんは、私の返事を待たずにゆっくりとキスを落としてきた。
ちょっびり塩辛いキス。
二人の間で、チャプリと波が立つ。
唇を割り進入してきたのは温かいいつもの西門さんの舌で、私の口腔内をなぞるように絡め始め、だんだん深いキスへと進んでいく。
冷えた足元は、西門さんのキスでほんわか温かくなる。
胸の中も温かくなって満たされる、憎らしいほど気持ちいいキスだった。
西門さんに掴まって、このままずっと波間で漂っているのもいいと思う。
子供達の歓声がBGMのように聞こえてくる。
海水はブランケットのように私たち二人を優しく包んで、日常の世界を視界から消してくれた。
つづく -
shinnjiteru75 75.
『天高く馬肥ゆる秋』かぁ・・・・・・確かに・・・そういう感じ。
見上げれば、澄み切った青空、塵も少なそうで透明度は・・・すっごく高い。
それに、ここ最近、食欲は増して食後のデザート量も増えてるし。
わたし、馬と一緒じゃん?
スカッと爽やかな秋晴れだというのに、ふーっ、なんかヤダ。
また一つ溜息、なんで消えてくれない?この悶々とした気持ち。
結婚式まで一ヶ月をきったある日、帰宅したばかりの西門さんから漂ってきたマンゴと蜂蜜を足したみたいな女の子の香り・・・それも、きつい。
いくら鈍感な私でもそれに気付かないなら、完全に病気だ。
夕食時、ムスッとしている私の様子に気付いた西門さんに、その理由を吐かされた。
「ああ・・・それで、妬いてくれてるってわけ?」
「妬いてるってほどじゃないわよ。
ただ・・・何で?女の子の匂いが強烈に?って思っただけ。」
「妬いてんだろ?素直じゃねえなぁ~ったく。」
「・・・・。」
ビールグラスをテーブルに置いた西門さんは、飄々とした様子で料理に箸を伸ばす。
素直に言えない自分が可愛くないって、よ~く分かっております。
でもさ、勝手に思ってれば?みたいな西門さんもどうよ。
私の事は全部わかってるから大丈夫って、豪語してたのは誰?わかってんなら何とか納得させてみなさいよ!
一人勝手に苛立って、ジーッと睨みつけていた。
「ん?」
「で?」
「は?」
「なんで?」
「何?匂いのこと、聞きたいわけ?
それはなあ・・・たまたま、そいつが付け過ぎたんだろ。」
「普通、そこまで移らないと思うけど。」
「俺は潔白だぜ。」
「誰?」
「は?」
「そいつって、どいつ?」
初めて顔を上げて、マジマジ私を見つめた西門さんはフッと表情を緩めると、その女子学生について話し始めた。「切羽詰ったように抱きついてきて口を開けば、“好きです。私を先生の愛人にして下さい!オモチャにでも、何でもいいから抱いて!”だぜ。
抱きついて離さねえ勢いで、俺だって面食らったってば。
香水をいろんな所に振り掛けて来たんだろうけど、やり過ぎだっつうの。
生徒から、“オモチャにでも“って言われても、そんな気ないしお断り!
もちろん、即答。」
「オ・オモチャ・・・????」
「ふん?」
言うべき事を言い終えたとスッキリ顔で、酢の物の小鉢を覗き込んだ西門さん。
こっちは、あいた口が塞がらない状態だった。
オモチャ・・・って、そこまで西門さんが好きってこと?
捨て身で、体当たりでやって来る女学生っているもんだ、神風特攻隊バリの?
恋人がいようと、嫁がいようと、関係なしって凄い思い切りというか信じらんない。
若気の至り、恋は盲目、無我夢中・・・そんな風にガムシャラに突き進んで来られたら、西門さんだって正常な男、気の迷いとか出てくるかもしれないんじゃないの?
再会してからこの4ヶ月、私達は時間も距離も乗り越えて、空白を埋めるように手を取り合い、愛し、愛されたい欲求、相互愛を深めていると思う。
世界が一段と輝きを増し、綺麗に見える、共に過ごす時間が愛しくて、毎日が楽しくて。
怖いほどに幸せだから、そんな幸せばかりじゃおかしいって、どこかに落とし穴があるんじゃないかって力んでいた気もするけれど。
はあ~、これって幸せボケが過ぎた代償なのかな?・・・なんだか、こんな小さな事件に傷ついてしまう弱い自分にも呆れるし、はあ~、なんかヤダ・ヤダ。
もう、西門さんみたいにやり過ごせない。
私って、やっぱり100%の幸せに浸れない運命なのかって落ち込みもする。
一生、ずっと苦労するように生まれてしまったとか。
西門さんと付き合い始めて、毎日ドキドキの連続だったけど、こんな嫌なドキリって心臓と関係ないところで鳴るもんだね。
陰湿な女のいじめに屈っしない雑草女、そんな所がF4には強烈で関心を買った、西門さんだって、そんな私が目新しく映ってたんでしょう?
なのに、今の私って女々しくて弱々しい。
幸せすぎて、立ち向かう力を無くしたなんて、この先どうすりゃいいんだか。
雑草が萎れたら、見れたものじゃなくなるのは知っている。
ふいに落とされた小石は、30過ぎて春に目覚めた奥手の胸に波紋を起こし、いつまでも消えてくれなかった。そんな折、突然、京都に遊びに行くから宜しく!と電話を寄越してきた滋さんと桜子。
実際、本当にやって来た二人。
それはいいけれど、有無を言わせず、昨夜は飲み会に突入で、久しぶりに女三人で酒盛りだった。
その夜、西門さんが戻ってきたのは遅く、私たちが寝入る頃だ。
「つくし、それって、マリッジブルーじゃないの?
幸せだけど、漠然と憂鬱って、まさしく症状だよ。
大好きな人と結婚できるのに、贅沢病!あ~あ、何があったか知らないけど、あわてて損したよ、ねえ、桜子!」
「そうですよ、ガラリと生活環境が変わって、少し疲れもあったんじゃあないですか?
女心は複雑ですからね。」
「は?あわてた?」
「ああ・・・いやいや、その~つくしの声が元気ないな~っと思ったから~。」
「まあまあ、先輩・・・花の独身生活にバイバイってことで、乾杯!」
「花の独身生活ねえ。
そうよね、西門さんが浮気したら、私も独身気分に戻ればいいんだ。
いちいち心配してたら、キリないし、身体がもたないし、目には目を!」
「浮気で返す?言うねぇ・・・つくし。
それだけ、元気ありゃあ、大丈夫だわ。」
「先輩に出来ます?浮気なんて。」
「う~ん、無理だったら、桜子!ホストクラブに連れて行ってよ。
西門さんが女の子に囲まれて、だから、私はその逆でいく!」
酔っぱらって、気が大きくなっていたようだ。
「ねえねえ・・・だったら、フィアンセの存在をアピールすればいいんじゃない?
ニッシーの授業に出席してみない?」
「えええーっ?!」それが昨夜の話。
滋さんと桜子と三人、女子大の門をくぐりぬけ、西門さんの講義が行われる部屋へと向かう道々、なんだか話しの流れでこうなったけど、のこのこやって来たのを後悔し始めていた。
私達って浮いてるんじゃない?
正体がばれて、嫉妬深い浅はかな奥さんだと噂が広まって、西門さんの名誉に傷でも付けたらどうする?ってハラハラ・ドキドキだ。
それでも、半分残っている好奇心が足を進ませる。
そこは200人くらい入れそうな階段教室で、前から5列ほどはギッシリと女学生が埋め尽くしていた。
前の扉が開き、西門さんが姿を現すと、学生達から歓声こそ上がらぬものの、息を詰める声が和音となって波のように前方からあがってきた。
スカイブルーのYシャツに黒皮ライダース・ジャケット、そして濃紺の細身スラックス姿。
朝のいでたちと変わらない西門さんだけど、ここから見ると遠く感じる。
挨拶もそこそこに、部屋の明かりが少し落とされ、大きなプロジェクタに家屋や店舗の様子が浮かびあがる。
今日のテーマは『京風について』のようで、間口が狭く、奥行きのある、いわゆる「うなぎの寝床」的な建物が次々と映し出され、その構造を他地域と比較するためにレーザーポインタを使って、部所の説明やら構造背景を淡々と説明していく西門さん。
その声はマイクを通して聞こえてくる。
口調は滑らかで淀みなく、意外なほど真面目にやっていた。
そこには、必殺スマイルやリップサービスは一切なくて、文字通り、教鞭を振るっていた。
本来備わった秀麗な容姿は、無表情故、それはそれで返って際立ってくるもので、レーザーポインタが魅惑的な魔法の杖に見えてくるからしょうがない。
そりゃあ、釘付けになる女学生が前列を占領するのも頷ける。
ポーッと見ているうちに、内容はさらに深く掘り下げられて、かつて日本の都、朝廷が置かれた京都に根付く精神性・・・プライドがどうのこうのと話が進んでいる。
滋さんが声のトーンを落として話しかけてきた。
「ねえ、つくし、ニッシー、ちゃんと先生してるじゃん。惚れ直した?」
「もう~からかわない!
滋さん、最後まで大人しく、絶対に目立たないようにしていてくださいよ。」
「ちょっとくらい、ウインクくらいいいじゃない?」
「ダメ・ダメ!!約束したでしょう?」
滋さんは怒られた子供みたいに肩をすぼめる仕草を見せる。
なんとなく想像はついていたけど、西門さんはどうやっても、やっぱり目立って格好いいわけで、女の子がうっとりするのは想定内だし、いちいち浮気を心配する自分の方に問題があるのは明らか。
それは分かっているくせ、ノリでココへ来てしまい、見せ付けられた感じがする。
良かったのは、全てを飲み込まないといけないって、視覚的に感じられたことかな。
西門さんは私たち三人に気付いているのかどうかわからない。
そのくらい、真剣に講義を進めて、熱く語っている。
好きな仕事、西門さんの選んだ仕事を理解し、応援してこそ良い嫁なのに・・・私は、既に反省すら感じていた。
やがて、講義の時間が終了し、室内が明るくなった。
レポートを提出する指示を受けた生徒達は、ここぞとばかり西門さん目掛けて集まって、まるでセール初日のような熱気だ。
「桜子、滋さん・・・行こ。」
「えっ?いいんですか?」
「うん。家でも会えるし。」
そーっと席を立ち、横にずれて出ようとした。キーン・・・
「つくし!」
マイクを通して私の名を呼ぶ男の声が響く。
「つくし、ちょっと待て!」
そういえば、聞きなれた声。
振り向くと、女の子に囲まれた西門さんとバチリと目が合い、片手を上げてニコリと、それはそれは爽やかな笑みを送ってきた。
すると、まるで赤い絵の具が水中に広がるように、面白いように女の子の固まりに戸惑いと異様なヤキモチが広がって、私は思わず目を反らした。
反らした訳はビビッたからじゃなくて、面食らい恥ずかしかったからだ。
つくし!って、堂々と、初めて名前を呼ばれて、本当はとっても嬉しかったからだ。
トントントンと階段を一段飛ばしで駆け上がってきた西門さんは、当たり前のように私の肩に手を載せた。
「昼飯、食ったか?」
同時に首を横に振る女三人。
「じゃあ、一緒に行こうぜ。」
大きく頷く私達は首振り人形と化していた。
その大きな手は、私の腰に回され、肩が触れ合っている。
ホッと安心する形と重さ、難しいパズルが瞬時に完成したようにスッキリした感じで、そのまま離れないで欲しいと強く思った。
ごめんね、西門さん。
私一人でイライラしてたのバカみたい。教室を抜けると、長い廊下にはたくさんの学生達が行き交って、今こそ青春の時ぞと謳歌している風に見える。
中には私たちに注目する女の子もいたけれど、それならそれでも気にならない。
校舎の外に出ると、どことなく陽気が漂い、小枝にくっつく3枚の黄色い葉っぱに明るい陽があたっていて、『枯れ木も山の賑わい』・・・いやいや、これが本当に綺麗に見えてくるから不思議。
「ねえ、何をご馳走してくれるの?」
「私はね、お寿司がいい!」
「京都の上賀茂ですよ、湯豆腐ですって。」
「牧野は?」
「え?・・・京野菜のお店なんかいいんじゃないの?」
「OK、了解!決まり。」
「ニッシー、ひど!お客様のリクエストを無視してる。」
「お前ら、客じゃねえだろうが?」
「あれ~?西門さん、私達の前でも、“つくし”って呼んでもいいんですよ~。」
「は?うっさいな!」
横を歩く西門さんは、なんだか照れて可愛い。
「先輩だって、いつもは“総二郎”って呼び捨てにしてるんですか?“総くん”?“総ちゃん”?それとも・・・何て?」
ギョッギョッ・・・。
真っ赤になったところを口達者な二人にからかわれ、自然と小走りになる私達。
顔を見合わせ、手を握り、息を合わせて逃げるように駐車場へと急ぐ足元がとても軽く感じた。
つづく