"信じてる"カテゴリーの記事一覧
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shinnjiteru26 26.
司会者から与えられた10分間が過ぎ、再びマイクのスイッチが入った。
周くんと訪れている鉱石博物館で、“土と陶芸の切れない関係“というBD企画講演を拝聴した後、それに続くお楽しみゲームに参加してみた。
参加資格は、男女カップル。
二人で協力して、10ほど並べられた茶碗と同数の様々な陶土サンプルをマッチングさせるゲームだ。
つまり、出来上がった茶碗の元となる土がどれかを当てるゲーム。
「それでは、今から答えを言いますので、お手元の答えと照らし合わせてください。
一番目のこの少しオレンジがかった茶碗の答えは④番の土です。 こちらは、メインに大道土を使い・・・。」
「うわっ、あってたよ!」
「まあ、これはなんとなくわかったな。でも、後はさっぱり・・・全部、感ですよ。いいんですか?」
「いいの。いいの。
ここは、周くんの感を信じるからね! 私は、全然わからないもん。」
「僕だって、陶芸はど素人ですよぉ。 牧野さんと同じなのに・・・。」
文句を言う端から、冬の暖炉のようにあたたかな表情を見せる周くん。
「はい、次の綺麗な緋色の茶碗ですが、答えは①番。 ①番の黄瀬土です。」
「やった~、また、あってるよ。 すごいじゃない・・・!」
最後の答えが発表され、なんと私たちは優秀賞をいただくこととなった。
副賞として、某有名御食事処の地酒サービス券がついていた。
カップルで温まって欲しいとのメッセージがついている。
「地酒か・・・。牧野さん、日本酒飲めますか?」
「うん、好きだよ。 この辺りの地酒って、おいしそうね。」
「じゃあ、行ってみますか。」
私たちは、賞品となった地酒目当てに、夕食の店をそこに決めた。
周くんの日産フェアレディーZは、スタットレスタイヤに履き替えたらしく、雪道を安定して走行する。冬の暗い空から、静かに雪が降り出した。
降り始めの雪は、遠慮がちに柔らかくゆっくりゆっくり降りてくる。
夜の帳が下りると暗い闇色となる地上の世界。
上界に住む天使達が、気まぐれにその羽をバサバサ揺らし、小さな羽毛をこぼし落としているかのようで、ここは別世界かと見間違えた。
真っ直ぐ照らす車の明かりに驚いて、ひょいと避(よ)ける雪と静かにフロントガラスに横たわる雪が絶え間なく続き、まるでシェアーカーテンのトンネルをくぐり抜けているようだ。
運転する周くんは、力強く振り切るように車を走らせる。
スピーディな車の勢いと気長に続く雪の静けさがあまりに対照的で、不思議な感覚に見舞われた。
私は雪道を歩いているような錯覚の中、右腕を伸ばす。
「ねえ、周くん、雪の結晶が見えるよ。ほら・・・。」
「結晶?」
「うん、雪の結晶。 きれいな六角形なんだね~。」
「400年くらい前まで、雪の結晶ってダイヤや星や三日月とか、色んな形してると信じられてたらしいですよ。
僕は、観察したこと無いけど、同じ形のものは一つも無いんだって。」
「ふ~ん。 よく見ようとしても、溶けちゃうからね。
私ね、小っちゃな頃、空から降ってくる雪を一つ手の中に閉じ込めて、溶けないうちに願い事をすれば叶うって、何度も繰り返し遊んだことあったな。」
「何を願ったの?」
「いっろいろよ! 周くんと違って、色々と恵まれてる環境じゃなかったからね・・・。ハハッ。」
「 ・・・・・ 僕は・・・、小さい頃、家族でもっと出かけたかったなぁ。
みんなで動物園に行って、お弁当広げて暗くなるまで過ごしたりね。
せめて、兄貴達と対等に、普通に遊べる兄弟だったらよかったのにな。」
「あっ、え~と、ごめん! 色々と恵まれてるって言葉、失言だったね。
あんた達が重い宿命を背負って、小さい頃から大変だってこと知ってるつもりだったのにさ。
あ~もう、友達失格だね。ごめん!」
「クスッ、わかってますよ。
牧野さんが厭味でそんなこと言うわけ無いってこと。
ちょっと、聞いてもらいたかっただけですから。」
車が目的地に到着すると、私たちは車を下り、新雪の上を歩き始めた。
雪の上には、二人の並んだ足跡がスタンプのように押されていき、綺麗な模様に見える。
空を仰ぎ見る周くん。
立ち止まり、両手で雪をつかみ、一瞬、睫毛を伏せる。
蓋を開けるようにゆっくり動かす右手。
中を覗き込むなり、嬉しそうに白い歯を見せて笑った。
「あっ、牧野さん!大丈夫でした!溶けてなかったですよ!」
「ほんとう?すご~い。 ちゃんと、お願いもできたの?」
「もちろん。 聞きたい?」
「うん。」
「あのぅ、僕に牧野さんの過去を下さいってお願いしました。」
「 ・・?・ 過去なんてあげられないよ。 西門兄弟は二人そろって、何故か不可解なセリフが好きだね。
西門さんも素直に誕生日プレゼント寄越さないもんね。」
「総兄が誕生日プレゼントを? イベント事から逃げてる人なのに?
まあ、いいけど・・・。
お願いしたのは、牧野さんが動物園に連れて行ってくれますようにって。
少しづつでも、牧野さんの楽しい過去を僕にも分けて欲しい。
子供じみたお願いですかね?
例の遊び、雪が溶けなかったら願い事は叶うんでしょ?」
「なーんだ、そんなこと?」
「そんなことって・・・。じゃあ、いいんですね?お弁当も?」
「お安い御用よ。進の彼女とかも誘って行こうよ。」
周くんは私のコートの背中に手のひらをそっと押し付けた。
「 ? 」
「もしかして、鈍いって言われません?」
「//// そ・それは、本人の自覚以上にひどいらしいんだけど、ホントに分からないからしょうがないじゃん。」
「はっきり言います。 僕は、牧野さんと二人だけがいい。
動物園だけじゃない、これから二人で色んなところに行ってみたいです。」
「二人だけ?」
「そう、二人きりのデート。
僕のことを進と同じ扱いしないで欲しい。
なんか、調子狂うんだよな。
僕の周りの女の子って、二人きりになりたがる子が多いんだけど、牧野さんにとって僕は異性じゃないでしょう? 弟扱いですよね、これって。
一応、僕も男なんで、ちょっと格上げしてくれませんか? 僕にとっては、そっちのほうが自然で楽しい。クスッ。」
「そういわれても・・・。前は、そんなふうに言わなかったじゃない。
第一、周くんが女の子とお付き合いしてるのって想像つかなかったし、まさか、私のことをそういう風にも見てたなんて。」
「そう?
急に変わったわけじゃなくて、何て言ったらいいのかな。
あんまり牧野さんが僕を警戒してくれないから、一方通行が嫌になってきただけなんですけどね。
彼女になって欲しいなんて迫るつもりないし、正直言って自分の気持ちもよくわからないですし、深く考えないで・・・。
けど、もう少し僕のことも普通に異性として見てくれないですか。
これって、押し付けですかね。・・・ガキ扱いされても仕方ないか。」
「周くん、ごめん。それ・・・、」
「ダメ。 拒否はダメ。 このまま会えなくなるのは、心外ですから。
僕といると、お徳ですよ。 今日だって、地酒がタダでしょ?
ねっ?ゆっくりでいいから・・・。」
人懐っこい笑顔でそういう周くんは、私の手を取り、店の暖簾をくぐって中へ入っていった。牧野さんは、地酒と地元の肴を前にはしゃいでいた。
本当においしそうに食べて、本当に楽しそうにケラケラ笑う彼女を見ているだけで、僕はお腹がふくれた。
「牧野さん、僕につかまってくれたらいいですよ。 駐車場まで雪道だから、気をつけて。」
「周くん、ごめんね、私ばかり飲んで・・・。」
「構いませんよ。
僕は、今晩中にお姫様をご自宅までお送りする命(めい)がありますから。
それに、お酒が入ると更に饒舌になる牧野さん、可愛かったな。」
「アルコール度30%って気付いたのが、遅かったかな? エヘッ。
うわ~、空気は冷たくておいしいし、体はポカポカしていい気分だよ。」
車まで到着すると、早速キーを回しエンジンをかけ、暖房を27度まで上げる。
すぐに寝息を立て、眠りの世界へまっしぐらの牧野さんのコートは脱がしてあげよう。
暗くて狭い車内で脱がせると、コートの右腕に何かが引っかかった気がしたけれど、
力を加えれば問題なく、眠り姫は僕の横で可愛い寝顔を惜しげも無く晒(さら)し続けている。深夜の高速は渋滞知らずで、行きよりも30分早く最初のインターチェンジに到着する。
僕が女の子をこんな時間に送るのは初めてじゃない。けど、何も手を出さないで返すのは初めてだ。
牧野さんは、プツンと全ての電源を切ったように静かに寝息を立てている。
さっきまでの饒舌ぶりを発したにぎやかな唇が、僕の横で僕を誘惑し始める。
『本当に無防備な人だな。 道明寺さんは、さぞかし心配だっただろう。』
言うつもりもなかった言葉を口にした自分のせいで、牧野さんに危うく拒絶されるところだった。
始めは、あのF4を変えた伝説の人だからと興味本位で近づいた。
僕に媚びる女の子は飽き飽きだったけど、牧野さんは全然違う種類の女の人で、強力な磁力を持っているのにすぐ気付く。
それが何なのか興味が湧いて、会えば次の予定を切らすことなく取り付けた。
一方で、自分のことを知って欲しくなる自分に少なからず驚いた。
いつの間にか携帯の着信メールが点滅していたらしい。
携帯を開き、送信元を見遣る。
総兄からだ。
“ 牧野をちゃんと送れよ。”
『総兄は、牧野さんのことをどう思ってるのだろう?
友人以上の関係なのは確か。
けど、どうしたいと思ってるんだ?』
携帯を掴みなおし、返信メールを打った。
“ 帰る道中です。 遅くなるけど、ちゃんと送るから。 ”
車を再び走らせ、高速をぶっとばし、どうにか夜中の2時半に牧野さんのアパート前に到着した。「牧野さん、着きましたよ。」
そっと、声をかけるが、かわいらしい唇を半開きにしてぐっすり寝入っている。
ふと足元を見ると、金色に光る輪っかが落ちていた。
コートをぬがした時、落としたに違いない。
拾い上げて、牧野さんの右手首を取る。
留め金をはずし、パカリと口を開け、そっと腕を収めると
“ カチリ ”
と小さく音が聞こえた。
「西門さん・・・、ありがとうね。・・・・・大事にするから・・」
うんっ?
目をつぶったまま?寝言?
このバングルは総兄が送った誕生日プレゼントなのか。
総兄みたいに、僕のこともちゃんと見てくれたらいいのに・・・。
僕の中で、このまま牧野さんを帰すべきでない考えが冷静心やらを凌駕して飛び出す。
衝動的にサイドブレーキに手をかけ、静かに再び車を発進させた。
行き着く場所でどうするのか、僕らしくも無く先が読めない見切り発車もいいとこだ。
とにかく、僕の陣地、神楽坂のマンションに連れて行くことにした。
つづくPR -
shinnjiteru27 27.
牧野のどアホが・・・バッテリー切れか?マナーモードのままか?
あいつ、こんな調子でよく仕事やってるよな。
“携帯電話”の意味あんのかよ!
クソッ!念のため、真夜中を少し過ぎた頃、牧野にメールをいれてみた。
それとなく自宅に帰っているのか探りを入れる内容のメール。
けれども、あいつからの返信はなく、着信ランプはいつまで経っても光らない。
携帯を睨みつけ、念を送り、また携帯を注視するのを繰り返すこと数回。
その挙句、独り相撲にアホらしくなりベットにダイブする。
女々しくて野暮な事だと思いながらも、牧野に周と出かける予定を尋ねた。
東北方面ならば一泊するだろうと踏んでいたところ、日帰りに決まってる!とあっけらかんと答えた牧野の顔が浮かぶ。
周のやつも女知らずの堅物ではない。
兄弟だから知覚できる性的本能、求愛行動が自分のそれと親しみがあり、ある程度想像できてしまうから、俺の警戒信号がしきりと黄色点滅する。
『 まだ周と一緒か・・・? 』
安眠を約束してくれるはずのベッドも、ただのベンチと化しどこまでも頭が冴えて仕方ない。
埒が明かない牧野に見切りをつけ、周に教科書みたいな簡潔メールを送る。
“ 牧野をちゃんと送れよ。”
周からは、即返事。
“ 帰る道中です。 遅くなるけど、ちゃんと送るから。 ”
あいつらしい優等生のメッセージが返ってきた。ベッドで見慣れた天井を眺めていると、牧野の色んな顔が次々浮かんでくる。
まるで頭の中に巨大スクリーンがあるみたいだ。
どこからこんなにたくさんの牧野が出てくるのだろう・・・?
99%無防備でいるはずの牧野が心配で、俺のイラつきが収まるどころか雪だるま式に膨らむ一方。
神経がざわつく。
俺がこんなに振り回されるなんて・・・、ふっと新鮮さに爽快さを覚える自分がおかしくもある。
明日、さりげなく電話すりゃいいのにと、俺の抜け殻が囁くものの、もはや導火線に火がついた状態で、それができないのは百も承知。
目を堅くつぶっても、瞼に全神経が集まってカッカと熱くなるばかりだ。
いつもの牧野の顔が見たい。
牧野を俺のそばに感じたい。
そうしたら、安心して眠りにつけるはずだ。
せめて、声だけでも牧野と繋がりたかった。
周に感じる嫉妬心は、青い炎を上げ燃え盛り、内から力(パワー)を呼ぶ。
俺は、ただ確認するつもりだった。
時刻は既に丑三つ時、針と針の間は、きれいな60度で2時をさしている。Trururururururu・・・・・・・・・・
応答なし・・・。
受話器を置くなり、体が動く。
素早くバイクのキーをひっつかみ、玄関へ向かう。
牧野のアパートまで15分、まっすぐ走らせた。
牧野の部屋は真っ暗で物音一つしない。
呼び鈴を鳴らすが、応答なし。
まだ帰ってない・・・。
残るは周のマンションか・・・。
来た道を引き返し、オレンジに光る高速をひたすらぶっ飛ばした。
一度も行った事無い神楽坂のマンションは、一際高層なので容易に見つかった。
性急に部屋番号ボタンを鳴らし続けると、セキュリティー画面が発色し、周の訝しげな声が聞こえる。
「 総兄? 」
「 おい、そこに牧野いるんだろ? 開けろ! 」
解除のブザーとともに、周の誕生日でもある903号室目指して駆け込んだ。女性物の靴を目にした総兄は、僕の肩をすり抜け、つかつかリビングへと入っていった。
「・・・牧野は?」
「奥のベッド・・・。」
僕には目もくれず、奥のベッドルームの扉を開け、スースー寝入っている牧野さんに近づき、顔を覗き込んでいる。
そして、そっと掛け布団をめくった。
「周、お前、何も手出してないんだな?」 と静かに確認する声が闇に響く。
「当たり前でしょう・・・総兄とは違うし・・・。」
と余裕で答えたものの、この寝息を聞きながら、さっきまで己(おのれ)と猛烈に戦っていたのがバレやしないか冷や汗ものだ。
僕は、目覚めた牧野さんにどう言い訳すればいいのか知恵を絞りながら、牧野さんを力任せに征服してみたい身勝手な欲望に囚われていた。
もし、総兄が来なければ、その肌に触れたい衝動に抗えなかったかもしれない。
少女のようにあどけない寝顔を見つめていると、牧野さんの全てを知りたい欲望が湧いてきて、それを知れば、ずっと望んでいたものが与えられるような気がした。
牧野さんの中で、僕は温かく包み込まれ心まで満たされるだろう。
小さな頃の寂しかった記憶の隙間を埋めてくれる。
同時に、西門家のマスコット的に扱われた僕が、ようやく総兄と肩を並べて立てるのではないか・・・とまるで妙案を思いついたように体が嬉々として動いた。
頬にかかる髪の毛を人差し指で掬い取り、耳へかけてあげる。
この無防備に眠る存在が、シンプルな純恋愛と言えなくても、刻々と愛おしく思える。
僕の全身を使って、最後の血の一滴まで愛してみたい強い欲望が湧く。
自己愛の成れの果てに、僕がこんな厳かな気持ちで女性に触れてるなんて思いもよらなかった。
そっと首筋に唇をあてがい、牧野さんの匂いを嗅ぎ、ぬくもりを感じた。
「 う・・うぅ~ん・・。 」
起きた?
いや、まだ眠っているようだ。
いたずらが見つかりそうになって、子供のように息を潜ませた。
今、僕がしようとしていることは子供の遊びなんかじゃない。
取り返しのつかない犯罪だと、冷静な僕が忠告する。
例え、牧野さんに悲憤慷慨(ひふんこうがい)泣かれても、骨髄に徹するほど恨まれても仕方ない下劣な行為。
公序良俗に背きどの面下げて牧野さんに会えるのか、もう二度と春陽に向かって咲くタンポポのような明るい姿に会えないだろう。
僕が身を切るように牧野さんから離れた時だった。
ピンポーン・・♪大きな呼吸をし、真剣な顔した総兄だった。
リビングの奥の部屋で牧野さんを確認した総兄。
ドアをそっと閉めるや、その憤りを気迫で語る男が何を言うか身構えた。
「周、どういうつもりだ? 牧野をちゃんと送るんじゃなかったのか?
なんで、お前のベッドにいるんだよ!?」
「牧野さんに声かけたけど、起きなかったから・・・。」
「そういう時は、たたき起こせ! あいつは普通の脳味噌もってねえから。 」
「なんで・・・? なんで、そんなに躍起になるわけ?
牧野さんは、総兄にとって何なの?」
「 ・・・・大事な仲間に決まってる。
周、言っておくが、あいつだけは部屋に連れ込むな。
俺だけじゃない、司だって類だって黙ってねえぞ。」
「仲間ってだけじゃないんじゃない? ・・・・もしかして、好きなんじゃないの?」
「お前には関係ない!」
「関係あるね! 僕だって、牧野さんを愛しく思ってる。」
「は?愛しい?」
「あぁ。 さっきだって、愛しさ余って眠ってる牧野さんを無理矢理犯して、俺だけのものにしたいと思ったね。
牧野さんが嫌がっても、力でねじ伏せれば出来るだろ?」
「なにぃ~お前、本気で言ってんのかよ!!!もういっぺん、言ってみろ! 力でねじ伏せるだとぉ~?それが、愛しいってことか?」
総兄は、怒りを隠すことなく、胸倉を思い切り掴んで、今にも殴らんばかりの勢いだ。
「そうだよ、総兄に立ち入って欲しくないね。」バコ~ン・・・・
僕は、思い切り左頬を殴られ、ソファーに吹き飛ばされた。
口の中に苦い液体が拡がり、胃の血管が収縮し嘔吐しそうになる。
総兄は、依然、拳を強く握り締めながら、僕を見下ろして叫んだ。
「愛しいっていうのはなぁ、自分より相手の気持ちを大切にすることだろうが・・・。
お前が牧野を好きになる遥か前から、俺の方が牧野を愛しく思ってんだよ。
俺は牧野をずっと、見つめてきたんだ。
あいつは、ちっとも気付いてないが、それはそれでいいと思ってた。
・・・今までは、それでよかったんだ。」
「 ・・・? 」
「きっかけは、お前だ。 信じられねえだろうが、お前に嫉妬してる。 」
「 ・・そうなの?・・・ 」
「勝手に嫉妬して、牧野を手に入れたいと思い始めたんだよ。
牧野が好きだと素直に認めてやる。
いいか、だからあいつには近づくな。」
「総兄、僕だって簡単に引くつもりないよ。
同じ土俵にあがるよ。今度は、紳士らしくね・・・。
さっきのは、総兄の本心をあぶり出したかったから、でまかせ言っただけ。
僕は無理矢理、牧野さんを襲うつもりは無いよ。
信じるかどうかはお任せするけど・・・。」
「お前が相手?まだ学生のお前に勝負挑まれるとは思いもよらなかったな。
ふっ、まあ、いいぜ。 力づくはご法度、正々堂々と行くなら。
お前も全力出して、来いよ。 」
「何だよ、急に機嫌よくなって・・・。 まだ、勝負は分からないよ。
僕のためにだけ、牧野さん、お弁当作ってくれるらしいし。」
「ふんっ。スケベな魔の手を封印できれば、不戦勝も同然。
今晩は、俺が来てやったんだから、飲み明かすとするか?」
「スケベなのは、自分の方でしょう・・・? ・・・ったく。」
総兄はキャビネを物色し、グラスを2つとスコッチを取り出し、今晩はここに泊まるからと言いながら機嫌よく座り込んだ。
現金にも、戦う相手のこの僕のグラスにスコッチを注ぎいれ、座れと手招きする。
何だよ~、急にやって来て、この流れは・・・。
「あの鈍感女の成熟を祈って、乾杯するぞ!!」
結局、僕たちは空が白み始めるまで牧野さんを肴にして飲み明かした。
不思議と総兄が、僕の兄らしく兄弟だと感じる時間だった。
つづく -
shinnjiteru28 28.
満たされた再生感とどことなくけだるい疲労感を感じながら、眠りから覚醒した。
大きなブラインドが光を遮り、しっかり部屋を暗くしているものの、微かにもれる白い光は朝を告げている。
明らかに自分の安アパートとは違い、この広い空間はベットのためだけに用意されていて、フッと自分の嗅覚が本能的に異性の匂いを嗅ぎ取った。
急速に身体がこわばり、目が泳ぎ始める。
ここは、どこ?
人は薄闇の中でも、その明度に合わせて焦点を探しあて、視界を得る柔軟性をもつ。
すぐ脇のベッドサイドテーブルに目を遣ると、大柄チェックのシェード・ランプとA4サイズの用紙が何十枚も無造作に置かれてあった。
ペーパーウエイト代わりに乗せられた時計は、世界主要国時刻と気温・湿度を計測器の様に表示していて、時刻は、06:34。
確か、昨夜は周君に送ってもらったはず。
まさか・・・?
ハッとして、掛け布団をめくり我が身に起こった変化がないかあら捜しするも、一瞥で胸をなでおろした。
格子柄のタイツは身についており、黒いウールのショートパンツまでそのままだ。
皺になってないか気を揉みながら、自分の悪態を反省した。
悪夢にうなされた子供のように、のっそりベッドから出て、ドアに向かい、ドアノブを開けてみる。
リビングルームとおぼしき部屋は、ブラインドが開いたままで、様子を見るには十分な明るさだ。
一目瞭然、瞬時に状況が理解できた。
どうやら、私一人が寝室を独占し、残る二人はリビングで明け方まで飲み明かしたみたい。
えっ、二人? どうして?そこでつぶれていたのは、西門兄弟。
部屋にはお酒の匂いがプンプンしていて、二人ともどれだけ飲んだのだろう?
ネイビーブルーのソファーベットには、その長い脚を伸ばして眠っている西門さんとオークのロウ・テーブル横で、同じくネイビーブルーの大きなクッションを抱きかかえながら眠っている周くん。
二人を起こすわけにもいかず、どうしたものか考えを巡らせる。
私は音を立てないように正座してちょこんと縮こまり、しばらく眠る二人を静かに眺めることにした。
大きな二人の男が、目の前でスヤスヤ眠っている。
そして、部屋にはタバコとお酒と多分彼らのコロンの香りが混ざり合っていて、それはとっても男臭い匂いで自然と肩身が狭くなる。
仮にも、私は結婚前の乙女なのだ。
けれども、もうユニセックスな年頃でもないわけで、このケースでは確保された羊ちゃんでしょう。
馴染みの二人を狼に例えるのは、友達甲斐ないけども、酔いつぶれて寝込んでるし。
いや、西門さんなら、小指で服を脱がせたり、想像もつかない技を使うんじゃないの?
あぁ・・・記憶が無いのは、あまりにも女の自覚がないのではないかと落ち込む。
乾いた頭を振り絞るように記憶をたどっても、さっぱり思い出せない。
まっ、とにかく、何もなかったようだし、よし!とするか。
冷静になって、キョロキョロ辺りを見回すと、このリビングで目に付くのは、大きく重厚な書斎机だ。
左脇机には、パソコンとテレビが並んでいる。
右脇机には、何冊も本が積まれていて、その谷あいのスペースでレポート用紙などを書くのだろう。
ここは、きっと周くんのマンション。
きっと、大学に近い場所で、実家から通う時間をセーブする為かプライバシーの為に使用している西門名義の物件ってところだろう。
そうだったよ。
周くんも金持ちのお坊ちゃんなんだもん。
刻々と時間が経つようでいて、ノロノロとしか進んでいないような気もする。
だんだん、お酒の匂いが洋服に染み込むのではないかと思った。
膝から50センチほど前には、周くんが少し前屈しながら安心しきったように眠っていて、眺めていると、とても可愛いので口元がゆるんでくる。
まるで、小さな男の子のような寝顔をしてる。
一体どんな夢を見ているの?
西門さんは?
そっと立ち上がり、西門さんに近づいた。
西門さんの寝顔なんて、すっごくレアなものを見せてもらってるのではないかい?
西門さんは右肩を下にし、背もたれに身体を向け、黒いサラ髪が左目を隠すように覆っている。
その寝顔が見たくて、気付いたらそっとその髪に触れていた。
周知の事実でもあり、前からわかっていたけれど、その整った顔立ちは眠っていても遺憾なく健在だ。
男のくせにホントに綺麗な寝顔。
十人並みの自分の寝顔なんて、何の値打ちも無い気がする。
悲しい敗北感を感じる。
胸をキュッとつねられたような痛みも感じる。
からかわれる度、西門さんの恐ろしく整った顔のドアップを何度も見てきたし、なんで今さら、そんな気になるのか知らないけれど、長いその睫毛を見つめていると、鼻の奥が熱くなった。
多分、その場にもっと居続ければ、最後は西門さんをたたき起こして、意味不明な言葉で罵倒してしまうようなモヤモヤした感情。
なにやら自分でも説明できないショッパイ悔しさをぶつけてしまう気がして、そっとその場を離れ、コーヒーをセットしようとキッチンへ行った。
妙な感情の高ぶりの理由(わけ)を、二人の美男が眠っている稀な空間のせいにして、コーヒーメーカー周辺をごそごそ探すと、 グラインド済みのコーヒー豆とフィルターを発見。コーヒーの良い香りに、ようやく体がシャキっとしてきた。
時刻は、既に起きてから一時間が経過しているが、二人が目覚める気配なし。
いや、この場合、良く眠ったのは私の方だね・・・。
最初は、一人勝手に飲むのも気が引けたが、ついにはダイニングテーブルに座り、熱いコーヒーが入ったマグを啜り始めた。
左手には、青い光の点滅を放つ携帯電話を握っている。
そういえば、陶土サンプル当てゲームの時からマナーモードにしたままだった。
フリップをあけ、受信確認をすると、西門さんから真夜中に一件。
後は、類から入っている。
げげっ・・・、類からは3件も。
あわてて、マナーモードを解除した。
類には、バレンタインチョコを渡したい、2・14は周くんと出かけるからだめだけど、その辺りで暇な時間ができたら連絡してとメールを入れておいた。
いつもお世話になっている類には、今年もちゃんと渡したい。
今日の予定を反芻すると、午後から出勤。 ゲラ刷りのチェックが何より優先予定。
類は類で、UAEから戻ったばかりで多忙を極めているはず。
今晩がだめだったら・・・と翌日の予定を思い浮かべている時だった。けたたましく携帯電話が鳴った。
ライアーゲームの ♪タラッタッタッタッタ チャララララララ~のメロディーが。
思い切りびっくりして、あやうく携帯電話を放り投げそうになった。
ピッ!
「お早う。 まきの。」
朝だというのに、いつもと変らない類の声が耳に届いた。
入れ違いのように、私は声のトーンを下げて返事する。
「お・おはよう。 また、今日は早いんだね。」
「牧野も起きてたでしょ? 俺は・・・時差ボケかな、かけなおして欲しい?」
「う・ううん、大丈夫だよ。」
「今、どこ?」
「ど・どこって・・・ええっと~。 ここは~多分、周君の家・・・?」
「 ・・・・・ 」
あきれて絶句されたのか?
そうだよね・・・・我ながら、酔っ払って寝入ってしまい、目が覚めたら男のベットの中って冗談でも笑えないよ。
それも、全然記憶無しだもん。
類に返す言葉も見つけられない。
ふと背後で音がして振り返ると、周くんが上半身を起こしながら、まぶしそうにこちらを見ている。
それに、西門さんまでもうつぶせの状態から、顔をこちらに向けて無言で見つめていた。
え?ギョギョギョ・・・。
「ねえ、牧野、昨日からずっと周と一緒だったの?」
畳み掛けるように類にそう聞かれ、なんだか自分がしでかした愚行を三人から、
よってたかって責めらたてられ針の上の筵(むしろ)に座らされてる気がして、朝っぱらから脳内は焦りまくり、変な汗が噴出してきた。
さっきまでの静けさが一転して、急に耳を塞ぎたい気分に落とされる。
「あ・あの・・・よくわからないんだけど、変なことは何一つしてないから。」
モゴモゴ濁しながら答えてみるが、やはり、そういう時の類は厳しい。
「変なことって、周とは何にもやってないってこと?」
はあ?////やってないって、あんたはオブラートに包むって事知らないのかい?
花沢物産の一大事業中心メンバーとして、UAEでは手腕ふるっているはずなのに、そんな調子でいたら、まとまる物もまとまらなくなるんじゃないの?
老婆心ながら心配するよ。
ここは、友人としてきちんと説教してあげなきゃと鼻息が荒くなった。
けれども、出てきた言葉は気持ちと裏腹に蚊の鳴くような小さな声で、シャボン玉が消えた後のようなせつない余韻を残す。
「類の馬鹿・・・。」
いまだに、こんな私を類はいつも気にかけてくれていて、『ありがとう』って言ってばかり。
それでも、いまだに言い足りない気持ちでいる。道明寺と別れてからは、ますます類の気持ちを利用しているようで、そんな自分が嫌になる度、いつの日か聞いた類の言葉を思い出す。
『 でも、牧野の笑顔が好きだから、いいんだ。
牧野の笑顔や明るい声をもらうと元気になる。 』
察しのいい類は、小さなため息をついて、迎えに来るという。
大丈夫だからと応戦してみても、まさに立て板に水。
兎に角、今晩、仕事が終ってから会えれば嬉しいと一方的に告げ、切ろうとした。
けれども、類はなかなか引かず、私の声量も携帯に向かって大きく上がってくる。
「牧野、携帯貸せ。」
見ると、いつの間にか、西門さんがすぐ横に立っていた。
言われたまま差し出すと、携帯は首根っこを捕まえられた猫のように西門さんの手のひらで小さくなって、類の声を遠慮がちに吐き出している。
「もしもし、類か?」
「xxxxxxx」
「あぁ。 牧野は俺がついでに送っとくから。」
「xxxxxxx」
それから、西門さんは二言・三言話して電話を切った。
西門さんは、首を左に傾け、上から見下ろすような体勢で無言で私を見つめている。
何も言わずニコリともしない西門さんは、なんだかとても怒ってる?
そりゃ、確かに昨夜の行動は大人として反省すべきとかなり落ち込んでますが、西門さんからそんなに怒られる云われはないはず。
私だって、そろそろ、オトナの女を意識しようと思ってますよ。
そうそう、周くんが悪人でもないのはわかってるはずでしょ。
血の繋がった弟でしょ、信用してあげなさいよ。
犯罪とかそんな事件には発展するはず無いじゃん。
それとも、西門さんは寝起き悪い性質(たち)?
「あのぅ~お・おはよう、西門さん。」
ぎこちない笑顔を貼り付けて、言ってみた。
「ふぅ~、お前さぁ、女だろうが! 酒飲んで車乗ったら、意識失うほど眠り込んじまうのなんとかしろ!」
はあ・・・それは、自分でもどうにかならないか常に考えてます。
「あと、携帯! いつでも、緊急事態にそなえておけよな!」
はいはい・・・それも、社会人として当然のこと。
「わかってんのか?」
「え? う・うん。 ごもっともだなあ~と思って。」
「はあ?なんだそれ。」
「もしかして、すごく心配かけた? 電話ももらってたのに、気付かずにごめんね。」
西門さんは、深く息を吸って席に着いた。そこに、周くんが髪の毛を押さえつけながら起きてきた。
寝起きのどこか照れたような笑顔が一段と人懐っこくてかわいい。
「お早う、牧野さん。 よく眠れました?」
「うん、ごめんね。 私、すっごい迷惑かけて・・・ここまで運んでくれたのよね?重かったでしょ・・・ハハッ。」
周くんは、はにかむような笑顔をこぼし、私の隣の席に座った。
そして、昨夜の成り行きを話してくれている間、ずっと髪の毛を何度も押さえつけていた。
話の最後に、朝ごはんに何か作ってあげるから座っていてと笑顔で立ち上がった。
「あの、周くん!コーヒーいただいたら失礼するから。午後から、出勤なんだ。」
「そう?じゃあ、僕が送りま・・」
「いや、俺が届けるから、お前は授業に出ろ!」
西門さんと周くんが、ほんの一瞬、見つめ合いピリッと空気が動いた気がした。
先に、口を開いたのは周くんで、僕は講義があるからお願いと西門さんに告げ、コーヒーを入れにキッチンへと消えた。
マンションの外には、西門さんのバイクが止まっていた。
もう大丈夫だよな?って聞かれ頷くと、無言でメットを手渡される。
お酒も抜けてるし、バイクも3回目だ。
しっかりと西門さんの腰に腕を回し、安定するようにしがみついた。
植物系のバニラがかった甘酸っぱい香りが鼻をかすめる。
なんだかふわりと心が浮わついて、目を閉じ鼻腔をふくらませ西門さんの香りに身を預けた。
身を切るように冷たい空気の中で、それはオブラートのように優しく私を包んで、温かい安心感をくれた。
こんな体勢にいながら、大地に足が着いたような気分になる自分に少し驚きながらも、それ以上思考が働かない。
温かなぬくもりから離れてしまわないよう、目を閉じて心で思った。
遠回りの道を選んでくれてもいいな・・・と。
その朝、西門さんの背中につかまって走ることが、既に私の中で居心地いいものに変っていた。
「牧野、お前、しがみつくの上手くなったな。」
前を向きながら、ようやく口をひらいてくれた西門さん。
「/// まあね、命粗末にしちゃだめでしょ。」
「フッ、行くぞ。 落っこちるなよな。」
「うん。」
バイクは、2月の冷たい空気を切りながら、流れるように走り始めた。
つづく -
shinnjiteru29 29.
牧野をバイクに乗せ、後ろから腕を回されると、ようやく長かった夜が終ったのを実感した。
見慣れた風景に変わり、しばらくするとエンジン音が低くなる。
牧野がいうあいつのお城に到着した。
エンジンをかけたままバイクを停止し、両脚で固定してやると、牧野は思い切り脚を回して、颯爽とバイクから降りた。
タイミングも分かってきたじゃないか。
「西門さん、送ってくれてありがとうね。」
おいおい、さっきまで、俺が怒ってるのにビビッてたんじゃねえのかよ。
もう、満面の笑顔に戻ってる調子いい奴。
「おぅ。 ちゃんと、シャワー浴びてから、出勤しろよ。 」
「言われなくても、ちゃんと浴びるわよ!西門さんだって、酔いつぶれて眠ってたんだから、同じでしょ。」
「俺はいいの。この顔でカバーするから。」
「うわぁ、そういう自信満々なところ、可愛くないね。ちょっとは謙虚になりなさいよ。
口は災いの元、時期家元なんだから気をつけなさいよね。」
牧野の口は、どこからか潤滑油が注がれたみたいに快調に動く。
「ククッ、お前、朝っぱらから、よくそんなに表情をクルクル変えられるんだな。」
「そ・そんな顔してた? 自分ではわからないんだけど・・・。
道明寺も類も同じこと言うから、そうなんだろうね。」
司はいいとして、類か・・・。
そういえば、類にもチョコを渡すとか言ってたな。
牧野は類のことを特別な存在だと公言し続けている。
性別を超えた関係っていうのを、司だって指をくわえて見てるしかなかった。
類の方はどうだ?まだ思いは風化してないだろう。
昔から、興味の対象にはするどい観察力で、俺たちが気付きもしない指摘をしてきた類のことだ、俺の気持ちも薄々気付いてるだろうな。
中途半端のままじゃ、どっちにしろ類も納得するはずない。
小手先の企みはかえってもつれそうだ。
・・・真っ向からハートで勝負するか。まずは、俺の存在感の植え付けだろう。
友達・師匠、それだけでない、さらに特別な存在感を意識させる。
実のところ、俺の胸中には、萌ゆる春のような春風が吹き始めている。
昔、司が盲目的にストレートにぶつかっていく求愛は、正直まぶしかったな。
永遠にマジな熱い思いなんて、俺には抱くことはできないと思いこんでた。
この風が、動き出した恋心というものか。
そんな新鮮な自分を薄笑いで見つめながら、一方でエールを送りたい気分だ。
これをあきらが知ったなら、俺らF4を変えた牧野だけあると賞嘆して祝いの酒でもふるまうだろうよ。
確かに、俺の眠っていた細胞が起き出し、真新しいシャツに腕を通して一仕事始めるような待ちきれない気持ちが湧いてくるのだが。
けど、やってることは、思考がダブつき、もたつく感じで格好つかねえな。
あいつを前にすると、百戦錬磨のテンポが刻めず、調子狂うのも事実。
これまで、柔らかな甘い獲物に近づく時は、まるで野生の狩りのように虎視眈々と注意深くありながら、心も足取りも羽根のように軽いものだった。
その先も後もない一時の戯れは、何の重さもない黄金の砂を掬っては指の間からサラサラこぼす遊びの繰り返しのようなものだった。
けど、牧野のリアクションを想像しようとすればするほど、不透明なベールがかかる。
どこか頭の中がくぐもって、重く鈍く感じる。
牧野は、獲物と呼ぶにはまるで色っぽさに欠ける。
獲物というのは、ゴージャスに見えるものでなくてはいけないだろ。
けれど、牧野を失うことを脳裏に想像するだけで、息が詰まりそうになる。
昨夜のようにじっとしていられず、眠れないイラついた時間に漂うのは苦痛で拷問のようだ。
勘弁願いたい。
コントロールできない歯痒さから逃れるには、あいつを掴むしかない。
もう、わかっている。
けど、本当にどこかで回避できなかったのか?・・・俺は恋愛の達人だろうが。
どうして、求める相手がこうもややこしい女、牧野なんだろうな。
今の俺の気持ちを、朝っぱらから妙に調子こいた牧野にクドクド話す気は毛頭ない。
伏線を用意する余裕も無く、面食らわせてしまうだろうと思いながら言った。
「俺、気が変わった。 久々、牧野の飯、食わせてもらうわ。」
「えっ?今から? あっ、まさか、シャワー覗こうと思ってたりする?」
そうくるか・・・。
「アホか、お前。」
「ま・・・い・いいけど、大したものないよ。」
それから、牧野はバタバタと目まぐるしく動いて、あっという間に朝飯を用意した。
小さな台所テーブルに、グリーンサラダと目玉焼きとトマトのプレート・こんがり焼けたトースト。
牧野は、湯気が出ているマグカップをテーブルに置きながら、まるで母親が子供を呼ぶように俺にいう。
「さあ、どうぞ! ホントに大したものないけど。 西門さん、グリーンサラダに何をかける?」
「・・・塩。」
「アジシオね・・・、いつもそうなの?」
「味塩?・・・よく知らねえけど、最近、沖縄の栄養塩とかいうヤツをお袋が勧めるからな。ミネラルが豊富らしいぜ、牧野もそっちの方がいいんじゃねえの?」
「そんな高価そうなもの。
うちには、アジシオといって、オトナから子供まで幅広い人気のロングラン商品、お馴染みの定番しかないけど、それで十分なの。今日は、我慢してね。」
「クッ、それでいいよ。」
なんでもいい、今朝は牧野と過ごしたいだけなのだから。
「そうそう、そういえば、うちのキャップが西門さんに挨拶しておきたいって言ってるんだ。
雑誌コーナー[男の美学]に原稿よせてくれることになったでしょ。
天下のF4写真掲載本は売れるぞ!でかした、牧野!なんて、大喜びしてたし。
近いうちに、お稽古の合間に連れて行ってもいいかな?」
「俺が出向くわ。 類に紹介された会社だっただろ?」
「へ?わざわざ来てくれるの?」
「おぅ、牧野の直属の上司か?
恩着せてやれ。 また、貸しができたな・・・ハハ。」
「そっちが勝手に来るって言うんだから、貸しにならないでしょうが。」
「牧野がどんな風にこき使われてるか、高みの見物させてもらうとする。
師匠として一応見ておかないとな。」
牧野は、訝しげな表情で、「そんなことしたら、私がキャップに怒られるかも・・・?」とかぶつぶつ独り言をいっている。
「それよりもさ、来週、区民センターで例の茶碗写真撮影予定なんだけど、あの古萩茶碗を眺める西門さんの横顔写真がいいんじゃないかな~と思うの。
そっちはどう?そこまで頼んじゃ悪いかな?でも、いいページになると思うんだけど。」
「いいぜ。それも、ついでに行ってやるよ。」
「ほんと?」
「・・・ これで、文句なしの貸しができたな。 お前、そんな間抜け面すんなって。」
「原稿を書いてくれるだけで、もう有難くってすっごい感謝なんだけど、本当にありがとうね、西門さん。
何度も言うけど、うちのコーナーは大した原稿料は出せないよ。」
「わかってるっつうの。 金のかからないおねだり考えとくから。」
「それ怖すぎだってば。・・・ったく、もう。」
そして、牧野は何度も覗くなと念を押しながら、バスルームに入っていった。牧野の部屋は、1Kで最低限の家具しか置いてない。
平均的な女の一人暮らしより殺風景だろうが、ここが牧野の城だ。
俺らF4は、小さい頃から贅沢に慣らされて、学校もお稽古も全てが将来のための必要通過点、
与えられることしか知らないくせに、そこに居てやってるという風に、小さな籠の中でいばりくさって、大きな虚勢を張っていた。
牧野に出会う前の俺たちだ。
牧野の現実は変えられない。
変えられるとしたら、俺自身。
ふーっ、牧野のことを真剣に求めるという事は、大きな犠牲を覚悟しなければならないということだ。
堰を切って流れ出した水は、もう止められない。
何度も、自分に問いかけ、同じ答えにたどりついてきた。
改めて、俺はシャワーの音が響くこの部屋に誓った。
牧野は譲れない。
誰にも止められない。
戦う相手は、周でも類でも司でもない、己なんだ。
つづく -
shinnjiteru30 30.
「類、また髪の毛伸びたね。 もう、自分で切ってないんでしょ?
いつも、そうやって、ゴムでくくってるの?」
「うん、最近はね。」
「へぇ~」
「おかしい?」
「ううん、どんな髪型でも似合うけど、一段と目立ってカッコいい。 なんだか、モデルさんみたいで、
気がひけちゃうよ。」
「切ってくれる人、いなくなっちゃったから。 新しい人見つけるの、面倒だし。」
類は、花沢物産の中東経済拠点となるドバイ支店開設に向け、入社後わずか3年目にして、
首脳陣の一員となり、得意の語学力と卓越した先見の明を武器に、奔走している。
若干、頬がこそげて精悍になった感じがするのもそのせいか。
サラ髪を後頭部で束ね、綺麗な薄茶の瞳を惜しげもなく披露している類は、
オリエンタル・ダンディズムを感じさせ、今や世界中の富豪が集まる国、UAEの一流ホテルでさえ
決して引けをとることはないだろう。
「それで、どうなの?類の仕事のほうは? 」
「JAFZ(ジュベル・アル・フリーゾーン経済特区)は外資に寛容すぎるくらいだよ。
100%外資投資できるし、もともと花沢は欧州に基盤があるから、中東では取っ掛かりが付きやすい、商売はやりやすいよ。
けど、外は熱いし、すごい渋滞で、日本の環八の方が増し。
UAEには鉄道が無いんだ。だから、皆、そろって車通勤。
朝の渋滞だけは、勘弁してほしいんだけどね。」
「ずいぶん、日焼けしたね。」
「クスっ、そう? 牧野は、どうしてた?」
「私は、あいかわらずだよ。
ホントに変わらずで何やってんだかね・・・へへ。
周くんと遊んだり、西門さんにチョッカイかけられたり。」
「総二郎ね・・・。
牧野、あいかわらず、お酒飲んだら朝まで眠りこけちゃうんだ。
今朝、総二郎が不機嫌だった。」
「なんで、西門さんに怒られなきゃいけないのよ。
類、言っとくけど、何にも疚(やま)しい事してないですからね。
記憶無いのは、私だって一応反省してるし、これでも相手を選んで飲んでるつもりなんだよ。
西門さん、心配してくれるのはありがたいけど、師匠だからって口挟みすぎだよ。
今日なんかね、うちの会社に挨拶に来てくれて、
『牧野がいつもお世話になってます。よろしく頼みますね。』
って平身低頭言うもんだから、後からどういう関係なのかってキャップに要らぬ詮索されて参ったんだから。」
「総二郎、頑張ってるじゃん・・・。」
「あのね、西門さんじゃなくて私が頑張ってるんだってば。」
今日3時頃、西門さんから挨拶は今日でいいかと電話があった。
朝、言ってた挨拶を実行してくれると。
応接室にドーンと座り込んで、まるで私の保護者のような挨拶をした西門さん。
キャップには単なる知人と紹介してたから、あんぐりと口を開けて驚いてたよ。
涼しげな表情の西門さんと私の顔を交互に見たあと、美術関係中心の出版会社である我が社を売り込みまくるキャップに、西門さんは色々と快諾してたっけ。その後、過去の投稿資料やコーナーの原稿料について説明し始めたキャップに、そんな話はいいから少し牧野を借りるといい、私を外へ連れ出した。
待たせてあったリモに押し込まれて、連れて行かれたのは代々木公園。
公園に入ると、のんびり散歩してる親子連れや練習中の陸上選手なんかがいて、オフィス街と違ったさわやかな空気で、なんだか気持ちよくなったけどさ、あれって拉致でしょ。
まさか西門さんが自販機で暖かい缶コーヒーを買うなんて、珍しいこともあるもんだった。
結局、二人でベンチ座って温かい缶コーヒー啜って、会社に戻った。
一体、何がしたかったのかわからないけど、なんだか、昔の道明寺みたいにちょっと強引で懐かしい感じがした。
「そうだ、今日は類に気持ちを込めたVチョコを渡したかったんだ。
はい、これ。」
「サンキュー」
「たくさんもらってると思うけど、一応、私の手作りチョコだからね。」
類が白いリボンをほどき、ピンクの箱をあけると、丸い小さなボール型したトリュフが顔を出した。
そのうちの一つをつまんで、口にポーンと放り込んだ類。
「上手にできたね、おいしいよ。」
「頑張ったんだよ。 毎年のことだけどさ、類にはお世話になってるもん。」
「これも?」
もう一つのプレゼントを手にして、首をかしげて聞いてくる。
「うん。気に入ってくれたらいいけど。」
ベージュにうっすら黄緑が混ざったような包装紙をあけると、シンプルな白い箱が出てきた。
中のものを取り出す類。
「これ、ストラップ?」
そのストラップは1センチくらいの銀で作られた音符・トーン記号・音符・ヘ音記号が順番に連らなっていて、 その末端には縦に2センチくらいの深緑色した石がクロス型に無骨に削られてくっついている。
「うん。 仕事で知り合ったギャラリーのオーナーさんに勧められた芸術家さんの作品なの。
20代の若いアーティストさんで、こういった銀と鉱石を組み合わせて斬新なアクセサリーを作ってるのよ。
その石はね、マカライト。
本人の窮地を救ったりして、危険から守ってくれる力があるらしいよ。
仕事運が上がるってさ。」
「それは、助かるね。ありがとう、まきの。」
「実は、西門さんのとデザイン違いのおそろいなんだ。
西門さんのは音符とかじゃなくて、月とか本がぶら下がってるの。」
「総二郎と同じ?」
「うん、私が気に入ったものをあげたかったから、結局、同じになっちゃった。
選ぶのが、面倒くさくなったわけじゃないからね。別に構わないよね?」
「ククッ、そう。 これ見て、総二郎なんて言うだろう?・・・今度、総二郎に会う楽しみができた。」
「えっ? 月と本のデザインの方がよかったの?」
「クスッ、俺は、こっちの方がいい。 総二郎が換えてって言っても、変えてやんない。
大事にするよ。 サンキュー。」
「ええっ?どちらか選べないくらい、どっちもいいんだよ。 西門さんのイメージはあっちで、類はこっちだって思うんだけど。西門さんも、喜んでくれたし・・・。」
「まきのは本当にあいかわらずだね。 なんだか、日本に帰ってきたって感じる。
まきのが変わらないのは、嬉しいよ。」
嬉しそうに私を見つめる類に、それがどういう意味か図りかねて、言葉を探していた時、私の携帯から呼び出し音が聞こえた。Trururururururururru・・・・
発信元は西門 周三朗。
ピッ
「周くん?」
「牧野さん、まだ仕事中ですか? 今、話せます?」
周くんの後ろはガヤガヤしていて、何かにぎやかな場所にいる様子。
「うん、大丈夫。 仕事は終って、今、花沢類とご飯食べてる。
昨日はありがとうね。すっごく楽しかったのに、最後に迷惑かけちゃったね・・・。」
「いいんですよ。僕も、いろんな牧野さんが見れて嬉しかったから。」
「///色んなって・・・。」
「今、こっちも飲み会中なんですけど、来週末、皆で屋内スノボーしに行くことになって、一緒にどうかと思って電話しました。
実は、他校の彼女や兄弟を連れてくる奴らが、僕にも誰か誘えってうるさいんで・・・ハハハ。
メンバーはごちゃ混ぜって感じなんで、違和感ないと思いますけど、どうです?」
「いやぁ~、私、スノボー1回しかやったことないし・・・。
お友達の彼女は学生でしょ?私なんか行ったら周くんが可哀想だよ・・・。」
「そんなの、全然大丈夫ですよ。 なんなら、類さんも誘いましょうか?電話代わってください。」
いつものストレートな物言いに弱い私は、類に携帯を差し出した。
「もしもし・・・」
「花沢さんですか?僕、周です、西門です。 ご無沙汰してます。」
「うん、ホントご無沙汰。 」
「牧野さんをスノボーに誘ってるんですが、ちょっと警戒されちゃったかな。
実は、総兄と勝負してるんです、牧野さんをめぐって・・・。
・・・。
忙しいと思いますが、来週末、類さんも一緒にスノボーどうです?
屋内なんで、そんなに時間はかからないと思いますよ。」
「ごめん。 来週末は仕事が入ってて、ムリ。
でも、牧野を連れて行ってやってよ。」
類は、電話を切るなり、折角だから行ってくれば?と何気に言う。「牧野は牧野のままでいいんだけど、自分のことがいつもおざなりでしょ、俺からのアドバイスだと思って。」
「へ?だからって、どうしてスノボーするのよ。」
「スポーツだから、いいんじゃないの。」
「わけわからないよ。」
「どんどん外に出て、遊んでくれば?」
「ムスッ、らしくない・・・。何か企んでるでしょ?」
「別に何も。 スノボーってことは雪がいっぱいか・・・。
昔、まきのと寒い中、よく散歩したね。
あの和菓子屋、まだあるんでしょ? 懐かしいな。」
あの頃、マフラーに手袋を身につけ、歩くのを好んだ類。
お互い白い息を吐きながらも、類と話しながら歩くと、冬の道も大した苦ではなかった。
目の前の類が微かに微笑むと、少しのぞいた白い歯が、日焼けした肌に映え一層精悍さを感じさせた。
「・・・じゃ、類も一緒に行く?」
「まきのが俺の分も遊んどいで。 」
類の瞳が、少し寂しそうに揺れて見えた。
今の類には、目前の大プロジェクトの頂きに向かって、全力で上り詰めなければならない責任がある。
類自身が、望み挑み始めた道だから、私はただこうして応援するしかできない。
こんなプレゼントなんて、子供だましだけど。
知人と語らい、家族と食事をし、仕事の疲れをベッドで癒す。
当たり前だと思える生活のすぐ横で、好機を逃すまいと目をギラつかせ片時も休まない非人間的サイクルで成り立つ世界がある。
経済は刻々と変化し前門の虎、後門の狼のように、至る所に深い落とし穴が潜んでいて、一寸先は闇。
道明寺がNYでそうであったように、何度もくぐりぬけ成功を重ねると、有頂天外な喜びに打たれ痺れてしまうのは、回避できない症状に過ぎないかもしれない。
類も・・・、類さえも変わってしまう?
私は、少し精悍になった類が遠くに行ってしまわないように願いながら、見つめた。
「まきの、帰りは少し歩こう。」
ガラス玉のような薄茶の瞳で、まるで静かな水面を伝って響くような声色。
いつだって、私を和ませてくれる。
「うん。 絶対ね。」
私は、とびきりの笑顔で類に答えた。
つづく -
shinnjiteru31 31.
シュー シューッ ヒュッ
カッ カッ カッ カッ シュー
ッズズッ シュー
「すご~い・・・。うわっ、体ひねりながら乗っかったよ!」
「あいつ、格好いいでしょ。 随分前にバッジテストで一級取ったって言ってたから、やっぱ基礎が出来てるんでしょうね。」
週末、約束の室内ゲレンデへ周くん達とスノボーしにやってきた。
迎えに来てくれたワゴン車は、周くんのお友達が運転席に座り、その彼女(?)と周君としゃべってるうち、あっという間に目的地に着いた。
全てレンタル任せで済ませ、向かった先は大きなハーフパイプ状の真っ白いゲレンデ。既に滑ってる人達は皆、中級者以上といった感じでなんだか場違いな感じがする。
ゲレンデには長さ4・5mの平均台みたいなものが1台置かれていて、今、その上をスノボーで滑りきった若者に目を奪われる。
平均台にヒョイとジャンプして乗ったかと思うと、どうやったのか、体の向きもボードの向きも変わっていて、
平均台の上をサーフィンのごとく真っ直ぐ、後ろ向きに滑り下りたのだ。
「牧野さん、行こう!」
「えっ?」
メシメシと雪を踏みしめながら、周くんの後ろをくっついて行った。
「よっ!」
「おっす!」
お互い短い言葉で交わし合う挨拶もそこそこに、その若者は私を目に留める。
「こちら、僕の知人の牧野さん」
よろしくと言うと、ニコリと無言で一礼された。
「あ・あの・・・すごい、お上手なんですね。 あんなの初めて見ました。
さっき、どうやって飛び乗ったのかも良くわからなかったんだけど・・・。」
「そうですか?
トリックの一つですけど、あれ、見栄えするからなぁ。
乗りあがる時、弾みをつけてジャンプして
その時、ノーズを気持ち45度くらいアップさせるんですよ。
と同時に、ウエストをツイストして尻を前に向け、
ボックスにボードが平行になるよう着地できたら、
ボックスの傾斜度に合わせて太ももに力を意識させて、
ノーズプレスを保つんです。両手はバランスよく、
ひらいて・・・前に・・・。」
「 ?????? 」
「クククッ、こいつ、同じ大学の物理工学科のやつ。
スノボの講釈述べ出したら、いつも止まんないから・・・ククッ。」
「そ、そうなの~。」
話の腰を折られた彼は、早くも次ライドに向け、風のように行ってしまった。
それから、私たちも場所を移動して滑り出した。
一緒に来たお友達は彼女と一緒にゆっくり滑り降りていく。
周くんは、首をひねったり伸びをして、のんびり準備体操しているようだ。
「牧野さん、後ろ足つけますか?」
「えっと、どうするんだったっけ???」
「じゃ、前足だけでスケートから始めましょう。」
それから、周くんは自分のボードは端っこのほうに置いて、私につきっきりで教えてくれた。
基本のサイドスリップを教えてもらう。まずは、上手な転び方を実際転んで見せてくれた。
「逆エッジになっちゃうと誰でもバランス崩すんですよ。重心のコントロールが出来るようになるまでに百回くらいこうやって、転ばないと・・・。」
何度も何度も転んで、やっと自然に力を逃せるようになり、転ぶことが怖くなくなった。
そして、なんとか形になってきた頃、ようやく周くんも自分のボードを手にとってバインディングに足を入れた。
「周くん、こっから自由滑走の時間にしよ。滑ってきなよ。」
「そうですね、 ここじゃ、はぐれることもないですもんね。」
じゃ!と片手を上げると、周くんはあっという間に滑り下り、小さくなった。
すっごい速い・・・。
昔、F4はみんなスイスイ滑ってたな。
やっぱり周くんも小さい頃から、冬の別荘でスキー三昧だったのだろうか。
英徳高校時代、自分がピアノもスキーも恐ろしくできないのは、育った家庭環境の違いと高を括り、妙に堂々としていた。
けれども、大学に入ると、世の中には何をやらせても器用に上達していく人がいて、それは生来のコツを掴むセンスや運動能力が物をいう事を思い知った。
周くんもその口だろうな・・・。それでも、折角来たのだからと、自分を奮い起こす持ち前の貧乏根性は少しも衰えていなかった。
教わったことを忠実に守りながら黙々と滑っていると、だんだん転倒する回数が減り、楽しくなってくる。
一度も転ばず、ターンが続くと、疲れることなく気持ちよかった。
横を通り過ぎる周くんはじめ、そのお友達に手を振る余裕も生まれ、笑顔を向ける。
最後の方は、周くん達と一緒に滑り、結構楽しんでいて、
あっという間に3時間が過ぎ、次回は3日後!と約束までして、ゲレンデを降りた。
周くん達は、その後、夜通しの実験準備があるからと、私をアパートへ送り届けた後、マフラーから煙を吐き出しながら走り去った。
取り残された私はくたくたで、アパートの階段を上がるのもようやくといった風だったのに、彼らはなんと元気なことか・・・。そして、その3日後。
再び、同じゲレンデに舞い戻った。
感動したのは、最初の一本目。
自分が舵を取れば、思い通りにスルスル進んで気持ちいいこと。
三日前のへっぴり腰が嘘の様に、格段に上手くなってることが実感できた。
もちろん、緩斜面オンリーでまだまだゆっくりだけど、それなりに操縦できて楽しい。
短いレールの上を周くんとお友達に支えてもらいながら、滑ったりもした。
「周くん、スノボって案外おもしろいね。」
「よかった・・・。嫌々だったら、どうしようか心配してたんですよ。」
「うそっ、クスッ、ちっとも心配そうじゃなかったよ。」
「顔に出て無かっただけです。」
「スノボーって、準備とか大変って思ってたけど、気軽にできるスポーツなんだね。
周くん達なんか、ちょっとお買い物みたいな感覚なんじゃない?」
「ちょっと買い物って、どういう感じなのかな・・・?
研究室って結構時間不規則で忙しいから、ここだと合間に来れて、いいんですよ。
あいつら、年間パス持ってるんですよ。」
派手にジャンプして短いレールに、次々に乗っかる集団を眺めながら言う。
「僕がいなくても、来れる時に参加すればいいんじゃないかな。
もっと、上手くなりますよ。
もう、皆のこと覚えたでしょ?」
その横顔は、青年特有の無味でさわやかな空気に包まれている。
周くんの研究仲間達は、学業との両立のため、時間を節約してここへやって来るという。
ただでさえ忙しい研究生、けれど、周くんにはもう一つの顔があるんだ。
「周くん、お茶の時間作るの大変?」
「まあ・・・でも、好きですから。」
「周くんだったら、ずっとお茶の先生しながら、大学院行って研究だってその先続けられるかもよ。」
「ふっ、牧野さん。それが、できれば悩まないんですけどね。
分家でも、西門を継ぐってことは重いんです。」
そりゃ、由緒正しい西門の銘を継ぐともなれば、中途半端は許されないって想像もつく。
板ばさみのまま、答えを探し続ける若者を横に、それ以上の言葉が見つからなかった。
前屈になり、ボードのベルトに手をやって調整していると、周くんが覗き込みながら言う。
「毎回違うボードだと、感覚がつかみにくいでしょ。
牧野さんのボード、探しに行きますか?」
「自分の?」
「そう。
お茶を点てる時の着物でもそうでしょ。
自分専用のものがある方が、コツを掴みやすいんですよ。」
「そうだよね。 じゃ、周くん、悪いけど付いてきてくれる?」
「僕でよければ、いつだってどこだって・・・。」
人懐っこい笑顔で答えてくれる。
朝から2時間ほど滑り、その日もやり掛けの作業が待っているからと、マフラーから煙を吐き出しながら、大学へ行ってしまった。私も、夕刻には西門さんのお稽古の予定が入っていた。
西門邸の一室をお借りし、いつもの様にお稽古用の着物に着替え、背筋を伸ばす。
障子を開けると、庭師が設えた見事な日本庭園が目に入る。
細い枝の先に房状に集合した硬く閉じた蕾たち。開花の時をひっそり待ちわびる白梅が春の予感を辺りに漂わせていた。
季節は冬から春へと、3月に入っていた。
つづく -
shinnjiteru32 32.
人々が行き交う夕刻なれど、都会に位置するとは思えない程、圧倒的な静けさがここにはある。
白い足袋は、足音を消しながら、お稽古部屋へとプログラムされたように身体を運んでいく。
これからお茶を習うという気構えが、不思議と次第に湧き起こってくる西門家の長い廊下は、いつものように滑らかな光沢を見せている。
「牧野です。失礼します。」
膝をつき、両手を添えて障子を開けると、やはりいた。
「おっ、牧野。」
西門さんは、長い火箸を使って炉火(ろび)の具合を見ていた。
濃紺の着物に薄土褐色の男帯をして、ちらりとこちらを見てすぐ、視線を炉火に戻した。
稽古中は、師と弟子の緊張感を忘れないよう、常々肝に銘じて過ごしている私は、障子をカタリと閉めると、
早速、両指を付いて挨拶する。
そろりと顔を上げると、西門さんがこちらを見つめていた。
一瞬の間に、その日のこちらの体勢を見極めようとしているかの様に。
スノウボードをしたばかりの身体は、まだ筋肉のどこかしらが、熱を持っている感じだった。
何か言われるかと、こちらも見つめ返した。
「始めよう・・・。」
静かな低い声が、茶室に響く。
西門流が長い年月をかけて順序立てた段取り通り、足運び・指使いにも気を配り、お茶を点てて行く。
時計の針も刻む速度を遅くして、ひたすらお湯の滾(たぎ)る時空に寄り添う。
後半、いよいよお茶碗にお湯を注ぐ。
軽く背を伸ばし、時折シューっと鳴る炉のお湯を柄杓で一掬いし、白い湯気そのまま茶碗の上へチロチロ落としていくと、初めて口にするものとなる。
茶筅でシャカシャカかき混ぜると、まるで笹林の中心に佇んでいるかの様に、黄緑色した心地いい音に包まれ、この上なく和む、この一瞬が大好きだ。
そして、西門さんに点てたばかりのお茶を差し出すと、
その長い指で受け取り、自席へ下がる西門さんはそこで大きく頷いた。
今日のお稽古は、西門さんはそこまで。
私に席を譲り、代わりに私がお茶をいただく。
自分が点てたお茶を「結構なお点前でした。」というのも、気が引けるけれど、決まり文句なので仕方ない。
お稽古は、何故だかあまり注意もされず、途切れることなく進み、いつもより早く終わった。
終始、腕を組んで涼しい眼差しで見つめる西門さんは、いつもと同じ風だったけど、もしかして疲れているから、
今日のお稽古は早く終わらせたかったの?
案じながら、水屋仕事を済ませ、再び指をついて終わりの挨拶をした。「ありがとうございました。」
「牧野、今日はお前、もしかして、アレか?」
「アレ?・・・」
「腰が重そうだったぞ。」
ようやくアレの意味がわかって、脱力するやら恥ずかしいやら・・・。
「あ・あのねぇ////に・にしかどさ~ん、急に何言うかと思ったら、何なのよ。
違うわよ///!・・・ったく。」
打って変わって超軽い軟派男の口ぶりで、全くついていけない。
保っていた緊張感が、ガラガラと一瞬にして崩れ去った。
せめて、その濃紺の着物を脱いでからにして欲しいよ。
「何か、ハードな仕事しただろ。大掃除か・・・?」
「あぁ、西門さんにはわかっちゃうんだ。」
「そりゃ、ずっと見てりゃあな。」
「掃除じゃなくて、今日ね、スノボーしたの。だから、ちょっと太ももが筋肉痛かも。」
「・・・周か・・?」
「うん。」
室内ゲレンデに連れて行ってもらったこと、スノボが少し上達して嬉しいこと、掻い摘んで話した。
「そっか・・・。よかったな。」
それから調子に乗って、西門さんをスノボに誘ってみた。
「・・・俺は、牧野がもっと上手くなってからにするわ。
それより、お前、再来週の週末空けれねぇ? 」
「再来週の週末?」
「一日使って、俺と朝からフル・デートしない?」
「・・・、ふざけないで、ちゃんと説明して。何?」
「誘ってるんだけど、そのまま。」
「だから、そうやっていつも捻らないで、素直に言いなよ。何?茶会の手伝いだったら、いいよ。勉強にもなるし・・・。」
「お前なぁ・・・。あのさぁ~、ホワイト・デーだろ?」
ホワイト・デーって、バレンタインチョコのお返しの日だよね。
西門さんが、そういう巷のイベント事を口にするのはチグハグな感じがする。
第一、恋人同士じゃあるまいし、朝からフル・デートってどうよ?
口角を上げてニヤリと笑う西門さんの本意が掴めず、返事に困る。
「俺じゃ、ご不満?」
「・・・」
「それとも、もう周と約束した?類か?」
「・・・ううん。」
「じゃ、決まりな。ちゃんと、空けとけよ。」
さして、断わる理由も無く、どちらかというと心は弾んでいた。
また、例のバイクで風を切りながら、でかけるのだろうか。
顔を見せないまま背中で目をつぶって、あの植物系にバニラがかった甘酸っぱい香りに包まれるの。
背後から、どこにでも連れて行ってと叫びそうになるのをぐっとこらえて、あの背中に頬を寄せ、ワクワクした血流を鎮めるの。
『っは?何これ?・・・私は何を考えた、今?』
西門さんのいうデートというものが、どんな種類のものか全くわからない。
けれども、一瞬でその日を楽しみにした自分に戸惑った。
「ねえ、どこに行くの?」
「そうだな、晴れてたら、水戸にでも行くか。梅の見頃だろ?」
「それって、もしかして本当のデートのつもり?」
「そ。」
当然のように軽く流され、これは私の思うデートと西門さんの思うデートの捉え方が違うのだと判断するしかなさそうだ。
女の人と出かけるのをまるで趣味のように隠しもしなかった西門さんだから、免疫の無い私と基準が合うはずもないのだから。
「結構な長距離だよね・・・。」
「でも、片道2時間余りあれば、着くんじゃねえ?」
「ずっと、バイクで行けるの?」
「えっ?牧野、バイクでもいいのかよ。」
「う・うん・・・私は、平気だけど。」
「なら、もっと楽しみだ。」
と言って、西門さんはニヤリと口角を上げ、涼しげに微笑んだ。
つづく -
shinnjiteru33
33.
その日、私は二人分のお弁当を作った。
内容は、小学生が遠足に持っていくような、食べやすくておいしそうに見えて、そして母親が我が子のために愛情を込めて作るような、蓋を開けた時の感動が残るようなそんな彩りを心がけた。
スノボづいてる私のために、ボードを一緒に選んでくれるという周くんへ何かしてあげたくて、そういえば一緒に動物園へお弁当を持って行きたいって言っていたのを思い出したからだ。
周くんも大きな実験が一段落ついて、ちょうどいい動物園日和らしい。
二人で電車に乗って、都心から少し離れた動物園にやってきた。
たくさんのにぎやかな親子連れが、次々にゲートをくぐっていく。
おばあちゃんとおじいちゃんとお孫さん、三人で来ている微笑ましい姿もある。
中には中学生じゃないの?というようなおマセなカップルもいたりして、その中で私たちは、ありきたりのカップルに見えるかもと思った。
「見て見て、周くん、カバの赤ちゃんじゃない?お母さんに、引っ付いてて、かわいい~。本当に、ミニチュアだよね・・・蹴飛ばされないのかな?」
「目が横についてるから、お互いちゃんと見えてるんじゃない?」
すると、急に方向転換した母親の左脚が赤ちゃんカバの鼻ッ先にドンと当たり、出来立てのゴムのような可愛い脚がふらついた。
「あいつら、どんくせ・・・。ククッ」
人懐っこい笑顔を向ける周くんは、とても楽しそうに笑っていて、まるで小学生の男の子のように無邪気な表情を見せる。
「でも、何やっても可愛いじゃん。フフッ。」
私も、なんだか楽しくなって、周くんに笑顔を向けた。
園には、たくさんの動物がいて、久しぶりに来るのもいいものだと思った。
「鷲(わし)って、こんなに大きかったっけ?」
目の前には、私がしゃがんだくらいの大きさの怖そうな鳥が一匹、バーの上でじっとしている。
「あいつは、肉食の猛禽類でしょ。鳥の中の王様だから、ヨーロッパで家の紋章に出てくる。確か、ハプスブルク家もそうだったと思うよ。」
「うわっ、何か吐き出したよ。」
「消化できなかった小骨とかだ。」
「へぇ~、周くん、良く知ってるのね。」
「小さい時、図鑑っ子だったのが初めて役に立ったかも・・・ハッハ。」
目を細めて笑う周くんにつられ、私も自然に微笑み返す。
ふと見ると、4歳くらいの男の子が一人ぽっちで今にも泣き出しそうな顔して、ウロウロしている。
どうやら、迷子のようだ。
「お母さんとはぐれたの?」
と聞くと、頷きながら大粒の涙をこぼし始めた。
「ヒック・・みいちゃんと、ママがどこかに行ったの・・・ック・・。」
「ねえ、お姉ちゃんが探してあげるから、僕のお名前教えてくれる?」
「うん・・・みはしけんご。」
「けんごくん?」
けんごくんというその男の子は大きく頷いた。
迷子センターに連れて行こうと立ち上がり、周くんを見上げると、周くんは両手を拡声器代わりに口に当て、大声で叫び出した。
「すみません~、けんごくんのお母さんはいらっしゃいませんか?
けんごくんのお母さんいらっしゃいませんか~?迷子になってますよ~。」
とても大きな声で周りの人に呼びかけている。
ちょっと、びっくりした。
さすがの私も、大声で呼びかけるのは気恥ずかしい。
躊躇無く、辺りをウロウロしながら呼びかけている周くんの声が届いたのか、向こうの方から若い母親とお姉ちゃんらしき女の子が小走りに向かってきた。
けんごくんはお母さんの元へ駆け出して、太腿に抱きつき泣いている。
お母さんは何度も私たちにお辞儀し、けんごくんとしっかり手をつないで行ってしまった。
「良かった・・・。」
けんごくん達の後姿を眺めながら、ポツリとこぼす周くんの横顔を感心して眺めていると、今度は腑抜けたように見つめていた私へ向かってもう一度、「良かったね・・・。」って、さわやかな笑顔を見せる。
そんな周くんがまぶしくて、胸がキュンとなって、顔が熱くなった。
「///あ・あのさ、周くん、さっき、格好よかったよ。」
「いつ?」
「大声出してる時。」
「へ?そんなのが好きなんですか?牧野さん。」
「ああいうの、いいよ・・・。」それから、私たちは木陰にレジャー・シートを敷いて、二人で腰をおろした。
「周くんのために作ったお弁当だから、残さず食べてね」と持参したお弁当の蓋を開ける。
「うわっ、お弁当だ。」
「そりゃ、そうだわよ。クスッ。」
「何、これ?」
「それは、えのき茸のベーコン巻きよ。その横は、ちくわの中に胡瓜が入ってるでしょ?」
「ホントだ、スゲーッ。」
「庶民のお弁当はこんなもんです。」
あちらでもこちらでもシートを広げ、色とりどりのお弁当を並べて、皆が休日の午後を楽しんでいられる場所だ。
どの顔も皆、この穏やかな光景を胸に刻むように、時折遠目で空を見上げているように見える。
「牧野さん、ごちそうさま。」
「どういたしまして。」
「いい天気ですよね・・・僕、眠くなっちゃったな。あの、膝枕なんて、ダメかな?」
首を傾けて聞いてくる周くん。
「ちょ・それは・・・」
周くんは思いついたように、ポケットへ手をやって二枚のコインを取り出した。
そして、「見ててね。」というと、二枚のコインを握り、クルリと手首を回し、次開いた時には、コインは二枚ともどこかに消えていた。
「うわっ、すごい。」
そんなマジックを何度かして、楽しませてくれた後、コインが左右どちらの手に入っているか当ててみてという。
もし、外れたら膝枕ってのはどう?と・・・。
勝負に乗った。
周くんは確かに二枚のコインが手の中にあることを見せると、5本のきれいな指で隠すように、しっかり拳を握った。
左右の固く閉じられた拳を何度もクロスさせて、どちらか選べという。
「う~ん、こっち。」
わたしは、向かって右側のこぶしをちょこんとつついて言った。
そっと開かれた手を覗き込むと、残念ながらはずれ。
もう一方の手をひらくと、そこには三枚のコインが入っていた。
いつのまにもう一枚増えてるの?
「クスッ」
してやったり顔の周くんの笑顔がかわいい。・・・完敗だよ。
「いいよ、膝枕。」
「やりぃ~。」
「しつれいしま~す。」と嬉しそうに頭を乗っける周くんは、早速目を閉じて昼寝をしようというのか。
遠くに聞こえる甲高い鳥の鳴き声と子供たちのかけ声がほどよいBGMとなり、木陰をより心地よくさせて、ここだけ世界から切り取られた楽園なのではと間違えそうになる。
周くんの寝顔を見下ろしていると、こちらまで平和な眠りの世界にいるようで優しい気持ちに浸っている自分に気付いた。
この男(ヒト)の髪の毛を優しく撫で続ければ、この平和が永遠に続くような夢見心地がした。
しばらく寝顔をながめてから、持て余した手で3枚のコインをどうやったら消えるのか遊んでみる。
「やってみる?」
眠っているはずの周くんが、膝の上からおもむろに声をかけてきた。
コインを握って、両手を差し出す。
「じゃ、どっち?」
「右」
「はずれ~」
「じゃ、どっち?」
「右」
「あたり~」
なんて、繰り返し遊んだ後、次当ったら何もらおうかな~?なんてセリフを吐く周くん。
「じゃ、どっち?」
「う~ん、左?」
「はずれ~」
「ゲッ、ちくしょう。」
悔しそうな周くんも可愛くて、そっと髪の毛を撫でてあげると、目が合って見つめ合う形になる。
周くんの瞳は太陽の光を受け、透き通った紅茶色で吸い込まれそうだ。
ゆっくりと周くんの左手が私の頬に触れ、髪の毛をくすぐった。
カサリと耳元で音がする。
頬に感じる指先に、ドキリと心臓が音をたてて、固まってしまった私。
「牧野さん・・・、僕。」
「・・・」
すると、一瞬目をつぶり、振り払うように起き上がった周くんは、左手に小さな葉っぱを握っていて、「付いてました、これ。」と眉を動かせ言い、そのまま立ち上がった。
ああ、びっくりした。
思わず緊張してしまったよ。シートをたたみ手渡してくれた周くんは、微笑みながらも、ずっと私から視線を逸らさなかった。
そのあと、連れて行ってもらったスポーツ用品店で、初心者用スノボーセットを購入し、あまりにはしゃぐ私を見て、周くんはお試しにと、リモを呼び、室内ゲレンデ場に連れて行ってくれた。
ナイターの時間が始まるところで、私たちと同じように今から滑りますというカップルもチラホラいる中、初めて自分のボードで滑るのは最上の気分だった。
「周くん、やっぱり買ってよかったよ~、最高だね。」
私は、思い切りの笑顔を向ける。
「牧野さんのその笑顔、僕、大好きです。」
つづく -
shinnjiteru34 34.
時計の針はカチカチ動き続け、既に待ち合わせの時間15分前だ。
昨夜は、西門さんが茶器を見つめるカットの大量な写真を前に、どの写真を使用するかカメラマンと話し合い、考えていたイメージ通りにページが仕上がりそうなので、調子よくズルズルと遅くまでページ・レイアウトを練っていた。
西門さんの茶器を見つめる横顔は、芸術品を愛する眼差しいっぱいに気高い。
それは、イケメン茶人として、多くの読者の心を掴むことだろう。
そして、師事する月日とともに私が感じてきたイメージ通り、宿命を享受し、自らを更なる高みに置こうと弛まぬ努力を続ける健気な姿も映し出していた。ピンポーン♪
来た!
あわてて、カバンを掴み、歩きやすそうな靴を取り出した。
「うっす!」
「お早う!西門さん。」
「行くか。」
「うん!」
カンカンと階段を下りたそこには、西門さんの大きなバイク。
メットを渡され、ややあって、エンジン音が大きく響き始めた。
そっと、西門さんの腰に手を回して、振り落とされないよう力を入れる。
お互いのジャケット越しに、弾力が伝わり始めると、ほんの少しさらに力を加えた。
植物系にバニラがかった甘酸っぱい香りが、絶え間なく前方から風にのり、私の体を薄く包み込んでは消えていく。
楽しくてワクワクとした気持ちが口からあふれそうになるのを、大きな背中に頬をペタッと擦り付けて、ぐっとこらえるんだ。
今日は、長時間こうしていられると思うと、口元が緩んでくるよ。
信号待ちでは、気をつけないと。
途中のICで休憩を入れながら、11時には水戸の梅園に到着した。
日本三公園の一つと知れた景勝地だけあって、その施設の豊かさに圧倒される。
梅の見頃を逃すまいと、多くの人でにぎわっており、車もいっぱいだ。
こんな時、二輪車ってのは、特権を持つかのように道も駐車場も足止め知らず。
私達の足取りは軽く、咲き誇る梅の香りに釣られるように園に入場した。それこそ百花繚乱。
右も左も梅だらけ。
白・薄桃・桃・濃桃と絶妙なグラデーションで重なり合って、なんともいえない甘い梅の香りがいっぱい広がっている。
緩やかに蛇行する歩道に沿って、梅園はどこまでも続いているように見えた。
一つ一つは小さく地味と言える花なのに、こんなにたくさん一斉開花すると、豪華で近寄りがたい印象に変わってしまう。
「西門さん、梅の花言葉て何?」
「高潔・上品。・・・あと、気品とか。」
「うん、わかるよ、そんな感じするよね~。」
「まあ、牧野とは正反対だな。」
「どうせ私はね・・・。」
「ふっ、牧野が品がないって言ってるんじゃないぜ。
お前は、どちらかというと夏の花っぽいもんな。
太陽に向かって咲くたくましい花だ。」
「・・・向日葵ね、うん。
西門さんを花に例えるとなんだろうなぁ~。」
「おいおい、止めてくれよ。男を花に例える気か。」
「う~ん、西門さんはね、菖蒲・・・?」
「それは、端午の節句からくるイメージじゃねえの?」
「はははっ、そっか・・・。」
ふと見ると、とっても可憐な梅の花が視界に飛び込んできた。
「可愛い~あの梅、花弁の半分がピンクで半分が白になってる。」
「春日野・・・だって。」
「春日野?」
白いタグにそう小さく表記されていた。
昔から日本人にこよなく愛され、俳句にも詠まれた親しみ深い花だけあって、雅(みやび)な名がつけられている。
御所梅・高梅・白難波・大盃・道知辺とその謂れを興味深く想像させる名ばかりだ。
「あれ?“思いの儘(まま)”?
西門さん、あの梅の名前、“思いの儘”だって。
クスッ、ちょっと、今までの名前と違うネーミングだね。」
「“思いの儘“?マジ?」
「うん。ほら、あそこの五分咲きの梅。誰が、名付けたのかな?」
指差す方向にグッと身を寄せ、目を細める西門さん。
「そりゃ、最初に見つけた人なんじゃねえの?それか、品種改良した人か。」
「願いを込めたんだろうね、自由で詩的な感じがするね。」
「おう、確かに羨ましい名前だな。」
私たちは、その名の由来を想像し、思い思いの感想を話しながら、早春の香りいっぱいの道をくねくね歩いていった。
すると、前方に紫の幕が張られ、目が覚めるように真っ赤な和傘の下、和服姿の人達が野点を行っていた。
咲き誇る梅園の中、絵のような光景に、遠くから眺めているだけでも優雅さに魅せられる。
四季折々の風情をこうして楽しむことで、日本の文化がこんなにも豊かになり、世界に誇れるチャーミングな特徴を育んできたわけで、
七夕・秋のお月見・紅葉狩りなど、行事を数えると結構な数に上る。
夏には、朝顔を愛でながらの朝茶という茶会もあるらしい。
出版社で働き初めてラッキーなことは、日本文化に触れる機会が増え、今まで見過ごしてきたその素晴らしさを再確認出来たことだと思う。
その時、西門さんに気付いた開催者が声をかけてきたのだ。
「総二郎さんじゃないですか?どうも、ご無沙汰しております。」
「あっ、こんにちは。今日はそちらの野点の日だったのですか?」
流派は違えど、親交のある流派の春慶の祝い事に出くわした。
「宜しかったら、総二郎さんも一服いかがですか?
隣のお嬢様もどうぞ。」
ささっと手招きされ、戸惑いつつも丁度喉も渇いた頃合だ。
けれども、西門さんは茶道会では名が知られた人物であり、親交のある流派ともなれば、どこでどんな噂が立つか想像するだけで、身が縮こまってしまう。
平服の私たちは明らかに飛び込みのいでたちで、男女二人して偕楽園へ遊びに来ていたと思われて当然なのだから。
そういう噂は早く広まるもので、まかり間違ってお家元の耳に入ったりすれば、西門家への恩を仇で返してしまうのではと心配にもなる。
男と言えども、やはり、生き方まで含んだ総合芸術の時期家元なのだし、ゴシップは無い方がいい。
まだまだ閉鎖的な世界だという常識は心得ているつもりだ。
「西門さん・・・。」
私は、肘をつまんで、ぐいっとこっちに引っ張った。
「ん?」
「ねえ、止めとこうよ。」
「なんで?いいじゃん、一服くらい。」
「だって、こんなに関係者がいるんだよ。変な噂でも立ったら、どうするのよ。」
「俺は、構わないぜ。」
「構わないことないでしょうが。自分の立場わかってるでしょ。」
「牧野よりずっとわかってるつもりだけど、それがどうした?
見せつけてやろうぜ。」
驚いたことに、西門さんはおもむろに私の右手を取った。
そのまま手を握りながら、朱色の毛氈が引かれた席まで行くと、先客に一礼し堂々と腰掛けたので、私も引きづられるように着席する。
座ってもなお、私の手を離さない西門さんを横から眺めてみるも、いつものニヤケた口元が見当たらない。
代わりに視線は、既にお点前に向かっている。
けれど、まずいよね・・・この手。
手をつないでるんだよ、私達。
人に聞こえるのを憚って、静かに手を払おうとしても、かえってギュッと握り返してくる不可解な行動。
ちょっと、西門さん、どういうつもり???
お茶をいただく番が近づいて、ようやく力を緩め解放してくれた。
駐車場に戻る道々、さっきのはどういうつもりか問う私に、「減るもんじゃなし、いいじゃないか。」とまるで類のように、飄々と言い続ける西門さん。
口笛までも飛び出した。その後、私たちが向かった食事処は、もちろん水戸に来たからにはマストでしょ!という私の意向で、
和食のお店へレッツラGO。
丼の上に、たっぷり納豆が載ったものを注文する私に、西門さんが笑う。
「お前は、全く色気ねえな・・・。」
「西門さんの前で、今さら気取っても仕方ないし。」
「そうか・・・。俺は、全然、牧野に意識されてねえってこと?」
「あたり前じゃない!」
「マジ?俺は、意識してんだけどな。」
ニヤリと口角を上げるいつもの西門さんだ。
「はいはい。」
なんだかホッとして、乱暴に言い返した。
「牧野、あのな・・・俺は・・牧野のこと・・。」
話の途中で真横を向き、頬杖をついて考え込む西門さん。
「私のこと・・・?」
「いや//、まあ、今はいいわ。」
丁度そこへ料理が運ばれてきて、箸を手に取った西門さんの前に置かれたのはお蕎麦。
どうして、名物の納豆を頼まないのかまったくこの男の気が知れない。
つづく -
shinnjiteru35 35.
水戸から東京へ戻り、そのままバイクで三軒茶屋の茶道具屋さんに連れて行かれた。
ショウ・ウインドウのど真ん中には、雪が降り積もったような白塗りの志野茶碗が高台に飾られている。
「いらっしゃいませ。西門様、どうもお世話になっております。」
「こちらこそ。」
「例のもの、ご用意しておりますよ。」
店主はレジの奥の数ある棚の一つを引いて、白い小箱を取り出した。
「そのままで。」
「そうですか・・・。ご確認もよろしいですか?」
無言で頷く西門さんに応えて、ご主人も小さく微笑んで頷き返した。
受け取った小箱をジャケットのポケットに突っ込み、店を出ようとする西門さんにあわてて小走りで引っ付いていった。夕食に西門さんが連れて行ってくれたお店は、やはり高級そうなお店だった。
「また高そうなお店だけど、こんなカジュアルな格好でいいのかな?」
「大丈夫だろ。」
そう言った西門さんは私の腰に手を回し、押し出すように歩き始めた。
「ちょっと、何、そのやらしい手。」
「いいじゃん、減るもんでもなし。」
「ちょ、ちょっとぉ~。」
「「「いらっしゃいませ~」」」
案内された部屋は、10畳くらいの和室で、黒檀の和テーブルと青紫色した分厚い座布団が目を引く。
ややあって、伸びをする西門さんに運転をねぎらうと、
「結構、楽しめた・・・。牧野が、必死でしがみつくからな、フッ。」
首を傾け、からかうようにニヤリと口角をあげて言う。
「お前さ、胸でかくなったんじゃね?」
「は?///か・かわんないわよ!西門さんが、危なっかしい運転するから仕方ないでしょ!」
「おいおい、これでも、無事故な優良ドライバーなんだぜ。
けど、今日は久しぶりの長時間運転で、肩凝ったわ。風呂入りてえ。
牧野に背中流してもらおうか・・・、責任取ってくれる?」
首を傾けたまま、普段のトーンでサラリと言うこの遊び人風の男をどうしてくれるか。
「西門さん!今日はおかしいんじゃない。悪乗りし過ぎ!
相手が私じゃなかったら、セクハラで訴えられるよ。」
「別に訴えられねえし・・・。
それに、俺はちゃんと言う相手選んでるから。
牧野だから、言ってんだぜ。」
「やっぱり、おかしいよ今日。」
「そうそう、これさっき取ってきたやつ。
一応、チョコのお返し。開けてみぃ。」
さっきのお店で受け取った物だ。私にホワイト・デーの贈り物?
その白い箱を手に取り、蓋を開けると、艶のあるティッシュ・ペーパーが現れ、ゆっくりめくってみると、
それは陶器製の黄色い兎だった。
掌にチョコンとのっけてみた。
「かわいい~!ありがとう。」
じーっと静かに見守っていた西門さんに笑顔を向けると、目を細めて微笑み返される。
「これ、もしかして・・・。」
「そう、炉用の香合。
中に練り香を入れて飾ったりしてるの、見たことあるだろ?」
「うん。けど、さっきお茶道具屋さんでもらっていたから、わかったのかも。
だって、ピルとかアクセサリー入れって言われても可笑しくないよ。」
「フッ、これ、見つけた時、牧野みたいだなと思ってな・・・。
白い兎だったんだけど、お前はどっちかと言うとそういう明るい黄色のイメージだから、店主に聞いてみたんだ。」
「うそっ、わざわざ注文してくれたの?」
「ちょっと、ここに置いてみ。」
西門さんは、顎で黒檀のテーブルを指している。
その小さな黄色い兎をそっとテーブルに載せた。
「ほら、やっぱり牧野みたいだろ?」
「そう??」
「大きな目を見開いて、小っこいくせにピョンピョン飛び回るところとか。」
「クスッ、そうかもね・・・。ありがとう、西門さん。」「牧野。」
「ふうん?」
「あのさ、牧野は俺とちゃんと付き合う気ない?」
「・・・?・・・」
真っ直ぐこちらを見つめて言う西門さんの口元は、ちっともにやけてなくて、真剣な表情だ。
静かな緊張感を伴い、威圧というより不安そうな色さえ浮かべていた。
どういうことだろう・・・。
付き合うっていうのは、男女の間柄ということ・・・でしょ?
笑えない悪乗りの続きか、それとも、血迷ってるのか、それとも・・・。
西門さんのゴージャスな女関係は、さんざん見たり聞いたりしてきて、道明寺とウブな私はいつも子供扱いだった。
所詮、結婚相手は自分で選べないのだからと一つトーンを下げて言った西門さんもよく覚えている。
今さら・・・。
「まっ、考えとけよ。なっ?」
その後、ずらりと並べられた高級な懐石料理は、どれもスポンジを噛んでいたようであまりよく覚えていない。アパートに送ってもらい、長いフル・デート(?)やらの終わりが近づいた。
「はい、メット。
今日は、色々、ありがとう。
それでさ・・・、さっきの話なんだけど、悪い冗談でしょ?」
バイクに跨いだままの西門さんへ、メットを返しながら言った。
「ンッ、そりゃそう思うだろうな。
俺だって、自分で言っときながら、マジかよって思ってんだから・・・。」
「西門さん・・・。」
西門さんは、メットをはずし、その黒いサラ髪を無造作に掻き上げると身体をこっちに向けた。
「牧野、マジで俺と付き合わねえ?」
その瞳は、真剣で真っ直ぐに私だけに注がれていて、さっきよりずっと強く私の心に届いた。
微かに揺れ動いたその瞳は、電灯の下で銀色めいて、ドキリとさせる。
うそでしょ・・・。
今まで、そんな素振り見せなかったじゃない・・・。
なんで急にそんなことを・・・。
我が身にふりかかった思いもよらない出来事が現実味を帯び出した。
ようやく対処しようと回転を始めるものの、混乱が広がっていくだけで答えを引っ張りだせる心境じゃないよ。
いつになったら答えを出せる出せないの返事さえ、考えられる心境じゃあない。
「ククッ、お前、面白い顔してんな。」
「っへ??」
「じゃ、またな。お前もちゃんと、風呂入れよ。」
そう言い、ふわっと表情を和らかくさせたかと思うと、持ち上げたメットをゆっくり被った。
銀色の細長い光りの尾を残しながら、あの瞳がメットの中に消えてしまった。
「見ててやるから、早く部屋に入れ。」
「う・うん。」
どうにか出てきた言葉はたったそれだけ。
西門さんは、私がドアノブに手をかけるのを確認すると、エンジンを震わせ帰っていった。
電灯の下には、あの銀色の残像がそこにくっきりと残された。
つづく -
shinnjiteru36 36.
一雨ごとに暖かさが増し、木々はその末端から太陽を吸収しようと一斉に手を広げる。
いい加減学習してもいいだろうに、毎年何かが始まる期待を抱いてしまう錯覚の月 ―卯月―。
4月と言えば、学生の頃は入学や進級ではじめましての出会いにあふれ、そりゃあ、冬篭りから覚めた熊のように活動的に動いていた。
部屋のカレンダーは真っ青な空に綺麗な桃色の桜の枝が数本重なった構図で、気持ちまで明るくしてくれる。
だから案の定、何かを期待してしまう。
けれども一方では、何も変わらない平凡な生活が幸せなのかもと妙に悟り始めた自分がいて、
さすがにOL3年目にもなると落ち着くものだと感心する。
通勤電車に揺られ、地下から地上に出る狭い階段を上ると、お気に入りの銀杏並木がパッと現れ、目が覚めるような新緑が清涼感を運んでくれた。
会社までのこの道は、いつでもどんな人でも優しく平等に迎えてくれる所以にお気に入りだ。
車道側に視線を向けると、黒い車が一台停車していた。
NYから戻った直後、道明寺とちゃんと話せたのか心配してくれた類が、あそこで待ってくれていたのをふと思い出した。
UAEに行ったきり、超多忙な日々を過ごしている類。
もし日本に居てくれたら、何はともあれ類の所に足を向けているはずなのに。
クスッ、今頃、中東の通勤ラッシュ渋滞にうんざりして、不機嫌な顔見せてるんでしょ?
あの晩の西門さんの言動は、真意なのだろうか?
からかうにしては、いつもと調子が違っていたし、あの目は真剣だった。
銀色めいた瞳は、私に向かって真っ直ぐ注がれて、ドキリとした。
愛の言葉を甘く告げられたわけでもなく、付き合ってと何度も繰り返されたわけでもないけど、あの西門さんがニヤケもなく、静かに言った言葉はものすごく大事な告白のようで、冗談なんかじゃなかったと思う。
どうしよう・・・。
芸術家としての西門さんを知るにつれ、その熱い情熱に目を見張り、努力する姿に心を打たれ、今や最強軟派男のイメージは二番手となり、代わりに信頼と尊敬の念は着々と膨らんでいる。
そんな西門さんが私と付き合って欲しいなんて、まったくの晴天の霹靂なわけで、どう接していいのか途方に暮れてしまうよ。
先週のお稽古は、いつもと変わらない西門さんのお陰で、どうにか乗り切れた。
考えとけって言われたものの、急にそんな風に西門さんを考えてみるなんて、馴染んだイメージを覆(くつがえ)してみろと言われてるようなもんじゃない。
F4の一人で話し上手な自称遊び人。
その反面、茶道の時期家元として期待され、その姿には誰もが魅せられる。
いつも本心を見せなくて、何考えているのかわからない人であり、
近くて遠い人・・・そして私を混乱させる達人。
そんな人が、私を好きだって?
私と付き合いたいなんて、マジなの?ってどうしても思っちゃうでしょうが。
何なのよ~、まったく・・・。そんな事を考えながら、いや、ブツクサ声に出しながら、会社の重いドアを開けエレベーターに乗り込んだ。
自席に着くと、早速、机上に置かれた私宛の書類に目を通す。
今月号の例のゲラ刷りが目に留まり、封筒から取り出した。
3ページにわたる男の美学コーナーには、西門さんが選んだ欠けた茶腕が大きく掲載され、実物よりはるかに美しく見える。
書かれているのは茶の道についてではなく、写真の茶腕との出会いに始まって、当時の収集家の気心や陶芸家の情熱を茶腕中心にまとめたものだ。
最後のページ下には、その茶器を手に取り眺める西門さんの横顔写真。
涼しげな目元の奥から光るうっとりした眼差しは、その視線の先にある物に思わず嫉妬してしまうほど、愛情を込めた優しいものだ。
うん、いい・・・。
やはり、思ったとおり西門さんの滅多に見れない表情が写っていて、本当の西門さんを紹介できたのではないかと大満足した。
プロフィールには、西門総二郎・・・
第16代西門流次期家元
英徳学園幼稚舎入学、英徳学園大学を卒業後、本格的に茶道の道に専念する。
その才能は高く評価され、海外からの講演依頼もひっきりなしの茶道界のプリンス。
その眉目秀麗な姿に見せられる女性ファンが多いが、本人は目もくれず、
クールな話し方が更なる人気を呼んでいる。
これを見て、西門さんはなんていうだろう・・・。
一刻も早く見せたい。逸る気持ちを抑えながら入念に確認作業を行った。数日後、刷り上った5月号の束が届き、早速、一冊抜き出し眺める。
どっしり重い雑誌の中ほどに私のコーナーはあり、勢いよくそのページを開いてほくそ笑む私。
「わ~、私にも見せてください。今月の牧野さんのページ、F4の西門さんですもんね。
こないだ実物見て、ファンになっちゃった。
花沢さんといい、西門さんといい牧野さんのお友達ってホント凄すぎ!」
印刷されたばかりの今月号を一冊抜き取りながら、同僚の平野さんが口を尖らせて言う。
「ま、そりゃ、私も同感なんだけどさ・・・。」
平野さんが行ってしまうと、早速、携帯を取り出し西門さんに雑誌が出来上がったことをメールした。
少しでも早く知らせたくて、メールを送ったのに返事が返ってこないまま、とうとう時計の針は8:00p.m.過ぎとなった。
机を片付け帰り支度をしていると、ようやくメール着信音が鳴る♪
『 雑誌、また今度見せて。 』
西門さんからの短いメールだった。
私が興奮気味で送ったメールと違い、悠長な落ち着いた返事だ。ビルの外に出ると、春の柔らかな陽射しが残していったさわやかな空気が頬に気持ちよく当たる。
私はスプリングコートの前を片手で寄せて歩き出した。
街灯に照らされた銀杏並木はお疲れ様と語りかけるように、瑞々しい葉っぱを優しく揺らし、乾いた眼球を潤してくれる。
外気を大きく吸い込みながら、携帯を取り出し西門さんを呼び出した。
Trurururururururrururu・・・・・・・
「もしもし、西門さん?」
「おっ、牧野か。雑誌、出来たんだってな。」
「そうだよ~、すぐに知らせたくて一番にメールしたのに・・・。」
「あ~悪かったな。滋賀で会合に出席してたから、返事が遅くなった。」
「そうだったんだ。
あのさ、出来上がったページ、すっごくいいよ!
西門さんのあの古いお茶腕も綺麗に撮れてて、クスッ、正直ビックリした。
実物よりはるかにいいんだから。」
「ふっ・・・。」
「それにさ、西門さんの写真も思ったとおりコーナーにぴったりでね、あれだと女性ファンが急激に増えること間違いないね。」
「お前な、俺を誰だと思ってんだ。」
「クスッ、なんだか私嬉しいんだ~。
西門さんの真面目なところ、みんなに紹介できてさぁ~。
人に何かを伝えられるこういうお仕事の醍醐味っていうかさ、遣り甲斐も感じちゃって、力が湧いてくるの。
西門さん、本当にありがとう。
早く見せたいよ。
ホントに今までで一番満足出来た仕上がりなんだから!」
「牧野、ククッ、嬉しいのはわかったけど、ちょっと興奮しすぎてねえ?」
「ねえ、今、西門さんは家に居るの?」
「まだ、車の中。あと20分くらいで着くぜ。」
「じゃあ、これ届けに行く!」
「今から?」
「うん、ちょうど、帰るところだからさ。」
「こんな時間だろ?・・・じゃあ俺が行くから、少し待っとけ。」
「でも、疲れてるでしょ?」
「牧野も同じだろうが。興奮気味の牧野の面を笑うのも悪くない。」
プロデュースした自信作を西門さんに見てもらえるのが何より嬉しくて、ごちゃごちゃ考えるのは、今晩だけお預けだ。自宅に戻り、一息ついているとチャイムが鳴った。
「西門さん、疲れてるところごめんね。どうぞ、入って。」
「久々だな、ここも。」
「バレンタインの次の日以来かな?」
着替えてきたのだろう、西門さんはグレイの細身パンツに藤色のコットンセーター姿だ。
「ほら、見て!」
早速、ページを開いて見せると、西門さんは手に取り視線を落とす。
「おっ、確かに茶腕よく撮れてるな。
まさか今頃、こんな風に担ぎ出されると思ってなかっただろうけどよ。」
黒いサラ髪の奥で上から下へと活字を追う瞳をじっと眺めて、西門さんがどう感じてくれているのか早く聞きたくて、うずうずしながら西門さんの次の一言を待った。
「いいんじゃね、これ。」
私を見てにこやかに微笑んでくれた。
きっと、私は得意満面の笑顔だっただろう。
ホッとするのと嬉しさと充実感が混ざり合って、息を吹き返したように脳も身体も活発化し、血液が高速で巡り始めるとジンワリ体温が上昇していくのがわかる。
「でっしょ~。
こんな風に西門さんのすっごい部分を紹介できたのが、なんだか嬉しくてさ。
いい仕事したなって自分でもちょっと感動してるんだ。」
「すごい部分?どんな所を紹介したかったわけ?」
「だからさ、無茶苦茶純粋に芸術を愛してるところとか・・・。ほら、この写真!
この西門さんの瞳って、あの茶腕に恋してるような、邪魔しちゃ悪いような気にさせるじゃない?
いつもは、クールなのに時折見せるんだよ、こういうの。」
「よくわかんねえけど、そんなに喜んでもらえると俺も嬉しいわけで、良かった良かった。」
「もしかして、こういうのって編集者冥利っていうのかな?
でもさ、めぐり合わせって気がするんだよね。」
「何が?」
「もちろん、こういうお仕事に就かなければ、こんなページを担当することもなかったでしょ。
西門さんとは長い付き合いだけど、入門して西門さんに師事しなかったら気付かなかったと思うんだ。
だって、さんざん美作さんと一緒に女の人を目で殺してきた西門さんだよ!」
「おい、それは過去だろ、過去!ひどい言い方だな・・・それ。」
シューシュー鳴るヤカンの火を止めて、インスタントコーヒーにお湯を注いだ。<br<>
「はい、どうぞ。」
「ということは、原稿の件は上手くいったということだな?
じゃあ、おねだり聞いてもらえるってこと・・・だよな?牧野。」
ニンマリした口元を和らげ、首を傾ける男。
げっ、人が感慨深く振り返っている所でそれを言うか・・・。
つづく -
shinnjiteru37 37.
「あのさ、おねだりってまさかあんた、変なこと考えてないでしょうね?」
凝視する男の視線からそういう風なことが頭に浮かんだ私は、性急に自分から切り出した。
「考えてもいいけど、ダメって言うだろ?」
口角をクイッとあげて、ニヤリとする西門さん。
「//ぅん~じ・じゃあ、何?梅の次は桜?いいよ、どこでもお付き合いしますよ。
バイクも慣れたし、勉強になるしさ!あっ、動物園でもいいよ!
こないだ周くんと行ったばっかだけど、楽しかったし・・・。」
「フッ、何、焦ってんの?
確かにもうじき桜の花見シーズンだな。
牧野、吉野の桜、見たことないだろ?うちの別邸からの眺めは見事だぞ。
今度、連れてってやるわ。
おっ、その時、一泊ってのはどうだ?」
ニヤリと口角を上げる西門さん。
「んもう~、馬鹿言わない!ねえ、おねだりって何?ほら、さっさと言う!
//あの、あのですね~、言っときますけど、例の返事は強制的にOKしろとか言われても絶対無理ですからね!」
西門さんの瞳が微かに揺れ、コーヒーの湯気に視線を落とした。
「牧野、マジで俺が無理矢理どうにかすると思ってんのか?」
「は?」
「はぁ~、俺って本当に牧野に信用されてないんだなぁ。」
「いやいや、信用あります!!あります!!
なんだか、ちょっとさ・・・そういうのはねえ?ちゃんと納得っていうか・・・。」
「ククッ、はっははは。」
急に笑い出す西門さん。
「相変わらずウブだよな、お前・・・。
男を喰って、女っぷりをあげてやろうとか思ってみろよ!」
背もたれに身を預け、笑い続ける目の前の余裕の態度が気に食わない。
西門さんに女の部分をからかわれ、意外にもなけなしのプライドが傷付いた。
まだまだガキって言われたみたいで腹が立って、西門さんに食って掛かる。
「まだまだで悪かったですね。
そういう西門さんは、こんな私のどこが気に入って下さってるのかしら?
それとも、調子に乗って言っただけ?
おかしいと思ってたんだよね、今頃になってそんな事言いだすなんて。」
「牧野、そういう男の喰い方は良くないぞ。
お兄さんが優しく教えてあげようか?」
余裕を見せる西門さんは、その手を伸ばし、私の腕をガシッと握った。
西門さんの綺麗な4本の指が手首から10センチ辺りを掴んでいる。
指にも意志があるのか、離さないと語っているようにビクともしない。
そっと見上げると、決しておふざけなんかじゃない。
その双眼は堅い意志を感じさせ真っ直ぐこちらを見据えていて、キリリと真剣な表情の西門さんがいた。
息を止めたのもつかの間、今度は心臓が尚早に鼓動を打ち始め、捉えられた小鳥のように心もとなく動けない。
西門さんの瞳には熱い激情がちらつき、私はこの男(ヒト)に強く求められているのだと、
脳髄からうるさい程伝達されて、てんてこ舞いになる胸の内。
けれども、確かにどこかでポッと明るく色づく場所も感じられ、不思議と嫌ではない。
「///に・にしかどさん・・・、日本茶の方がいいよね・・・。」
ギュッと搾り出して貼り付けた笑顔。
自分でも可笑しいと思うけど、それが精一杯。
ヤカンに水を入れ、火をつける。
カタンッ
ふわりと優しく背中から包まれた。
植物系のバニラがかった甘酸っぱい香りが鼻腔を通って、身体中に広がっていく。
鎖骨の下とお臍の上に西門さんの腕を感じて、
そして、左耳には西門さんの甘い声が響く。
「牧野、少しだけこうさせて・・・。じっと・・・。」
そういって、西門さんは私の髪に顔を埋め、更にぎゅっと深く腕を回し、大きく深呼吸した。
「西門さん・・・?」
私を捕まえるように、強く深く腕の中に閉じ込め、じっとして動こうともしない。
何もしゃべらず動かず、ただ髪の毛越しに西門さんの吐息の湿り気と温かさを感じた。
密着している二人の身体の隙間には拳程の余裕もなく、西門さんのか自分のかわからない心臓の音が耳に定期的にこだましている。
「牧野・・・。」
「 ・・・・っ。 」
西門さんのやや掠れた小さな呻き声・・・。
その唇はどんな風に動いていたのだろう?
振り返ることも出来ず、息を呑み、自分の開いた手のひらで両太腿を押さえた。
こんな切なげな西門さんの声色は今まで聴いた事が無い。
私は返事すらできず、身を固くし全身の神経をさらに研ぎすました。
「はぅ・・・。」
微かに聞き取れた小さな溜息。
その胸を締め付けられるような苦しげな声に、感情が一気に昂揚し理性は麻痺させられ、雌の本能が瞬時に顔をのぞかせる。
ムードに流されただけかもしれない。
けれど、どうしようもなくそんな西門さんを抱きしめてあげたいって思った。
「西門さん・・・。」
頭では、身体を反転させて触れてあげたいと思うのに、奥手な私の身体は動かない。
私の声に反応した西門さんは力を緩ませ腕を引くと、その両掌を私の体の上でゆっくり這わせ始めた。
多分、彼にとっては無意識の行動だったのだろう。
お臍から右乳房へと載せられた大きな西門さんの右手の感触。
「・・うっ、ヤベッ・・。」
とっさにそう言うと、西門さんの身体が私からスーッと離れてしまった。
気のせいか、黒いサラ髪の下は頬が赤く染まっている。
「 ・・・・・。 」
「 ・・・・・。 」
先に口火をきったのは西門さんで、一呼吸した後、「参ったな・・・。」って。
そして、余韻の只中、固唾を飲んで見上げる私から視線を反らすように、
バイクのキーを荒々しく掴み、「遅いから、帰るわ・・・。」と玄関へと歩き出した。
「へ?」
「 ・・・・。 」
こんな時でも、スマートに靴を履く男。
もたつきもせず、扉を開け外に一歩踏み出すと、振り返りながらこう言う。
「減るもんでもないし、大目に見ろよな。おねだり、チャラにしてやっから。」
いつもの西門さんの口調に戻っていた。部屋に残された私は、西門さんの残り香を無意識に深く吸い込み、テーブルのマグカップを洗い場へ運ぶ。
先ほどのことを反芻しながら、スポンジに洗剤をつけて泡立てる。
西門さんの切ない声が今だに耳に残って、胸が痛い。
あの時、チラリと見せた赤く染めた頬、なんだか意外だった。
おねだりって、あれ?
女ったらしの西門さんって、案外ウブなんじゃないの・・・クスッ。
あんだけ人に言っといて。
勝手に抱きしめられ、あろう事が右乳房まで触られたのに、嫌じゃなかった。
むしろ、そんな西門さんがちょっぴり可愛いって思えるのが不思議で、今こうして笑ってる自分には正直驚く。
尊敬や憧れで、そうはならないよね?
異性として、最も遠い人だと思っていたけど、この気持ちは・・・もしかして、好きだからっていうことなの?
目線は手元、けれども、思考は自分の心をグッと掘り下げた辺りを右往左往していた。
ガシャン・・・!!
手に持っていたマグが、床に落っこちた。
滑り落ちた西門さんのマグ。
大きな音を立てて、いくつものピースに割れてしまった。
食器を割るなんて、めったにないのに・・・。
反省しつつ、割れた破片をしゃがんで片付けていると、遠くから物々しいサイレンの音。
静かな夜を無遠慮に破るような音が町に響き渡る。
ピーポーピーポーピーポー ピーポーピーポーピーポー
えっ?
血の気が引くと言うのは、このことかもしれない。
とっさに、ものすごく嫌な予感が全身を貫いて、身震いした。
思わず、外に出ようと、玄関へ行く。
靴をはこうとするのに、片方は蹴り飛ばしてしまう始末。
サイレンの数は複数に増え、徐々に大きくなって止まる。
近い・・・。
大通りに出て、赤いサイレンに向かい全速力で駆けていった。
片道3車線の通りには、2tトラックらしい車が歩道に突っ込んでいて、青っぽい乗用車が中央分離帯に鼻先を向けて道路をふさいでいた。
白い救急車が二台とパトカーが一台。
事故は??負傷者はどこっ??
私の身体は小さく震え、歩くのがやっと。
救急車の向こうに見えたのは、無残に前輪上部が捻れ横転した黒いバイクだった。
嘘っ・・・。
ありえない。
息が出来ない。
白衣を着た救急隊員達の背中が見えた。
近づきたくないくせに、足は早歩きとなり、呼吸が短く荒々しいものへ変わる。
救急隊員の左側に、脛から下だけ見えたのは、見慣れたグレイのパンツと黒い靴。
・・・っ!!!西門さん・・・!!
つづく -
shinnjiteru38 38.
動かない足元へ近づいていくものの、足がすくんで上半身だけが前のめりになる。
もつれそうになる足をどうにかしながら、救急隊員の一人が振り返った時、ようやく見えた上半身が視界に入ると、指先が感電されたように固まった。
ヘルメットをつけたまま横たわりぐったりとして動かない西門さん・・・。
近づく私を押しとどめる警察官を払いのけ叫んだ。
「西門さん・・・!」
その場は通されたものの、3人の救急隊員が西門さんをぐるっと取り囲み、声を掛け合いながらメットをはずすところだ。
その緊迫した空気から容態が決して明るいものでないことはわかる。
思わず拳を胸の前でギュッと握り締めた。
意識があるのかないのか、全く判別できない。
ただ、西門さんは呻き声一つ上げず、まるで人形のように脱力していて、灰色のアスファルトには赤黒い大きな血だまりを作っていた。
大出血は明らかで、太腿辺りには大きな白い枕のようなものが載せられている。
機敏な応急処置の合間、スッポリあいた西門さんの側にすかさず歩み寄った。
「西門さん!!西門さん!ねえ、西門さん!」
固く閉ざされた瞼と青白い顔は、もはや、私のよく知る西門さんではない。
どんなにからかわれても、どんなに抱きしめられても、今なら笑って受け止めてあげるのに、そして、ちゃんと抱きしめ返してあげるのに・・・なんで?なんで動かないの?
こんなにも血を流して、どうするつもり?
笑えないよ!
ついさっき、あんなに私を熱く見つめていた西門さんとは思えない。
あんなに私を驚かせ混乱させた男性(ヒト)がカタリとも動かず、今にもその命の灯を消そうとしている。
私の目の前で魂が小さく小さくなって、このままポッと消えてしまうのではないかと恐怖がよぎった。
混乱させるだけさせておいて、私を置いていくの?視界が涙で滲み始める。
何かの冗談でしょ?
黒いサラ髪は変わらず艶やかなのに、その頬も瞼もまるで人形のように生気が感じられず、いつものニヤケた口元がどうしようもなく懐かしい。
冗談なら、早く起きて!西門さん!
「西門さん!!しっかりして!起きて!!ちょっと、起きてよ!!!」
救急隊員が酸素マスクを取り付けようと頭を持ち上げると、その時、西門さんの瞼がうっすら開き、スローモーションのように唇が動く。
良かった、生きている。
とにかく生きている。
そして、私の耳に小さく届いた声は、こう聞こえた。
「・・みる・・な・・・・・。」
えっ?なんて?
酸素マスクを装着され、担架に乗せられていく。
見るな・・・って?
もう、何言ってんのかわかんないよ・・・。
私も救急車に同乗し、西門さんの代わりに矢継ぎ早の質問に答えられるだけ答えた。
すぐに家族に連絡をと言われたものの、携帯を家に置いてきたから番号がわからない。
とりあえず、渡された電話から優紀へかけて、一刻も早く西門家の人に連絡して欲しいと伝えた。ストレッチャーでオペ室へと運ばれ、緊急オペが始まってしばらくすると、西門のお母様と周くんがやってきた。
「牧野さん、総二郎は?」
悲壮な表情のお母様は、私を見るなり問いただすように聞いてくる。
できるだけ見たことを伝えようとするものの、容態も事故状況さえもよくわかっていない私には、お母様を落ち着かせることなど到底できない。
周くんが、お母様の肩にそっと手を置き、冷たいビニールシートの椅子に座らせた。
「とにかく、ここでオペが終わるのを待とう。 牧野さん・・・、大丈夫?」
周くんが、私を気遣ってくれる。
私の身体は、たった一人でずっと小さく震えていた。
眉間に皺を寄せ、心配気な表情で覗き込む周くんから優しくかけられた言葉が温風のように張り詰めた私の心を和らげる。
乾きかけた涙腺に再び涙が溢れ出した。
「周くん、私・・・。どうしよう・・・私のせい・・。」
「何言ってるの?事故は、牧野さんのせいじゃないでしょう?」
「ちがう。ちがうの・・・私のせいだよ。私が、西門さんに電話しなければこんな事故に巻き込まれること無かった。」
手術中の赤いサインは、頭上で私を責めるように煌々と点灯し、薄暗い廊下に反射している。
「牧野さんのせいじゃない。」
周くんは、私の肩に手を置き、怒るように言った。
赤いサインが消灯するまでの長い時間、私たちは声を掛け合うこともなく、ただリノリウムの床に視線を落とし続けた。
あの時、ピクリとも動かなかった西門さんの青白い頬。
流れ出た血をアスファルトが吸収し、赤黒いしみが徐々に大きくなって、出来上がったばかりの闇への入り口がポッカリ口を開けているように見えた。
その中へ西門さんが吸い込まれていきそうで、怖くて怖くてたまらなくて心臓が震えた。
目に焼きついた西門さんの血だまりの映像が、何重にも重なりながら私のほうへ向かって落ちてくる。
うっ・・・西門さん・・・ごめんなさい。
私が電話なんかしたから、こんなことになったんだよね。
どうして、私が出向かなかったのだろう。
今日は一日中忙しくて、返信も出来なかったと言っていた。
疲れていたの知ってたのに、どうして寄越してしまったのだろう。
早く見せたくて、浮かれていたのは私なのに、どうして西門さんがこんなことに。
赤いサインが消え、中から出てきたドクターに視線を向ける。
やや疲れた表情のドクターに詰め寄るお母様に告げられたのは、予断を許さないという微かな希望を砕かれた現実。
打撲による左肋骨粉砕骨折、それに伴う左肺損傷。
最も深刻なのは、車両轢過による大腿部・膝蓋骨のダメージらしい。
「先生、元に戻りますよね?」
すがるように言葉を投げかけると、ドクターは厳しい顔で「祈りましょう」とだけ言い残し、気のせいか怒った様に視線をはずしながら行ってしまった。手術室のドアが大きく開き、口元には大きな酸素マスク、計測機械とたくさんのチューブにつながれた西門さんが目の前を通り過ぎていく。
「総二郎・・・。」
お母様が駆け寄り、覗き込む。
「西門さん・・・。」
その痛々しい姿を見つめるのがつらくて悲しくて、このまま正気をなくしてしまいそうで、きつく口元を両手で塞ぐしかなかった。集中治療室に入ってから小一時間たっただろうか・・・。
警察の人に色々聞かれた。
私が駆けつけた時は、もうすでに救急隊員による応急処置が始まっていて、役立つ情報は私からは一つも提供できなかったのではないだろうか。
いつもの西門さんは、バイクの時、一切アルコールに口をつけないし、動体視力だってすごく良さそうで、後部座席に乗っていて不安に感じたことは一度も無かった。
もちろん、西門さんが直前に口につけたものはコーヒーだけ。
そのことだけは、ちゃんと伝えた。
警察官に聞いた事故情況はこうだ。
居眠り運転の2tトラックが誤って歩道側に突っ込んだ際、歩道側走行中の西門さんのバイクを巻き込み、運転手はガラス破片が刺さり顔面裂傷と打撲程度。
巻き込まれた西門さんのバイクは転倒。
車道に投げ出された西門さんの体躯を後続車が轢過。
運転手はハンドルを切りすぎ中央分離帯に激突し、内臓損傷で同病院に入院中。
西門さんには何の落ち度も無い事故なのに、覆いの無い二輪運転者はやはり最もひどい身体被害を被った。
西門さんを見ることもできず、人気のいない病院ロビーで周くんと肩を並べて座っていた。
自動ドアがガーッと開く音がして視線を向けると、息せき切らした美作さんが走りこんできて、周くんが立ち上がる。
「おぅ・・・周、それで、総二郎は?」
うっすら汗を浮かべた美作さんは、心配気な表情で開口一番に聞いてきた。
「オペは無事終りました。でも損傷がひどくて、予断できない状態です。」
「そうか・・・。」
美作さんはついさっきまで仕事をしていたような出で立ちで、きっと大急ぎで周辺を片付けてきたに違いない。
いつものように、颯爽とスーツを着こなし、美作商事部長としての多忙なスピード感を全身から発散させている。
美作さんと目が合うと、それだけでまたもや、涙腺から大粒の涙がこぼれ出る。
とめどなくこぼれ出る涙を指で掬うと、美作さんがフッと口元を緩ませて言う。
「牧野、泣くな。総二郎は、大丈夫だから。」
美作さんの優しい口調が、英徳時代を彷彿させる。
「・・・・ううっ・・・。」
嗚咽がロビーに響いた。
突然、出口が見つかって堰をきったように溜まっていた悲しみと後悔の苦しみが、嗚咽となって流れ出し、大きく響く。
こんなことになったのは、自分のせいだ。
悔いても悔い切れない。
どうして・・・どうして・・・どうして・・・・。
ロビーには全ての悲しみを受け入れる容器があるのか、泣いても泣いてもその悲しみは深まり増すばかりで、この日を境に自分も何かを背負い込んだのを知覚した。
寂れた辺境の住人のように、明るい太陽に向かって両手を広げることはもうないかもしれない。
重々しく息苦しい沈黙の中で、どうすることもできない自分の無力さに私の心はつぶれそうだった。
つづく -
shinnjiteru39 39.
予断の許さない容態は翌日の夕刻まで続き、それまで家族は待機するよう望まれた。
早朝に駆けつけた優紀と桜子も、負傷の深刻さに絶句し、様々な思いが胸に去来するのを押しとどめているようだった。
誰一人、今後のことを口にするものはなく、ただひたすら西門さんが無事に山場を乗り越えてくれる事だけを
合言葉のように言い合い、その連帯感に救われる。
お母様は急遽用意させた別室で休まれ、周くんは遠慮する私にずっと付き合って、共に病院の施設を一緒に転々と過ごしてくれた。
昼頃には、家元が着物姿のまま病院のロビーに現れ、人々の注目が集まる中、私はまるでしょっ引かれて
突き出されたネズミ小僧みたいになる。
日頃のお稽古はもちろん、西門家には着物をいただいたり、何かとよくしていただいているのに、恩を仇で返すとはこのことで、大切な次期家元の行く末に決定的な悪運を運んだかもしれない私は、その場でどんな表(おもて)をあげられるだろう。
さすがに、そんな図太い神経は持ち合わせていない。
小さくなって、おずおずと歩み出た。
ろくに挨拶も出来ず、常識も持ち合わせてない娘と思われたかもしれない。
それでも、聞こえてきた声は青竹のように真っ直ぐで穏やかなものだった。
「牧野さん、貴方が倒れては困る。少し、休みなさい。」
頭上から聞こえた言葉は虚を衝いて、私の身体をすり抜け天井へ吸い込まれていった。ドクターから、山を乗り越えたようだと告げられた時は、肩から力が抜け、ようやく肺に酸素が送られた気がした。
それでも症状は相変わらず。
意識も回復していないのが現実で、喜ぶには程遠いと思うと、とたんに気道を塞がれた気がする。
「牧野さん、僕が送っていくから一度帰宅しましょう。」
「でも・・・。」
「親父だってああ言ってるんだし、総兄の意識が戻った時、牧野さんがゲッソリしてたら、また目を閉じちゃうかもですよ。クスッ。」
「・・・ふっ。」
病院の外はすっかり暗くなっていた。
丸一日を無機質な病院内で過ごしたせいか、外気は素晴らしく春の生命力にあふれて、葉っぱの匂いがそこら中漂っているのに驚く。
周くんの日産フェアレディーZが滑るようにロータリーに入ってくると、すぐに乗り込んだ。
心身共に相当疲れきっていた私は、車の振動にひとたまりも無く落ちてしまい、気付いた時は、周くんにお姫様抱っこされて、アパートのドアの前にいた。
「あっ、起こしちゃった?牧野さん、あんまり疲れてたみたいだから、このまま運ぼうと思ったんだけど。
鍵はすぐ見つかったんだ。でも、なんかこれ、上手く回んなくて・・・手こずってて・・・。」
首を竦めて話す周くんは、どうやら、私を抱えたまま右手で器用にドアを開けようとしているらしい。
「ごめん、周くん。私がやるから、下ろしてくれる?
ここさ、オンボロだから鍵を回すコツがあるんだ・・・。」
「結局、起こしちゃったね、ごめん。
総兄と約束しちゃったからなぁ~。病院で寝込んでる隙に、牧野さん連れ込むのフェアじゃないでしょう?」
「 ? 」
「じゃなかったら、僕ん家で良かったのに・・・ッフ。」
足が地面につくと、周くんは一歩下がって表情を緩ませた。
「約束って?」
「総兄から何も聞いてない?」
ボウッと見つめる私に、軽く微笑んだ周くん。
「・・・・なら、大したことじゃないから忘れて。」ガチャ
たった一日留守にしただけなのに、随分久しぶりに見える我が家。
ドアが開くと、椅子が斜めに引かれたままで、瞬時に西門さんの残像が浮かんだ。
あそこで後ろから抱きしめられ、苦しくなるような切ない溜息を耳にした。
耳元に感じた西門さんの吐息の温度とあの香りまで蘇ってくる。
あんなに熱く感情が伝わってきたのは初めてで、ものすごく戸惑ったけれど、ちっとも嫌じゃなくて、どこか心が温かくなった。
そう、多分、あの時私は受け入れようとしたんだ・・・。
西門さんを抱きしめてあげたいって思った。
あの温もりをちゃんと受け止めたいって思ったんだ。
巻き戻しするように浮かぶ映像にまるで今の自分がはまっているようだ。
「ど・どうしたの?牧野さんの家だよ。」
突っ立ったままの私に声をかける周くんに振り向いて言った。
「私、やっぱり西門さんの側にいたい。病院に戻るよ。」
「・・・えっ?戻るって・・・。」
「うん。 私、この部屋にじっとしてるなんて、やっぱり無理。
こうしてる間も、西門さんは苦しんでるかもしれないし、もしかしたら、西門さんの意識が戻るかもしれない。
だって、昨日の今日だよ、どうなるかわかんないじゃん。
ここで、朝まで待ってるなんて出来ないよ。
どのみち、眠れないよ。
だから、私・・・・、」
「牧野さん、今大事なのは牧野さんが休むこと!
もし、何かあればすぐに連絡が入ることになっているし、山は越えたんだから、これからの長丁場に備えるべきだよ。」
玄関先で大声でしゃべっていたので、隣の家のドアが開いて、迷惑そうな顔がのぞいた。
周くんは私の手首を掴むと、玄関の中に押し込み後手で扉を閉めた。
もっともなことを言われて返す言葉も無い。
わかっているけど、この部屋に入っていつものように過ごすなんて無理!
あまりにも西門さんの残像が生々しく思い出されて、地に足がつかないよ。
「なんだか、興奮してるみたいだけど、一人で大丈夫?」
心配そうに覗き込んでくる周くんを見上げ、救いを求めるようにその優しげな瞳を強く見つめ続けた。
出来れば一人にして欲しくない。
周くんにとっても私にとっても、とても大切な人の危機を前に、思いは一つのはずだと思った。
未曾有の出来事を前にすると、人は垣根を越えて手を結び団結するのが自然の流れかもしれない。
「よかったら、一緒に居てくれない?」
「ここに?」
コクリと頷いた。
そして、その晩、私たちは息がかかるほど寄り添って朝まで一緒に眠った。結局、次の日も意識が戻ることはなかった。
けれども、バイタルサインは安定した数値を示し、命の危険を脱したことが大きな安心材料になる。
そして、事故から4日目の朝、待ちに待った意識が戻ったとの連絡を受ける。
家族のみ許された面会。
ややあって、周くんが暗い顔をして廊下に現れた。
現状説明をドクターから受けた直後のこと。
現在までの経過と詳しい傷名。
今後の手術予定と後遺症について。
誠意を持って告げられるほど、残酷に感じただろう。
ドクターから告げられたのは、もしかしてと予期していたことであったけれども、皆が抱いていた一抹の望みを粉々に砕き、奈落の底へ突き落とすのに十分な宣告だった。
『自力歩行は困難、一生車椅子生活になるだろう・・・。』
それが意味することは、ただ不自由になるだけではない。
当然、今までのような生活が出来なくなる。
幼少より染み込んだ茶道の世界から遠のくことを意味する。
第十六代西門流家元の道が閉ざされた挙句、バイクにも乗れない。
西門さんは最も愛するものから、否応無く引き離されてしまうのだ。
私の心はカッターで深く切り込まれたように激しく真っ赤な飛沫を上げ、とたんにしぼんでペシャンコになった。
つづく -
shinnjiteru40 40.
真新しいランドセルと制服に身を包んだ小学一年生らしい子供達が、それぞれの母親が作る輪の横で崩れた輪を作ってブラブラしている。
小さい頃からこうしてプラットホームで待ち合わせして、大人たちと一緒に電車に揺られ通っていると、早く大人びてしまうのではないかという考えがよぎる。
きっと入学式には、桜の下で輝く未来を見つめながら、たくさんの記念写真を撮ったことだろう。
この子たちの行く末が、健康で何事も無く続いていくのを祈るような気持ちで微笑みかけた。西門さんが掲載されている5月号は、皮肉にも飛ぶように売れた。
ニュースで流された西門さんの事故の映像に、誰もが興味を抱き、改めて西門さんの生い立ちから、
『F4サラブレッドの悲劇』と題され放送されたからだ。
クールで妖しくて美しい西門さんの映像。
例え、事故に遭ったとしても変わることの無い魅力にあふれている。
その素顔を知らず、熱い情熱を感じたことも無いくせに、西門さんのことをよく知ったような口ぶりのキャスターが私には許せなかった。
決して悪く言ってる訳ではないけれど、西門さんの名前を耳にするだけで、敏感に反応して頭が真っ白になってしまう。
西門さんがどれほど茶道を愛していたか、どれほど懸命に努力していたか、どれほど家元にふさわしい器を持っているか知らないくせに、気安く伝えないで欲しい。
重い足取りでまた一日の仕事を始め、仕事が終われば、その足で病院へ行く。
私の到着を心待ちにしてくれる人は居ないけれど、希望を捨ててはいけない。
今日の西門さんはもう少ししゃべってくれるだろうか・・・。
神様に私が許される日は来るのだろうか・・・。ちょうど昼休みの時間がきて、席を立とうとした時、携帯が鳴った。
発信先は、花沢物産ドバイ支店統括責任者でもある花沢類。
どこからかけているのだろう?
「もしもし、類?」
「牧野?・・・良かった。」
「何が良かった?・・・。」
「だって、あきらがさ、牧野が死んでるって言うから、クスッ。」
「ブッ、何それ。私は、いつもと変わらず元気だよ。それより、類は今どこにいるの?」
「ここのところパリに居るんだ。ドバイと行ったり来たりだよ。
それで、その後、総二郎とは話せてるの?」
「うん・・・変わんない感じ。
病室入って軽く挨拶交わしたら、後はあいかわらず、外を眺めてボーっと何かを考えてるような感じで、すぐに目を閉じてしまうの。
起きてるのか眠ってるのかわからないし、声もかけにくくて。」
「でも、ちゃんと毎日行ってるんだ・・・?」
「当たり前でしょ、・・・・・だって、責任あるもん。」
「牧野のことだからそう言うと思った。
けど、事故は牧野のせいじゃない。加害者は居眠り運転の奴であって、誰一人牧野を責めてないよ。
それは、総二郎だって同じ。
そんな風に牧野が思ってると、総二郎が余計につらくなる。
いい加減、わかったら?」
「うん、わかってるよ・・・。西門さんもそう言ってくれたし。」そうだ。
たしかに、西門さんからも牧野のせいじゃないから気にするなって言われた。
意識が戻った後もうつらうつらした状態で、一般見舞い客の面会謝絶が長く続き、集中治療室から出て一般病棟のVIP個室へ移ってから、ようやく西門さんと対面できたのは事故から12日目のこと。
何からしゃべっていいのか緊張した面持ちでドアを開けると、横になったままの西門さんとすぐに目が合った。
久しぶりに見た西門さんはまるで仕事の骨休みをしているかのように、その顔は何も変わらず妙な違和感を浮かばせ、私を見つめ続ける。
不撓不屈の信念からくるのだろうか、何故にそう平気な顔していられるのか推測さえ出来ず、私には単純にも、また西門さんとそうして会えることの喜びが何より勝っていた。
スッキリと目覚めた後のように肌は血色を取り戻し、再びあの涼しげな瞳で見つめてもらえて、嬉しくて瞬く間に
涙腺が決壊し、グジュグジュの笑顔を向けたと思う。
「西門さん!」
ほんの少し口角が上がり、懐かしい声が届く。
「元気か?」
「・・・んもう・・・ウン・・ッグズッ・・全然、元気じゃないよ・・・ヒック。」
涙がポロポロと頬を伝い、西門さんの顔がよく見えなくて困った。
「総兄、牧野さんはずっと今日の日を待ち焦がれてたんだよ。
ひどく泣かせちゃったね。」
側にいた周くんがそう言うと、西門さんは再び口角を少し上げて、小さく微笑んだ。
西門さんは、全てをドクターから聞かされているはず。
それをどんな風に受け止めているのか、まったく想像もつかない。
「西門さん、謝って済むことじゃないってわかってる。・・・グズッ・・・。
本当にごめんなさいっ・・。」
深々と頭を下げた。
返事が無いので見上げると、困ったような表情を見せる西門さんのために、頑張って言葉を続けた。
「私が・・・ヒックッ・・、私が電話で呼んじゃったから・・ウッ・・。
すごく、疲れてたのに・・ッフッ・・あんな時間に無理言ったから、・・こんなことになって。
ゴメンなさい・・・ウウウウッ・・・。」
私は顔を上げられず、立っているのもやっとな程、みっともなく泣き崩れてしまい、今から考えると本当に一番泣きたい人の涙を奪ってしまったのかもしれない。
「牧野、お前がそんなに泣いても、元に戻るもんでもない。お前の顔、変に不細工になってるぞ。」
「・・・ウウウウウッ・・、西門さん・・っ。」
「こうなったのは、牧野のせいじゃない。二度と自分を責めるな。」
そう言って、目を細める西門さんは、すぐ側にいるのに少し遠くに感じた。「それで、総二郎はいつ頃退院できるの?」
「まだまだ入院しなきゃダメらしい。何回も骨の形成手術を受けるんだって。」
「今日もめげずに、会いに行くんでしょ? ククッ、司の時といい、雑草魂がないとやってらんないね。」
「西門さんは、道明寺みたいにひどい言葉を投げてこないし、何の害もないよ。」
「ふ~ん、けど、そこが牧野にとってはつらいところなんでしょ?」
「・・・西門さんが何考えてるのか、全くわかんないよ。」若く体力のある西門さんは、一ヶ月が過ぎると車椅子に乗りたがった。
といっても、すぐに手術の予定が入り暫くリハビリはお休みの繰り返しで、焦りは禁物のようだ。
手厚い完全看護の病室では、何不自由なく見えるけれど、このまま人生を終える老齢ではない。
動けるように願って止まず、じっとしてられないのは至極当然のこと。
けれど、西門さんは決して弱音を吐くことはなく、例え練習中でも私が行くと途中で止めてしまい、つらそうな姿を見せようとしない。
私に向かって、何も吐き出してくれない。
受け止めるものも与えられず、何もしてあげられない手持ち無沙汰。
何をどうやって伝えればいいのか、わからないもどかしさにイラついた。
会えば会うほど、日に日に西門さんとの距離がどんどん開いて、跨ぐこともできない大きな溝ができていくのが怖くて、何度もロビーで時間をやり過ごした。
周くんは、西門さんの代行で春の茶会やセミナー講師に出かける商用が増え、たまに病院で顔をあわせる程度。
主な私の話し相手は看護婦さんで、西門さんが介助なしに一人で屋上に行った事や、売店まで行けるようになった事など、全て立ち話から聞いた。その日は、九州が梅雨入りと報道され、関東にも朝から冷たい春雨が降っていた。
仕事が休みで、朝から病院に赴き、そっと扉をノックする。
ガタンと大きな物音が聞こえたので勢いよく扉をあけると、こちらに背を向け立ちながら、ベットに両手を付いてわずかに身体を震わせている西門さんだった。
すぐ側にはあらぬ方向を向いた車椅子。
そして、床の上をこちらに向かって伸びているのは松葉杖だ。
「 ・・・・!」
振り返ることもしない西門さんは、うつむきながら涙を流しているようだ。
バイクで風を切って走ったその背中は、とても温かく頼もしいのを私は良く知っている。
ただ、今は革ジャンじゃなくて、薄い病院着に代わっているだけ。
大丈夫・・・、大丈夫・・・。
考えるより先に私は、西門さんの背中に後ろから抱きついた。
西門さんの胸に両腕を回し、薄い綿越しに温かさが伝わるよう、凍えてしまわないようにしっかり掻き抱いた。
「一緒に、一緒に頑張ろう。ねっ?私がずっと側にいるから、だから、一緒に頑張ろう?」
「 ・・・っ、 ・・きの?」
「西門さん・・・。」
ややあって、静かな声が届いた。
「離してくれないか。」
「ご、ごめんなさいっ・・・。痛かった?」
視線はベットに向けたまま、続いて低い声が聞こえた。
「牧野、俺はもうダメだ。頼むから、もう俺に構うな。」
予想もしなかった衝撃的な言葉が西門さんの口から発せられ、立ちくらみしそうになる。
外柔内剛(がいじゅうないごう)な西門さんは、時に軟派な言葉を吐き、つかみどころの無いふざけた印象を持つ。
けれど、その割にどこか筋が通っているから安定して見える不思議な人。
だから、ふざけた言葉は西門さんの十八番だったけれど、こんな弱気な西門さんはF3さえ知らないのではないだろうか。
考えると同時に、電光石火のごとく湧き上がる願いが口から飛び出し、ぶちまけた。
「何言ってるのよ!二人で一緒に幸せを探そう!?西門さんの側にずっといる!」
西門さんは、ゆっくりと向きを変えベッドに腰掛けると、こちらに鋭い視線を向けて言った。
「まさか、お前、俺が前に付き合ってくれって言ったこと本気にしてた?
やっぱり、お前は呆れるくらいチョロイよな。」
「・・・っ?嘘だよ、そんなの。」
「俺が抱きたいのは、胸のでかい色っぽい女だけなんだよ。
お前は、仲良しのダチの一人。
それ以上でもそれ以下でもない。」
「 ・・・・。 」
「毎日、見舞ってくれるのは有難いけど、そんなことしてもらって治るような易しい傷でもないだろ。
だから、牧野、ここへはもう無理して来るな。仕事だってあるだろ?」
西門さんの瞳はこちらを見据えているけれど、逆光なので奥まで見届けられない。
窓の外は、白にグレイを少し足したような雲が忍耐強く遠くのマンションを取り囲んでるように見える。
「た・たとえ・・・、例えダチの一人だと思われていても、西門さんの側で役に立ちたいの。」
「ふっ・・・、牧野の気持ちは有難くて涙が出そうだわ。
けど、牧野、良く聞いてくれ。
俺は、家元の座を周に譲るつもりだ。
こんな事になって弟子や門下生に不穏なムードを与えるのは良くないし、とっとと立場を示すべきだと
思ってる。
親父には近いうちに話す。
牧野さえよければ、周の力になってやってくれないか?」
「そりゃあ、出来ることは何でもするよ。
周くんのお手伝いも、勿論のことだよ。」
「いや、もっと、近くにいて支えてやって欲しい。
あいつは、まだ学生で半人前だから。」
「どういう意味?」
「気付いてるだろ?周が牧野に好意をもってること。」
西門さんは、声色を変えることもなく、まるで決められたことを話すように落ち着いていた。
つづく -
shinnjiteru41 41.
俺は薄暗いでっかい洞窟のようなところを、一人でずっと歩いていた気がする。
遠くに凹凸の輪郭が見えるのに、やけに広くて方向感覚も距離感も全くといっていいほどつかめない場所だった。
歩きながらずっと思っていたのは、恐怖なんかじゃなく、どうして俺がこんな場所にいるのか、どうして一人きりなのか、早く行かなければ・・・という焦り。
歩いても歩いても、ゴールが見えず、無性にだるくて気が重く、どこかで休みたいのに休んではならない使命感に背中を押され続けた。
その使命感みたいなやつは、胸ん中に割り込んで居場所を作りやがった。
夜になると、抜け殻に再びもぐりこみ俺を煽り続けるやつだ。
そして、次に感じたのは白くて湿った感覚。
俺に何が起こってる?
周りには機械と白いカーテン、それに白い服着た人の気配。
縛り付けられ、動けない自分の身体。ここは、病院か?
明らかに予定外の事が起きているのを察知した。
目を閉じ、冷静な自分を取り戻そうと心を一つに集中する。
見えてきたのは、トラックの側面が轟音と共に間近にせまって体当たりしてきた光景だ。
左側の歩道にはガードレールが・・・、逃げ切れなかった。
そして、救急車に乗せられて・・・。
確か、牧野がいた。
牧野が血相抱えて、大きな目に涙を浮かべ、覗き込んでいたな。
あいつがこんな血見泥を見れば、司の刺殺事件のように悲しむに決まっているし、ろくな事ないだろうと思った。
見せたくなかったのに、そんな思いはさせたくなかったのに、俺はどうした・・・?
牧野は、どうしてるのだろう?
集中しても、始めから無かったように、そこから後のことは思い出せない。
やけに身体が重く、左脚に焼け付くような痛みを感じて、そして、俺は再びあの疲れるほどに大きな洞窟に戻っていった。もう日にちの概念さえ考えられないほど、覚醒と昏睡を繰り返し、だんだん覚醒の時間が増えていくにつれ、文字通り生存している感覚を掴むと同時に、大きな不安に襲われ始めた。
医者がやって来て、ビクともしない俺の左脚を触りまくり、決まって経過順調だと口にして去っていくが、ちっとも動かねえじゃないか。
もしかして、このまま動かねえのか?
怪我なら、いい加減治るもんだろう、普通は。
思い出したようにやって来る激痛は、鎮痛剤投与ですぐに消え去る。
激痛にも耐えてやるから、一刻も早く治る兆候を見せてくれ。
少しでもいい、動いてくれ。
いい加減、膨らんできた不安をいなすにも限界が来ていた。
立ち去ろうとする担当医を捕まえ、この脚がこの先どうなるのか、きちんとした説明を求めると、幾度も検査を受けた後、ようやく聞かせてくれた。
担当医だという男性医師は、しっかり俺の目を見つめながら言う。
『左肺の方は、順調に回復していますし、後遺症もまずないでしょう。
脚の方ですが、あれだけの事故で壊滅的な神経切断を免れたのは奇跡的で、珍しい事例ですよ。
良かったですね。
今後のことは、事故で潰れた膝蓋骨の形成としてワイヤーを入れていきます。
今の技術はすごいんですよ。
それって網の目みたいになってましてね、柔軟性も十分、とてもよく出来ているんですよ。
う~む、ちゃんと歩けるかどうかは・・・、症状からすると・・少し難しいかもしれません。
でも、あきらめないでリハビリを続けてみてください。
交通事故後遺症はケース・バイ・ケースでそれぞれ違います。でも、絶対に効果は出てきますから。
最近の車椅子は機能が良いし、まあ、僕は専門家じゃないのですが、慣れればどこでも出かけて行けるようですよ。
前途有望な西門さんには、是非とも頑張っていただきたい。』
上手いことを言う。
そんな説明聞いて、すぐに前向きになれるほど単純な患者もいないだろうが。
本当のところは、前途失望でお気の毒に・・・だろ?
そんな輝く未来がどこにある?
全く喰えない奴だ。
医者だって全知全能ではないのは承知しているが、いつだって患者が知りたいのは、そんな慰めではなく、その先の事だろう?
俺はもう一度、歩けるようになるのか?
座禅ができるのか?
脚を組めるのか?
茶室で満足のいく茶が点てられるか?
目の前の担当者に意地悪くぶつけてみたい心境にもなるが、口にしても先ほど以上のベスト・アンサーが期待できると思えない。
仮に、経験に培われた温情が無かったとしよう。
今の俺には、突然起こった不具合を冷静に受け止める覚悟も度量も無いのだから、あっさり期待が真っ二つに切り裂かれ、どん底に陥れられるだけだ。
例え、医者につかみかかるほど言葉攻めしても、後に残るであろう虚しさは想像するだけで、残されたプライドが頭をもたげる。
喉元を鳴らし、視線を飛ばした。
こんな時でも、ポーカーフェイスが出来る俺って、やばくねえか?
どんだけ、プライドが高いんだよ、クソっ!!
はっきり冷たく宣告されるのが怖くて、逃げたいだけだろうが。毎晩、夜が来て消灯時間になるのが怖かった。
薄暗い洞窟に逆戻りして、一人置き去りにされる時間が始まる。
目的も知らず、非情な暗闇に向かって重い身体を引きずりながら歩かなくてはならない。
身体が重くて、息苦しくて、そのまま酸欠で倒れ込んでもおかしくない感覚に襲われる。
その度、自分は客観的に離れた所から眺めていることに気付くのだ。
苦しみを分かち合う分身でありながら、決して苦しみを伴わない位置に飛べる違和感はずっとあった。
誰に急かされてるのかもわからず、何のために歩いてるのかもわからず、当然のように歩き続ける俺の姿に向かって、理由を問いたくなるが声が出せなかった。
俺たちは叫ぶ術さえ持たず、難行苦行に望む僧のように、世俗から離れていく。
その行き先は、地獄か天国かわからない。
選択肢は与えられず、いつ終るか分からない苦行をずっと続けなくてはならないプログラムを仕込まれてるようだ。
それが、運命というプログラムなのか?ある日、突然、湯の滾(たぎ)る音が耳に届き始めた。
嗚呼、なんと懐かしく心安らぐ音。
こんなに清らかな響きがこの世にあったとは、改めて俺の道は正しかったと確信する。
これほど豊かな音が他にあれば教えて欲しいと思った。
いつの間にか場所さえ変わり、見慣れた茶室にいた。
畳の香りを大きく吸い込むと、心が落ち着く。
ようやくひどい悪夢から覚め、現世に戻れる至福の喜びを感じて、頭からも肩からもスーッと緊張が抜け、
一気に体が軽くなり舞い上がりそうだ。
時間をかけて、忘れられない旨い茶を点てよう。
飯を食うのと同じくらい当たり前にしていた事なのに、こうなってみれば感謝の念でいっぱいだ。
茶を点てられる喜びをひしひし感じ、天に向かい全てに感謝したい気持ちだった。
事故にあったお陰で、大事なことを知ることもあるのだ。
懐紙の端から水滴がゆっくり浸透していくように、湯の滾る音も同じように耳に浸透していくのを知った。白い足袋が畳に擦れる音が聞こえる。
感覚細胞の長い繊毛が、躍りながらなめらかな快感を運ぶ。
悦に浸りながら、耳をすました。
足を踏み出すことがなんと嬉々とすることか、サヤサヤした音は畳べりを避けながら、囁くように軽快な音を奏で続けた。
これからも、ずっと続くかに思われた。
しかし、突如、音はピタリと止み、再び何も見えない薄暗闇の中に舞い戻る。
そして、目の前に姿を現したのは大きな黒い闇の穴だ。
一寸先は闇とは正にこの事を言うのだろう、恐ろしいほど大きな闇がポッカリ口を開け、つま先のほんの先から広がっていた。
もう一歩進んでいたら、まんまと真っ逆さまに落ちていたはずで、恐怖が身体の中心を駆け抜けた。
恐る恐る、底知れない暗闇の中を覗き込むと、突然、何かに両足首をつかまれ思わず悲鳴を上げた。
深淵の内側から伸び出している2本の透明な手が、まるでこそばすようなふざけた力で俺の足首を掴み揺さぶっている。
『なんだ?こいつら』乾いた風が笑うような音をたて、その不気味な手は俺の足を弱々しくも揺さぶり続ける。
払いのけようと、必死でもがき暴れ脚を掻くが、不思議と弱々しい力から逃れることが出来ない。
俺の左脚は抗うこともできない役立たずの棒で、それを見て愕然とした。
マジで何の役にも立たないのか?
残された右脚だけで踏ん張るが、左脚が闇側の手先となって俺を引きづっていくのだ。
着実にジリジリと深淵に引き寄せられていく。
闇雲に手を伸ばしても、寄る辺のない闇の中。
ジリジリ近づく、黒より深い闇色の大きな穴。
喉を鳴らし、今にも飲み込もうとさらに大きく開けたように見える口。
深淵がまた少し近づいて、俺は地面に手を付き体重を加え、必死で右脚を掻く。
焦るあまりどっと汗が噴出し、手が滑って苛立った。
『頼むから、離してくれ。』
『離せ!!離せって言ってんだろうが!!!』
無我夢中で大声を張り上げ叫んでいた。
渾身の力を振り絞り、息を吸う隙も無いほど、残された三肢で必死に抗った。
何としてでも、耐え抜いて逃げ切らなければ、全てを失う気がした。
深淵に一度引きづり込まれたら、もう終わりだ。
魂さえ浮かび上がれない深みに、永遠に閉じ込められる恐怖が襲い掛かる。
息が苦しい。
上手く呼吸が出来なくてパニックになりながら、なぜか俺の頬にタラリと悲しみの涙が伝って落ちていった。
鼓動は、ますます激しいスピードでドンドン鳴り続け、目の前の視界がかすみ始め、もはや意識が薄れていきそうだ。
ズズっと大きく引きづられ、左足のつま先が崖っぷちで空に浮いた。
『クソッ!ここで俺は力尽きるのか?』唐突に、ふっと全ての動きが停止した。
まさか、アルコール消毒液の中に俺は浸かって居るのか?
病院の匂いがする。
瞼を開けると、薄暗い病室だった。
全身、汗でびっしょりで、くたくたに疲れ果てていた。
肩に相当力がはいっていたのだろう、引きつるような鈍痛がして、肩に意識を向けるとひどい悪夢が生々しく蘇ってくる。
強い吐き気に襲われて、重い腕で呼び出しブザーを押すと、その電子音に目が覚める。
エレクトリックな音は、俺を夢から引き剥がしてくれた。
ふぅーっと大きな溜息が出て、ようやく肩から力が抜けた。
つづく -
shinnjiteru42 42.
だだっ広いライトブルーの画板に白い和紙を好き勝手に千切って貼り付けたような空模様。
明け方までの怒ったような灰色雲と雷雨が、まるで嘘みたいだ。
アスファルトからメラメラ陽炎が立ち昇り、急にやってきた真夏のような照り返しに、思わずサングラスが恋しくなったが、今日は和装のため家に置いてきた。
何もかもが上手く行かない気がして、思わず舌打ちした。
こうして着物を着て涼しげにしていられるのも、ひんやりと空調を効かせた場所でこそ、ひとたび外を歩けばすぐにタラタラと汗が首筋に流れてしまう。
こんな蒸し暑い中、公的行事に参加するのは気が進まない上、和装着用なのは僕にとって未だに苦痛であり、いつになったら涼しい顔して居られるのか見当もつかない。
今日の役目は、兄貴の代理任務で西門流青年部ブロック大会に出席し、西門の冠名で会場を締めること。
先刻、滞りなく終了し、幹部たちに見送られ、リモに乗り込み一息ついたところだ。
いつもは、茶に向かう直前、気持ちの切り替えのためにするのだが、今日は先ほどの好奇心と心配が入り混じった視線の残像を拭いたくて、早速、目を瞑った。
冷たいシートの背もたれにすっかり身体をあずけ、大きく深呼吸して、心が空っぽになるまで、意識を我が身にだけへ持っていく。
いわゆる瞑想なのだが、忙しく研究室で働いた直後や、有機化学の反応式が頭にいっぱいの時には、茶室に入る前に欠かせない作業なのだ。『総二郎様はもうダメなのでしょう?』
『家元は、次期家元をどなたにとお考えで?』
『噂通り、周三朗様でしょうか?』
実際、彼らが口にしたかったのは、こんな類のものだっただろうか・・・?
総兄の事故については、ニュースでも大きく報道され、あちこちで話題となったので、会場内で噂されるのも無理もない。
直接、詮索こそして来ないものの、門下生の中には、明らかに僕への態度を変えた者もいて、内輪だからこそ何かを聞き出したい、もしくは伝えた気な濃い視線に晒され続けた。
僕はまだ学生であり、西門家ではマスコット的存在の三男であることに変わりなく、総兄の容態について言及は差し控えるよう指示されている。
発言を求められても何と返答すればよいだろう。
何も聞かされていない代理人に過ぎないと正直に答えるべきか。
噂と呼ぶには濃すぎる視線に遠巻きにぐるりと囲まれて、それが更に僕をクタリと疲れさせた。
この約二ヶ月間、教授クラスと手分けして、学業と平行しながら総兄の穴埋めを遣り繰りしてきたけれども、通常稽古の他、研修会やセミナー講師、道具の見立て等、仕事は多岐に渡り、ここへ来て息切れしそうだ。
西門の名を背負っている以上、肩書きが必要な今日のような大会にはどうしても出向かなければならず、大学の研究の方も全く手を抜けないと言うのに、身体がいくつあっても足りないと愚痴りたい。車中で一息ついて、携帯メールチェックすると、着信ランプが点滅していた。
プチッ
“ 白川教授の物化特論②のレポート期限は、今月末との事。 ”
発信元は、大学院で同じ専攻科の友人。
教授から伝言を頼まれたらしく、こうして連絡事項を教えてくれる。
白川教授と西門は縁があり、寛大な配慮をいただいているものの、やはり、抜けた講義はその分、自分にとってマイナスなので、そろそろ鬱憤が積もってきたとも言える。
改めて、今まで自分がどれだけ自由にさせてもらっていたか、そして、兄貴の存在のデカさを痛感し、また、茶道関連の雑多な仕事がやたら多い事に辟易してきた。
総兄の復帰を一日も早くなんとかお願いしたい。
切実に心から懇願したい。リモは病院のロータリーを進みエントランス前で停止する。
「多分、小一時間で戻れると思いますから。」
そう運転手に告げ、エントランスへと向かった。
総合病院のエントランスをぬけると、人のまばらなロビーに座り込んでいる牧野さんが目に飛び込んでくる。
あの明るい笑顔が脳裏に浮かび、それだけで心が少し軽くなった気がして、近づいて行った。
「牧野さん、どうしたんですか?こんなところで休憩?」
「あっ、周くん!」
牧野さんは小さく微笑み、片手に持っていた缶ジュースを少し持ち上げる仕草をした。
「ちょうど、僕も出先から来たので喉が渇いてたところです。
横で一緒にいただいてもいいですか?」
返事も確認せず、自販機で適当なのを選び、牧野さんの横に腰掛けた。
「周くん、茶会だったの?着物で来るなんて、めずらしいよね。」
「青年部の集まりがあったので。・・・もちろん、総兄の代理でね。」
「そっかー、周くんも大変な中、頑張っているんだもんね。」
そう言うと、溜息をつき視線を床に落として、どんよりした横顔を見せた。
「どうしたんですか、いつもの元気はどこに行っちゃたんです?
今日は、らしくないッスね・・・。」
「・・うん・・・。」
訳を話すには、気が沈みすぎて気力が湧かないのか、口をつむったまま動きそうもない牧野さん。
だから、僕は僕のことを話すことにした。「いやぁ~、僕が出来ることは総兄の仕事のほんの一部なんですけど、実際やってみるとやっぱり大変です。
茶道の啓蒙活動くらいまでだったら、まだいいんですけどね。
精神的にきついんです。
なんというのか、総兄の代理となれば、一挙手一投足まで細かく観察されて、お点前は勿論ですけど、講話内容や礼儀作法や世間話までひっくるめて、西門流の教科書の勢いで眺められて、一分たりとも隙をみせられないプレッシャーですよ・・・。
疲れちゃって、ホント肩懲ります。」
牧野さんは、大きな目を開け興味深げに僕を見た。
「それ、西門さんが前に言ってた。
何が正しいのか答えを出さないといけない立場になるには大変だって。」
「そう言ってましたか。
それにね、茶とは無関係なドロドロした感情も意識しちゃって、僕、どうやって回避したらいいのか途方にくれちゃいます。」
「皆、色々、噂してるんだろうなぁ。
それも西門さんが言ってた通り・・・ハア~。」
「もしかして、総兄、今後の事で何か牧野さんに話したの?」
牧野さんは驚いたように真っ直ぐ見つめた後、大きな溜息とともに視線を反らしてボソッとつぶやいた。
「私さ、どうしていいかわかんないんだよ・・・。」
次の言葉を静かに待った。
「西門さんから、もうここには来るなって言われたの。」
「そんなっ!そんなこと総兄が本気で思ってるわけない。
きっと、病院の空気に塞ぎこんでるだけで、またすぐ元気な総兄に戻るって。」
「きっと・・・、多分だけどね、西門さんは事故の責任を感じてる私の顔なんか見たくないんだと思う。
西門さんの前であんまり笑えてないし、私、一人で不幸を背負ってますって顔しちゃってるのかもしれない。
類にも、注意されたんだけどな・・・ははっ、ダメだね私。
結局、西門さんにつらい思いをさせちゃうのなら、言われた通りした方がいいのかもって思ったり。」
「牧野さんは、責任感だけで見舞い続けてるの?」
「だけって・・・事はないけど、毎日、西門さんのこと考えちゃうし、気付いたら足を運んでる感じで・・・、よくわかんないよ。」
「よくわかんない・・っか。」
僕は次の言葉を飲み込んだ。
『もしかして、友達以上の気持ちを持ってる?』
喉元まで出掛かったけれど、返事を聞くのが怖かったし、なんせ今は休戦中だと思ってる。
牧野さんのことは、正々堂々と戦おうと二人で決めたのだから、ましてや総兄がどん底の時に抜け駆けしたなどと誤解されたくもない。
行動を起こせないなら聞かない方が無難だ。
「ああー、早く兄貴治んねえかなあー。」
「ップ、突然だね。」
「まあ、こっちもわけわかんないこといっぱいあってさ、本当のところアップアップだし・・・。」
僕が口をへの字に曲げて少しおどけると、少し笑ってくれたから、僕も嬉しくなって笑顔を向けた。
すると、さっきより大きく柔らかく笑ってくれた。
その笑顔が僕をあたためてくれる。
不思議だけれど、総兄の回復を心から願うもの同士、心を通わせ合い、痛みを慰めあえる気がして、
同じように牧野さんもそう思ってくれればいいのにと願う余り、手を取り抱きしめたい気持ちを押しとどめ、笑顔を向ける。
「じゃあ、病室に戻る?」
「え?今日は、まだ行ってないよ。色々考えこんじゃってた。」
「じゃあ、一緒に行こう。ほら、さっきの笑顔を総兄に見せてあげるといいよ。」
「そうだね。」
二人で肩を並べて廊下を歩いた。
「手に持ってる白い袋、なに?」
「ああ、これ?これは、美味しいと評判のシュガーレス・ガム。
最近、また煙草の量が増えてるみたいでさ。
だから、煙草の代わりに勧めようと思って買ってきたの。」
「そういえば、煙草買うのにtaspoカードが要るんじゃなかったっけ?
総兄どうやって、煙草を手に入れてんだろうね。
病院には、売ってないでしょう?」
「ほんとだ、確かに・・・。
きっと、例の口八丁で若い看護師さんに頼み込んでるんじゃないの?」
「クスッ、総兄は根っからの口説き上手と思われてんだ・・・ふ~ん。」
「あったり前じゃない、英徳時代を知る人は皆そう言うよ、絶対。
なんせ、歩く生殖器・・・っ////、いやっ、あの~」
「ククククッ、全くひどい言われようだったんですね。まあ、当たらずしも遠からずでしょうがね。はっはは。」
「そうだよ、しゃべっただけでも妊娠させられちゃうかと思ってたもんね。」
僕と目が合うと、柔らかく笑ってくれて、どうにかいつもの牧野さんらしく見える。
「ほら、開けるよ、笑って!」そして、病室のドアをノックし、そっと引き戸を開けると、無表情で僕たち二人をしっかり見つめる総兄と目が合った。
なんだか拒絶されたような悲しい後味のある眼差しだったから、僕は瞬時に誤解された事を悟った。
つづく -
shinnjiteru43 43.
ホテルの一室と見間違うような個室で一人、リクライニングベッドの背部を起こし、前テーブルに単行本を乗せ読書していた西門さん。
つい先日、ベッドに手をつき肩を震わせていた人にはとても見えなくて、まるで調べものの最中のように、知的で静かに私たちを迎え入れた。
「さっき、ロビーでばったり会ったんだ。」
病室へ入るなり周くんがそう言って、先にズンズン窓際へと進んだ。
「おぅっ、そっか。」
そっけない返事が病室に小さく響く。
事故前の西門さんならこんな時、どう言って声かけてくれていただろう。
今と同じなのだろうか?
昔と変わらないようで、何か違う西門さんの変化を言葉にするのは難しいけれど、少なくても私はやっぱり遠慮がちになってしまう。
西門さんが変わったんじゃなくて、もしかして、私一人が萎縮してしまってるせいなの?
自分のこともよくわからない。
今日来たことを、どうか歓迎してくれますようにと願いながら、ふいに西門さんと目が合って、いつもの挨拶を口にする。
「西門さん、今日の調子はどう?ちゃんと、ご飯食べた?」
「あぁ・・・」
聞こえるか聞こえないかの返事と小さな頷き。
それぞれ三人の言葉が病室内を行き交い、それでも少しも交錯せず尻窄(しりつぼ)みに終わって空に消えていく。
鈍感な私は、妙な違和感も全部自分のせいだと思いこんだ。「あのさ、西門さん!今日はこれ持って来たよ。」
「なんだ?飴かよ。」
「違うよ、ガムなんだけど、糖類0gでもおいしいらしいの。
煙草の代わりに口に放りこんでよ。」
西門さんはガムの成分表示を確認した後、おもむろにそれを脇机に置いた。
「ちょ・ちょっぉ・・わかってる?煙草が吸いたくなったら、そのガムを手に取るんだよ!」
「牧野、禁煙勧めるんなら先に喰ってからだろ、普通。
全く、説得力ゼロだな。」
ガムはここへ来るための言い訳みたいなものだったから、とりあえず一つしか手に取らなかった。
「じゃあ、今食べてみるよ!少しもらうね。」
早速、プラスチックの蓋を開封し、中からグリーンのタブレットを2つばかり取り出し口へ放り込む。
「ッチュク・・・、う・・ん、グリーンアップルの味だね。・・ッチュック、おいしい。
間違いなくおいしいです!」
少しムキになっていた方がずっと気持ちが楽で、そのまま強気の口調で本の真上に差し出した。
「はい!」
「ふふっ・・・。お前は・・・、やっぱ、そっちの方がいいわ。」
「えっ?」
西門さんは、本に視線を落とし、ブックマークをはさんだ後、黙って本を閉じた。
そして、顔を上げ私たちに向かって口を開いた。「色々心配かけたけど、来週、退院できるらしいから。」
はっ?うそっ!?退院?
突拍子もない嬉しいニュース。
自宅に帰れば、きっと元気に戻ってくれるよね。
期待がふくらんで、思わず息を大きく吸い込んだ。
「そうなの、総兄?
よかった・・・じゃあ、うちの方の手配は僕から頼んどく。
総兄は何にも心配しなくていいから、退院までリハビリ頑張ってよ。」
「ああ・・・、周、よろしく頼むわ。」
「そっちは任せて。」
「西門さん、良かったね・・・。」
「ここも飽きた頃だったしな。」
左の口角を少し上げて笑う西門さんを久しぶりに見て、なんだかジーンときた。
背が高いから見下ろすようにニヤリと笑う西門さんを思い出す。
黒い革ジャンが格好良く似合って、ポケットに手を突っ込んだまま、振り返ってニヤリとする西門さんも。
退院が待ち遠しい。
続いて周くんは、今日の青年部ブロック大会についての報告をし、西門さんも周くんに仕事の頼みなどの大事な用件を済ませた。
兄弟って、やっぱり頼りになるんだね。
「ご苦労だったな、周。疲れただろ?」
「うん、っまあ、色々勉強させてもらってるけど。
でもさ、やっぱり責任重過ぎて、僕にはちゃんと務まらないよ。
だから、総兄には早く良くなってもらわないとね。」
「 ・・・。」
西門さんの沈黙が、弱気な西門さんの後姿を呼び起こし、拒絶されたことまで思い出して鼻の奥がツンとした。
周くんの言葉にどうやって答えようか考えている?
こないだの話・・・あれは本気だった?
本気で、次期家元の座を退くつもり?
ダメだよ、西門さん!
西門さんから茶道を取ったらどうなるのよ。
そんなに早く結論を出すことない!
たった一人で答えを出すことないじゃん。
少しくらい混乱させてもいいじゃない。
西門さんにとって本当に納得できる答えが出るのを待てばいいじゃない。
お茶は西門さんの全てでしょう?!
あきらめちゃだめだよ!
これから頑張ってリハビリすれば・・・、きっと・・・。
早く何か言わなきゃって思うのに、焦るばかりで言葉が出てこない。
いつも言いくるめられてばかりの私が、一体、どんな方法で説得することができるのだろう。
あんな弱気な言葉が出るほど追い詰められてる西門さんを前に、どんどん気持ちが沈んで、丸めた布を喉の奥に押し込まれたような感じだ。
いい考えが浮かんでこないこの脳味噌が恨めしい。
こんな非力で道端に揺れる雑草にすぎない私は、西門さんにかなうはずないもん。「周、よく聞いて欲しい話がある。 座ってくれないか?」
きた!やっぱり。
木製の椅子をベットに近づけ座る周くん。
「牧野には、こないだ伝えたんだが・・・。」
周くんが、私を見上げて、本当なの?という目線を寄越し、少しドギマギした。
「俺がもう歩くことができないかもしれないのは医者から聞いてるだろ?
諦めてるわけじゃないが、とても元に戻るとは思えねえ。
どれだけリハビリしても、限界っつうもんがあるしな。
だから、お前に頼んでおきたいんだ。
次期家元として立つ準備をしておいてくれないか?」
「何言ってんの、総兄?無理だよ、そんなの。
第一、元に戻らないって決まったわけじゃないじゃん。」
ジロリと厳しい目線で周くんを見上げたあと、驚いたことに西門さんは頭を下げた。
「周、すまん。
結局、こんなことになって・・・。」
目先は周くんに向けたまま、真剣なまなざしだ。
「えっ?総兄・・・。」
「お前だって茶が好きだから、結局、ずっと離れられずに来たんだろ?
好きこそ物の上手なれだ、幸い、筋もいいし、今からその気で望めばきっと誰もが納得する家元になれるって。
お前を見込んで、頼んでいるんだからな。」
「総兄、ちょ、ちょっと待ってよ!
確かに茶道は簡単に捨てられるものでもないよ。
けど、僕は大学の研究所に残って、有機化学分野で人類に有用な未開物質を創り出す夢に向かって歩き始めたんだ。
途中で放り投げろって言うの?
第一、僕に家元の仕事なんて、・・・やっぱり、務まらないって。
最近、痛感してるんだ、僕には門下生達を束ねる器なんか無いよ。
机に向かっている方が向いてるかもって。」
西門さんは、首を少し傾けて少し悲しそうな顔をした。
「なあ、周、そういう立場になって初めて育っていくものもあるんだぞ。
周りがお前を作ってくれるさ、心配すんな。」
「無理だよ・・・僕は総兄みたいに強く気持ちを保てない。」
「何も、今から全部完璧にする必要もないんだから気を大きく持てよ。
そういえば、牧野が支えてくれるらしいぞ。
この先、うっとうしい噂や反対分子の存在に心痛するかもしれないが、牧野を連れまわせば心丈夫だぞ。
向かい風にも負けない雑草根性は、保証書つきだからな。」
そういって、私と周くんを交互に見た。
「総兄、どういうつもり?」
「牧野も承知してる話だ。・・・だよな、牧野?」
同時に二人揃って私に向かい合うように居ずまいを整え、返事を待っている。
「そりゃ、そう言ったけど・・・。」
『ズルイよ、西門さん・・・。』口から先にこぼれた返事。
西門さんは私に相談なく勝手に何もかも決めてしまう。
一人で苦しみ一人で解決しようと、毎日見舞ってる私にさえ気付かせないうち、いつの間にか答えを出していた。
たった一人、この病室で七転八倒してるのに、苦悩の後も感じさせずさらりと話す西門さんが全く信じられないよ。
偶然見かけたあの時も、すぐに私を拒絶して、受け入れようとしてくれなかった。
それがどんなに悲しくショックだったかわかってる?
私の気持ちはどうでもいいの?
「総兄、それとこれとは別でしょ。
継承問題に牧野さんを巻き込むのはおかしいよ。」
「ごもっとも。でも、お前一人じゃないって言いたかっただけだ。」
「でも、僕は自分のやりたい事がちゃんとできてないと、好きな人も幸せに出来ないと思うし。」
「そのやりたい事の一つが、茶道だったんだろ?」
穏やかに平然とした口調で言う西門さんは、音もなく周くんをコーナーに追い詰めている。
「・・・っ。」
周くんの眉間が微かに動いた。突然、詰まっていたものを突き上げるような衝動が湧き上がり、どうしても言わなきゃって思うと同時に、勝手に口から飛び出していた。
「周くん、男だったら腹括んないといけない時もあるんだよ!
地球が自転するような大きな流れに巻かれるってことは、諦めたり捨てなきゃいけないものだって出てくるもんなの!
人間、好きなことばっかりできないようになってるんだよ。
お喰い初めから抹茶碗を持ってきたんでしょうが、今生庵に入ってきたんでしょうが、そんな希少な人、この日本に何人くらいいるか想像してみなよ。
自分しか出来ない仕事を強く望まれてるのに、それから目を背けて生きていくつもり?」
西門さんは、少しビックリしたような目をして見つめていた。
「西門さんだって、なんでもかんでも一人で決めて、そんなに一人がいい?
私の気持ちを聞きもしないで、いくら師匠だからって、何でも思い通りに考えるのはどうかと思うよ。
見舞いに来てるときは唯の友達同士でしょう?
苦しいのなら、ぶつけてくれてもよかったのに。
“お前が電話して来なければ、こんなことにならなかったのに”って言ってくれた方が、どんなに気が楽だったか知れないよ。
二人とも勝手すぎるよ。
もう知らない!」
何を言う私の口・・・。
私の言ってることは、一体どっちの味方なのか分からない矛盾しまくった一方通行。
溜まっていたものを吐き出した爽快感とこの病室にばら撒いた私の勝手な言い分にいたたまれず、病室から逃げるように外へでた。
残された二人は、ポカンとして空気が固まっていたかもしれない・・・。
つづく -
shinnjiteru44 44.
後悔の溜息は、朝から何度吐き出したか知れず、自己嫌悪に落ち込んでいた。
どう考えても、私が二人に向かって吠えた言葉はその場の感情にまかせ過ぎた。
周くんに研究室をあきらめるべきと言う一方、西門さんには一人で勝手に家元をあきらめるなと言い、どちらも同時に成立しないわけで、結局、二人を煽ってしまっただけなのではないか。
あの場合、第三者の立場として冷静でいるべきなのに、後悔して欲しくないあまり後先も考えず吐き出した。
言われた側も、かき混ぜられて困惑したに決まってる。
だって、家元の席はたった一つでそれだけに、孤独な重責を背負うのを誰より知ってる二人だから・・・。
ふぅ~。
西門さんが退院してから1週間。
そんなこんなで顔を出しづらかったのだけれども、西門さんの様子が気になる方が勝った。
退院後初めて西門家へ訪ねた日は、「お休み中」ということですごすご引き返す。
数日後、出直しの二度目に、西門さんの部屋へ通された。
広い洋間は廊下より少し明るめのウッドフロアで、書斎机・オーディオ類・黒皮のソファーセットそして柔らかそうなクウィーンサイズのベッドには薄グレーのコットン・コンフォーターがかけられている。
その他はクローゼットに隠されているらしくシンプルな男性の部屋といった印象だ。
西門さんは窓際にいて、何やら分厚い本を読書中だったようだ。
梅雨明け後の猛暑から隔離され、冷房の行き届いた部屋はまるで別天地。
火照りを沈めてくれるひんやりとした空気とちょっぴり懐かしいバニラがかった西門さんの香りいっぱい、いそいそと鼻腔を通って肺に入り込んでくる。
真新しい車椅子の車輪は上等な銀細工のように光が当たりキラキラ輝いて、西門さんはその白い光に包まれて座っているように見えた。
ポカーンと口をあけて見つめていた自分を正し、努めて明るく声をかける。
「よう、元気!?」
「おう、牧野。・・・忙しそうだな。」
思いのほか、すぐに返ってきた返事。
見間違えたのかもしれないけど、私に向かって嬉しそうに微笑んでくれた気がして幸先すこぶる良し!
「久しぶりだね、西門さん、調子はどう?」
「良くも悪くも・・・。」
西門さんはパタンと分厚い本を閉じ膝に置くと、器用に両手を使って車椅子の向きを変えソファーの方へ向かった。
その動きは車椅子初心者とは思えないくらい躊躇なく滑らかで、白く発光する乗り物を見事に操る西門さんが格好良く見えたのが正直な印象だ。
突っ立ったまま見守っていた私は、西門さんの視線に引っ張られるように部屋の中に踏み出した。
「いつの間にそんなに腕を上げたの?長年車椅子に乗ってるベテランみたい。」
「マニュアルを読めば、感でなんとか動かせるもんだ。」
「・・・そんなことないでしょうよ、普通の人は慣れるまで相当の苦労するもんでしょ?」
「人間工学に基づいて設計されてる上、老若男女何百人ものモニターからデータを取って生産されてるんだぞ、俺が苦労するわけないだろうが・・・。」
「クスッ。」
今日の西門さんは機嫌がいいのか口が滑らかに動くようで、昔の調子がオーバーラップして、胸の中がサヤサヤざわめき始める。
「お前、乗ってみるか?」
「は?」
なんだろう?
西門さんからちょっかいを出してくるなんて、本当にどういう心境の変化よ?
やっぱり自分のお家に戻ると、気も晴れるものなのだろうか。
何はともあれ、再びこんな風に話せるなんて心が弾んでくるよ。
「ええ?初めてだけど動かせるかな?」
珍しくもない乗り物なれど、いざ運転してみるとなると、大層な乗り物に思えてしまう。
西門さんはフットレストをスウィングアウトすると、身軽にひょひょっとソファーへ身体を移動させ、こちらを見ながら首を少し傾けた。
「こっち来いよ。」
「う・うん・・・。」
いくつかのレバーが付属する黒いシートに恐る恐る腰を下ろし、アームレストに肘を置くと、なんだかモビルスーツに身を沈めた気分がしてテンションが上がったのはおまけの予想外のこと。
ジェットコースターに乗りこんで、怖いくせに期待いっぱい興奮した子供みたいだ。
「ねえ、ねえ、これ何?」
「引いてみぃ。」
言われた通りレバーの一つを手前に引き倒すと、肘掛け部分が後方に跳ね上がった。
「うわわっ、こんなに軽い力で動くの?」
「だから言ったろう、力のない奴にも使いやすい様に考えられてるって。」
「なるほどね~、真横に移動する時、肘置きが邪魔になっちゃうからかぁ。」
「左右どっちのウイングも動くぞ。」
私は感動にも似た好奇心でいっぱいになり、興味深くあちこちのレバーを触ってみたくなった。
近くで見ると一般的な銀色をした大きなホイル近くに並ぶレバーの一つを引いてみると、いきなり視界が揺れる。
「うわわっ!助けて~に・にしかどさん~」
そのレバーを引くと、なんと椅子ごと45度後ろへ倒れて、そのまま後ろへひっくり返る!と思ったところでピタリと止まり、ビックリして冷や汗が出た。
足もとは地上から50センチくらいの高さに上がり、目を開けると天井と向かい合うといった体勢である。
「クククッ、あいかわらず、お前笑えるよな。」
「ちょちょっと、笑わないでよ。何なのよこれっ??」
「それはティルト機能といって、同じ体勢でいると血液の流れが悪くなるだろ。
時々そうやって身体の重心を変えて、体重分散するのが目的なわけ。」
「へえ~、なるほどすごい!
す・すごいんだけどさ、これ戻す時はさっきのレバーを押し戻すのぉ?
ガタンって急に戻ったりしない?」
「ククッ、ビビる必要ないんだって。身体に優しい設計だから安心しろ。」
椅子は衝撃もなく元に戻り、ほっと一安心。
続いてホイルに手を置き前へ送ってみると、船が漕ぎ出すようにゆっくり前方へ動いていく。
あっという間に、窓際まで到達して西門さんに振り返った。
「楽しいね、これ。」
肘をついて見つめている西門さんは、私の言葉を受けいれた旨を両眉を上げて表した。
ところがターンは簡単にはいかず、西門さんからの細かい指導を受けようやくソファーに戻ることとなる。
「ふぅ~、ただ今到着。」
モビルスーツ体験を終えて興奮気味で立ち上がり、西門さんの側に立った。
「西門さん、ありがとう。
私、車の運転ってしたことないけど、こんな感じなのかな~?って思った。
誰もいないところだったら、何とかなる気がするんだけどやっぱり練習が必要だね、当たり前か・・・ヘヘッ。」
西門さんが一本脚で立ち上がり、空いた車椅子に移ろうとしたので、手を貸すつもりで車椅子を引き寄せた際、
自分のお尻が西門さんの右太腿にぶつかってしまい、西門さんのバランスを崩してしまった。
「キャ、ごめ・!」
『 アッ・・・!』
無意識に西門さんの右腕をつかんで引き寄せようとするも、西門さんの体重を片手で引き戻すことなどできるはずない。
もつれるように二人してソファーに倒れこんだ。
「イッテ~!」気付けば、西門さんの広い胸に頬を寄せ乗っかっている体勢で、私の胸はペタリと西門さんのお腹辺りに密着している。
すぐ目の前には西門さんの鎖骨があり、植物系のバニラがかった甘酸っぱい香りが鼻腔を掠めた。
見上げると、ビックリしている西門さんと至近距離で目が合って、ドキリとする。
西門さんは私の身体を守るために自分の両手で私の腰を支えてくれて、多分そのせいで、崩れ落ちた衝撃をダイレクトに背中に受けたはず。
それでも、私を気遣う眼差しを見せている。見つめ合ったまま、お互い引きつけられるかのように視線を交差させたままはずさない。
根競べでもなんでもないのに、はずした方が負けみたいに目を見開いて力強く。
咄嗟に掴んだ西門さんの右腕は生温かく、その皮膚の下には筋肉と真っ赤な血液が流れていて、この目の前の人を動かしているのを指先で感じた。
そんな当たり前のことに、心が震えそうだ。目を離せなくなったのは、事故の夜見せたあの熱い瞳が垣間見えたからだ。
あの夜ほど、私を求める激情が色濃くはないものの、驚きや気遣いの他、戸惑いや哀しみを複雑に伴いながらも、私にはくっきり見えた。
真摯に求めてくる熱い思いが、ハートに突き刺さったようにビンビン伝わってきたのだ。
だから、どうしても目を反らせられなかった。
見ようによっちゃあ目もあてられない格好の二人なのに、見つめ合ったまま動くことも出来ないでいた。
時間にすれば、ほんの10秒くらい。
霧の中からようやく抜け出せた恋人たちが手を取り合って存在を確かめ合うがごとく、濃厚で温もりのある時間だった。
現実に引き戻されたのは、西門さんの声が耳に届いたから。
「だ・だいじょうぶか?牧野?」
「え??・・ あ、平気。」
正気に戻るやいなや、この体勢が不安になって、さっさと立ち上がる。
「ごめん!西門さんこそ、足大丈夫だった?」
「牧野の顔、ピンク色。桃みたいで旨そっ。」
ソファーに寝転んだまま、平然という西門さん。
「は?/////」
左脚には打撃を食らっていなかったのが認められ、ほっと胸をなでおろしたものの、違うところで胸のドキドキは鳴り響いたままだった。
そんな私と違い、軽い口調とポーカーフェイスとは裏腹に、心中では感情の灯消しに躍起になる男の苦悩があったとは知らずに・・・。
つづく -
shinnjiteru45 45.
暦の上では立秋。
シャツは汗ばみ、「秋」なんて似合わないのに。
暑さが残るって表現じゃあ甘すぎる。
年間を通してみると、大きな行事や茶事の少ない季節だ。
アメリカ・シアトルにて非日本語圏在住の学生向けに、夏休みを利用したインターンシップ研修が行われる。
本来、青年部のトップ総兄が出向くところ、代わって僕が出席することになった。
僕は、まだ大学と茶道の板ばさみの中で大きく揺れていた。
まだ結論を出せないけれども、変化はある。
「男は腹を括らないといけない時もあるんだよ!」とまるで天命の響きを伴った牧野さんの言葉が耳にこびりついて、時折、研究室でもボーッと考えるようになったから。
銅鑼(どら)が鳴ったその日から、あっさり僕の心を揺さぶり続ける牧野さん。
たった一回だったけれど、僕の大切な夢にまで影響を与えている。
やっぱり、F4が認めた女ってことなの?
真っ直ぐ強いまなざしを向けて風を起こすように、あんな風にぶつかってこられるとは意表をつかれた。
僕が家元になったらどうなる?・・・って前向きに何度もイメージを重ねて、
そして、気付いたんだ。僕は、総兄が茶を点てる姿が好きだったってことに。
総兄が中学の頃、僕はまだチャンバラごっこが大好きな幼稚舎生だった。
僕に一服点ててくれたことがあって、あの時、僕はお友達のゲームが羨ましくて、心にもない口喧嘩までしてへこんでいたんだ。
どこで知ったのかわからないけれど、そんな僕に総兄は言った。
「お前に心があるように、誰にでも心があって簡単に動かせないよな。
でも、誠意ってのは通じるんだぞ。
相手の気持ちに立って考えてみると、嫌な思いも軽くなんぞ。
嘘だと思うんなら、やってみろよ。」
そうやって、わかりやすく茶道の精神 『和・敬・清・寂』 の入り口を教えてくれたんだろ。
そして口をつむると、棗を清め、茶杓で掬った濃緑色の粉を大事そうに茶腕に入れた。
とっても大事な宝物のように。
白い開襟シャツから伸びた腕で柄杓を手に取り、スーッと風炉のお湯をくんで茶碗に湯を注ぐ。
そして、別れを惜しむように、丁寧に湯をきり柄杓を置く。
そんな一連の流れが、音符のように繋がって、子供ながらとっても優雅に見えた。
総兄って超かっちょいい!って思ったんだ。
僕が中学時代を振り返っても、そんな風に子供を感動させられたとは思えない。
だから僕は、まだ総兄が茶道の世界から離れることが信じられないし、許せないのかもしれない。
シアトルでの日程と詳しいスケジュールは、シアトル支部執行部と直接話がついており、それにただ従っていればいい。
総兄と打ち合わせを名目に、こうして代行の動行を知らせるのは、無意識に繋ぎとめようと思っているせいかもしれない。「総兄、それじゃあ、聴講生の中にはその親とかもいるっていうことだよね?」
「ああ、通訳がつくが、余り詳しく話すより比喩を使ってイメージをとらえてもらうように話すといい。」
「うん、その後に実際、作法を見せるしね。」
「そうだ、牧野を連れて行けよ。
あいつに点前をたてさせて、お前が説明すればいい。」
「牧野さん?」
「ああ。」
「・・・・。」
「あいつにとっても、いい勉強になるし一石二鳥だろ。
シアトルだし、・・・ククッ、張り切ると思うぜ。
口説き落としてみろよ。」
その時、総兄の恋慕の外枠さえわからず、いや計れたとしても僕にどうすることができたろう。
結局、協力を惜しまない気でいた牧野さんは、「いい夏休みになる。」と同行に快諾してくれた。夏のシアトルは、日本ほど湿度が高くないこともあって、朝の散歩が格別に気持ちよく、二人でしゃべりながら散歩を楽しんだ後、朝食をおいしくいただいて、フレーバー・コーヒーの甘い香りに外国の開放感を楽しんだ。
牧野さんは英徳大学を卒業しただけあり、日常英会話レベルでは危なげなく頼もしい助っ人となり、僕の初めての挑戦はさわやかなシアトルの思い出の1ページとなり無事に終わる。帰国後、牧野さんの評判を耳にした親父は、正式に牧野さんの専任講師研修参加の推薦をし、家元から直々声がかかる意味に怖気づけながらも応えようと頑張っている彼女。
「私が茶道の先生の資格取るなんて、ありえないよね~。」なんて言いながら、いつの間にかこの西門流の渦に取り込まれているのをどんな思いでやり過ごしているのか。
僕達二人は商業イベントやセミナーでタグを組まされることが増え、門下生達の間で二人が家元公認カップルだとの噂がひろまっているらしく、ギョッとした。
しかも、宗家側つまり僕の母親等はそれも想定内のように受け止めているのだ。
総兄が何か親父に頼んだのだろう・・・な。
僕にとってみれば、牧野さんと一緒に仕事をするのは、当然楽しい。
彼女の着物姿や色んな表情を、ゆっくり眺められるし、僕のテリトリーの中にいると思うと、面映(おもはゆ)くなる。
僕の指示に従う牧野さんは可愛くて、そのまま抱き寄せ僕の手の中に閉じ込めたくなるのはちょっと困る時もあるけど。
野朗ばかりの研究室を離れ、疲れた神経を癒してくれるのは、鮮やかな牧野さんの笑顔で。
仕事へ向かうモチベーションの触覚を立ててくれるのは、牧野さんの伸びやかな声と微かなシャンプーの香りで。
僕に頑張りをくれるのは、ガッツのあるその瞬発力で。
側にいる牧野さんの存在感がどんどん膨らんでいく。
興味からマジ恋へ、そして離れたくない女性へ重要度が増してきて、これ以上進むとコントロールが効かないと黄色信号が点滅し始めた。総兄が戦線離脱している中、勝手に盛り上がるのはさすがに後ろめたく、一人相撲するには僕は誠実すぎるのだろう。
冷静になって、牧野さんとのことは進めるつもりでいるのに、僕の心配を他所に益々二人で過ごす時間が増えて、いろんな牧野さんを知れば知るほど総兄のことを忘れ、走って行きそうになる。「今日も総兄に会っていくの?」
「うん、まあね。でも、また会えないよ、きっと。そんな気がする。」
しょんぽりと答える牧野さんに、なんて慰めてあげればいいのかわからなかったけど、
「この時間は、庭に出てくることもあるよ。」って教えてあげた。
総兄の部屋に立ち寄っても、会えない事が多いのだと悲しそうな顔を見せる牧野さん。
「元気になってくれるって思ったのに、やっぱり、無理なのかな~。」
「無理?」
「もう前の西門さんじゃないのかな~。ふぅ~。」
事故の責任を感じて、友人として純粋に、そして、異性としても・・・色んな角度から総兄を思っているのだろう。
大きな溜息を吐いて、ダイニングテーブルに突っ伏す牧野さんの黒髪がテーブルにタラリと落ちて両頬を覆い、
すごく華奢な肩が僕の目の前に現れた。
こんなに小さな身体で健気に頑張っているのに・・・。
今すぐ回りこんで、肩を引き、頭ごと大きく包んであげたいと思った。
僕は右手で、タラリと落ちた黒髪の束を耳に掛け、頭頂部をゆっくり撫でてあげた。
ややあって、ヌクッと起き上がった牧野さんは、はにかんで笑っている。
思わず触れた牧野さんの艶やかな黒髪の感触を右手に感じながら、僕も照れくさくて笑って誤魔化すことにした。「おっ、二人で打ち合わせ中?」
「西門さん!!」
松葉杖をつきながら、ダイニングへ入ってくる総兄と目が合って、なんとも言えない気分がした。
「牧野さん、なかなか総兄に会えないってボヤいてるよ。」
「ちょっと、周くん!」
「後から総兄の部屋に行くつもりだったんだよ。まさか、寝たふりするつもりだった?」
僕は、意地悪く言ってやった。
でもそれには何も答えず、ジロリと僕を一瞥した後、思い出したように牧野さんに話しかける総兄。
「牧野、高校の接遇研修で講師したらしいな。」
「え?うん。そんなことになっちゃって・・・・。でも、周くんもいてくれたから落ち着いて出来たよ。」
「頑張れよ!数をこなしていけば、牧野ならそのうち余裕かますんじゃねえ?」
「そんなに、神経、図太くありません。」
「そ?わりぃ、今からちょっと出かけるから。またな。」
そういい残し、キッチンへ上手に松葉杖を使って入っていった。
僕はその時、総兄が出した結論をまだ知らなくて、まだ戦闘中だと思い込んでいた。
つづく -
shinnjiteru46 46.
ねえ、どうして?
あの日の瞳は錯覚じゃなかったよね。
熱く求められて、揺さぶられた。
西門さんが戻ってきたって思ったのに。
勘違いなんかじゃなかった、そうでしょ?
ねえ、どうして、西門さん
目を合わせようとしなくなったよね。
何が怖くて、背を向け逃げようとしてるの?
ねえ、西門さん、心をひらいて。
私に向かってきてよ。
ねえ、どうして、西門さん。
私を避けるの?茶事の打ち合わせやらで西門邸に出向くことが増え、すぐに昔のように楽しく会話できると期待していたのに。
会えたのは2回に1回程度。
更に3回に1回まで断わられ、それでも何も気付かない振りをし続けた。
季節は猛暑をようやく乗り越えたと思うと、いきなり肌寒い朝を迎え、夜が長く感じる季節が始まっていた。
また、衣替えか・・・。
その日、西門さんは不在だった。
留守であれば仕方ないと踵を返すと、いつもの仕え人が小さな声で背中に声をかけてきた。
背中に届いたそれが空耳のようで、振り返るともう一度同じ言葉が耳に届く。
“牧野様、ご伝言も控えさせてください。”
頭をもたげている。
驚いて訳を尋ねると、
“総二郎様は、もうここには居らっしゃいませんから。”
と固く口を一文字にさせたまま、さらに頭を下げられた。
居ない?何も言わずに、どこかへ行った?
つまり、姿を消したということ?
“すみません、何も伝えられないことになっているんです。”
と首を振る仕え人の声が遠くなり、其の後、どうやって自宅に戻ったのか記憶にない。薄々気付いていたこととはいえ、やっぱり私は西門さんに避けられていたと叩きつけられたようで悲しくて涙もでてこないほどショックだった。
最後に交わした言葉は、「お前はお茶を頑張れよ。」だ。
それが、さよならの挨拶代わりだったの?
あんまりだよ・・・西門さん。
結局、全て一人で悩み完結したということ。
急いで走りこんで、出した答えがこれなら、つくづく呆れてしまう。
なんて自分勝手で意固地な馬鹿野朗なの?
いくら考えても納得いくどころか、だんだん腹が立ってくるよ。
そんな奴、もう知らない。
もう、こっちの方から願い下げだ。
『 忘れてやる。 』
その晩、初めて自棄酒とやらに頼ることとなる。
買い込んで来たワインと日本酒を、つまみを入れることなくガブ飲みした。
もうこの身体など、胃炎になろうが果てはアルコール中毒になろうが、もうどうなってもいいと思った。
ついでにあんな勝手野朗のことなんか、頭の中から放り出せればこんな悲しい思いもしなくて済むし、せいせいする。
どんどん飲んで脳までお酒に漬かれば、頭に浮かぶ西門さんの残像や心に残る言葉や甘い香りも、何もかも忘れてしまえる。
味もわからなくなってきた。
グラスの液体が、この部屋からなくなるまで飲み干すつもりだった。Trurururuurrururururururru・・・・・・・
目の前で青い光が点灯し、ネオンのような綺麗に滲む光をつかむつもりで、ボタンを押す。
「もしもし・・・」
男?
「もしもし、僕、周ですけど・・・。」
「周・く・・ん・・・?」
「もしもし??牧野さん?」
「ふ・・・ん~・・、わたしだよ~。」
「・・!・・ちょっと、大丈夫ですか?」
「・・・。」
酔っ払いすぎて、喉が痺れて声がすぐに出てこない。
「酔ってる?・・・相当、飲んだりした?」
「ふっ・・・ん、まっね、こんな日もあるさぁ~。」
頭が重くて、視界が下がってきて、
いよいよ声がだんだんフヤケて小さくなっていく。
「今、家ですよね?20分で行きます!」
ブチッ・・・。
言葉どおり急いでやってきた様子の周くんが玄関に立っていた。
「しゅ~うく~ん、今から・・付き合って・・くれるの?それとも・・ヒック、止め~にきた~?」
「・・・・・。」
「怒ん・・ないで・・よぉ~!」
「心配で来てみれば・・・、牧野さん、一体何本飲んだんです?ワインと?日本酒も、うわっ、3カップも空になってる。
無茶ですよ、いっぺんにどうしてこんなに飲んで・・・、意識失ってそのまま倒れたりしたらどうするんですか?」
「周・・くん・・だけだよ~、そうやって・・、心配してくれて・・・サンキュー、サンキュー♪」
僕がかけつけると、しどけなく背中を曲げながらしどろもどろに話をし、完全に目が座っている牧野さんがいた。
こんなに乱れた女性と二人きりになったことは無かったし、ましてや憧れの牧野さんなのだから、どうしていいか混乱して、しばらく玄関に立ちすくんだまま棒立ちとなる。
頭に浮かんだのは総兄のこと。
胸ポケットから携帯を掴み実家に電話した。
家の者に2・3尋ねると、やっぱり思ったとおり牧野さんは今日あのことを聞かされたようだ。
遡ること1週間前、親父と母親から茶室に呼ばれ、お茶を点てるように命じられ、一服すすり上げた親父の口から総兄の話がでてきた。
「代々世襲制で継承しているのは、今さら説明するまでもないな。
( 中略 )
周三朗、お前は三男で、まさかこんなことになるとは思っていなかっただろうが、これも人生、受け止めてもらえんか?」
「総兄は、どうしても・・・だめなのでしょうか?」
「う・・・む、残念だが、何せ正座できないことには示しがつかない。
あいつは、小さい頃からトップの立場としての責任感を人一倍意識しておったからな。
一番自分が許せんのだろう。」
「僕は、研究をあきらめられません。でも・・・、ちゃんと考えますから時間を下さい。」
「ふむ、それでいい。
まだまだ、わしは元気だ。たっぷり考える時間はあるぞ・・・ふっ。
そのくらい骨太でなけりゃ、この仕事に心血は注げん。
研究の夢をあっさり捨てるのも情けないこと。
普通の親なら、自慢の息子として研究を応援してやれるものを・・・。
だが、言っておくぞ。
これは私の口を通してご先祖様が言っていると思って、肝に銘じて受け取ってくれよ、
“周三朗、もうお前しかおらんのだよ。”
よくよく、考えて返事してくれ。」
「はあ、わかりました。」
「それと、もう一つ。
総二郎は、この家を出て貴子の実家に世話になるそうだ。
静かに色々考えたいと相談されてな。」
「出るって、どのくらい?」
「それは、わしにもわからん。
何ヶ月になるか何年になるか、あいつなりに納得いくまでだろう。」
僕は沸騰しそうになる気持ちを抑えながら、その足で急いで総兄の部屋へ向かった。トントン・・・
「僕だけど、入るよ。」
そして、いきなり言葉をぶつけた。
「牧野さんの勝負はどうするつもり?
僕は何年も待てないよ。」
「周、前にも言ったろ。
お前には、この西門を盛り上げていって欲しいと思ってる。」
「総兄は、それでいいの?
お茶も牧野さんのことも、簡単にあきらめられるの?
牧野さんだって、少なからず総兄のことを想ってるんだよ。
そんな中途半端なまま、姿を消されたらこっちも迷惑だよ。」
「簡単にこんな結論を出せるはずないだろうが!
毎朝、目を開けたら事故は悪い夢で、左足はピンピンしているんじゃないか?って期待して、
急いで布団をめくれば、視界に飛び込んでくるのは包帯がグルグル巻きのこの使えない足だ!
朝っぱらからどん底へ落とされ続けて、それがどうしようもない現実で、もうつくづくどうしようもないって身にしみてきたよ。
体験した者にしかわからんさ。
牧野と暮らす?
それは、現実でなく夢だ。
お前に牧野を譲るなんて言葉はおこがましい、でもなぁ、俺は降りるから。
あとは、お前の好きなようにしろ。」
今までの生活を全て断ち切ることを決めた総兄。
心の中では、そんなのおかしいって叫んでる。
けれど、自分の先行きさえ決心し兼ねる僕は、総兄に向かう術を持たず脆弱過ぎて、太刀打ちできなかったのだ。
つづく -
shinnjiteru47 47.
牧野さんは、ちゃぶ台に片肘をつき、空いた手で誘うようにヒラヒラ隣を指している。
僕はとりあえず、泥酔の牧野さんが漏らしていく愚痴と本音を選別しながら受け止めることにし、上手く収拾できればいいと思った。
「周くんは・・・いつから、ヒック・・知ってた~?あの馬鹿野朗がさぁ~どっか消える・・・ってのを?」
「そんな前じゃないよ。」
「行き先・・・知ってるんでしょ?」
「・・・。」
「・・んふっ、また、口止め?・・口は・・災いのもと・・だもんねぇ~。だんまり・・・ね。」
「・・・・。」
牧野さんから離れたかったんじゃない?って喉まで出掛かったけど飲み込んだ。
「はぁ~。
・・・んっもう、ホントに・信じらん・・ない!
もぉ~優しさのぉ・・・、欠片(かけら)もないね?あいつは~。
ねっ?・・そう、思うっしょぉ~~?」
「相当苦しんだ末、出した結論だから。」
僕がそう言うと、待ってました!とばかり、身体を重そうに支えながらパッと顔をあげた。
「苦しんでた~?
んじゃあ・・・な~にぃ?周くんはさぁ~、ヒック、私が何にも、苦しんでない・・っていうのぉ??
ど~んだけ、心配したのかぁ・・わかってるっしょ~。
ああいう奴を、・薄情もん!・・っていう・・。
・・ウフッ・・違うね・・軽薄よ~!軽薄もんってんだぁ~!!ヒック。
んふぅ~っ、むっかしから、そうだったよ・・・牧野つくし、今、納得・・しました!
っへへへ・・・ふぅ~ん。
キレイな女の子ぉさぁ~、取っかえ引っかえ・・して、ジゴロだったもん~なぁ。
女を、なんだと思ってやがるぅ~?あんのやろ~ぅ。
・・えっと、ここに可哀想な・・周くん~がいますぅ~。
せっかいいち・・軽薄野朗っ・・が・・お兄さんなぁのぉ~?
っははは。」
話はアッチャコッチャ飛んで支離滅裂。
まあ、酔っ払いの戯言と聞き流すには総兄が少し可哀想だし、西門兄弟のプライドも形無し。
けどケチョンケチョンにポンポン言う女性って、むしろ、感情に率直で悪くないと思いながら聞いていた。
そんな牧野さんをどうやって宥めようかと試案していると、ふと、牧野さんと目が合ってドキリとする。
牧野さんの瞳は、酔いのせいか潤い豊かに揺れていて、たじろぎもせず懸命に僕を見つめていた。
まるで射程内の小動物を逃さないよう、そっと近づき、いつの間にか覗いていたみたいに静かにじっと。
それでも、大きな黒い瞳はいつまでもそこに残りそうな強さを呈している。
僕は、とたんにドギマギした。
牡丹のような赤みの唇を半開きにし、僕をもの言いたげに見つめているのだ。
見ようによっちゃ、これって妖しく誘っているようでもあり、自ずと鼓動が早まり、雄モードとの境界線上で途方に暮れる。
でも、天地がひっくり返っても誘ってくるはずないし・・・。
素面(しらふ)で冴えてるはずの僕が、どうすりゃいいのか思考はほぼ停止の役立たずで、勉学が何の足しになるか分厚い本を放り投げたい気分だ。
じっと見つめられ、とうとう僕は無意識に、その艶やかに光る唇へ身を乗り出してしまった。
そうすることが、その場で一番自然な行為だったのだ。
チュ・・・軽く、けれども短くはないセクシャルなキス。
柔らかな唇が触れるやいなや、テーブルがなければそのまま押し倒して、嫌がるまで進んでいたと思う。
「西門・・さん・・。」
はぁ?
総兄と間違えてる?
「手を・・貸して・・・。」
「手?」
なおも、じっと真正面から僕を捕らえて誘ってくる瞳。
「ねえ、牧野さん、僕は誰?」
少し顔を近づけて聞いてみる。
「・・・周・・くん・だよ。」
僕は安堵の溜息と共に左手を差し出した。
すると、牧野さんは僕の左手を両手でつかんで、手のひらを下に向けテーブルに置いた。
そして、まるで枕のように僕の手の甲に右頬を載せると、幸せな少女よろしくスーッと目を瞑り、眠りに落ちたようだ。
眠った?
僕の左手を枕代わりにして?
こんなの初めてのことで、正直ウケる。
想定外の流れに、戸惑うよりも久しぶりに胸が高鳴り、嬉しかった。
正真正銘、この気持ちは・・・『僕は恋してるんだ』って、賞品が当たって轟くような鐘音が頭の中で激しく鳴っている。
牧野さんの寝顔を眺めながら笑みがこぼれる。
きっと、酔いのせいで僕と総兄を混濁したのだろう。
それでもいい。
このおかしな姿勢のままでも、朝まで触れていられるなら嬉しかった。
これが牧野さんにできる精一杯の心の解放だと思うと、柔らかな頬が触れる場所が温かく感じられ、牧野さんが愛しくて、僕の保護本能がムクリと起き上がる。
僕が、牧野さんを守ってあげよう。
総兄のことを忘れさせてあげる。それから、僕は遠慮なく牧野さんを連れ出すことにした。
再びスノボーに誘い始め、ともに汗を流した後は、スポーツショップを回って飯を食う。
牧野さんの仕事に役立ちそうなセミナーは残さずチェックして、可能な限り僕もついて行った。
お稽古は、僕が引き継いで見ることになり、茶行事では牧野さんを積極的に付随させ、周囲の視線を肯定するかのように振舞った。
時には、西門の名を使い、人間国宝の能舞台チケットを取って出かけたこともある。
僕の生活は、依然として二束の草鞋を続行していたため、多忙の極みであったが、睡眠を削っても、若い僕はビクともしなかった。
『健気に頑張る牧野さんを支えられる男になりたい。』
そんな思いが僕を強くさせ、やる気をあたえる。
毎日が楽しく充実していることに更なる喜びを感じ、歯車は大きな修理を終え再び上手く回り始めているかのようだった。
牧野さんも、まるで当然のように誘いに乗って付いてきてくれて、笑顔もみられるようになった。
総兄の後釜として牧野さんを指導しているうち、ひょっとして、僕を学生じゃなく大人の男として見てくれてるんじゃないかって思える瞬間もあり、もしかしたらと期待してしまう。
総兄には悪いけど、いなくなってくれて、初めて僕をちゃんと見てもらえた気がする。
穴を埋めるのは、仕事も牧野さんの心も僕しかいないということか。
『歳月人を待たず』
確実に月日は流れ、総兄が家を出てからあっという間に2ヶ月余りが過ぎ、僕たちの口から総兄の話もあまり出て来なくなった。街には、緑と赤のモールがレース状に飾られ、クリスマス商戦がポツポツ始まりかけている。
ロマンチックな恋人たちの季節にふさわしく、クリスマスの奇跡が起きるんじゃないかと淡い期待を抱いた。
つづく -
shinnjiteru48 48.
会社では毎月新しい企画の締め切りに追われ、こちらの傷心をサメザメやってる暇がなく、かえってそれが心地よかったりする。
雑誌の表紙というのは、「この本は何だろう?買ってみよう。」と購入者の好奇心を煽るものでなければならない。
デスクにある一月号表紙は能面の女系、なかでも若女といわれる一般的に馴染みある真っ白い顔の能面で、
真正面に微笑んでるのか憂いているのか、微妙な表情。
現代風美人顔を大きく選り分けても、こののっぺりした細い目の若女の顔が美しい部類に入るとは到底思えないけどね。
禅の精神や歴史背景が影響しているらしく、能の舞台ではこの面が、美しい幽玄の美を表すというから、日本文化はつくづく奥深いと溜息が出る。
先日は、周くんと国立能楽堂のアニバーサリーとやらで、特別公演初日を観に行くことができ、私にとってはタイムリーな表紙ではある。
けれども、果たしてどれだけの人が興味を引かれるのか大きな謎だ。周くんは、舞台が終わったあと、楽屋裏へ私を引っ張って行き、迷うことなく一つの暖簾をくぐっていった。
まだ衣装のままの役者サンと挨拶を交わす周くんを固まりながら見つめるだけだったけれども、重そうな衣装を身にまとう目の前の人は、先刻、見事な能舞を見せた役者サンで目の縁の極太アイライナーはひどく妖しい魅力を撒き散らし、心を奪われそうになる。
思わず、口を空けポーッとなってしまった。
舞台映えする大きな衣装に負けず、見られる人特有の魅せるオーラを放つ有望な若手の役者サンは、周くんと親しく交流があるらしい。
さすが第十六代西門流の家元を継ぐかもしれない人物、周くんも隅に置けない。
改めて見上げてしまう。明らかに私を誘い、連れ出そうとしてくれている周くん。
いくら鈍な私でも、好意を抱いてのことだろうと察しもつく。
西門流の仕事とあらば、喜んで出かけるし、全くのプライベートでも誘われたら出かけている。
周くんの穏やかな性格と生真面目で誠実なところは、人懐っこい笑顔とはギャップがあり、またそれが彼のいい所だとホントに思う。
代行を一つ一つ立派にこなしていくのをすぐ側で見て、一緒に喜ぶにつけ、私達の間には信頼関係が育っている。
人として、とても好感のもてる人物で、好きか嫌いか尋ねられたら好きと答えるだろう。
西門さんが事故に遭った時、一人が怖かった時、同志のように手を取り合って夜を越したこともある。
そんな彼から好意を持たれてると分かっていながら、プライベートの誘いに乗るのは恋愛ルールからするとYESと言っているも同然かもしれない。
それがわかっていながら、誘われるままでかけているのは、根は秩序よく穏やかな周くんだから、土足で踏み込んで来やしないってわかっているから。
そんな周くんといると、楽なのだ。
いつのまにか、年下の彼に甘えてしまっている。
一人きりじゃないと慰めてくれる有難い存在を享受して、何がいけないのか。
断わることの方が、ずっと面倒くさい事なのだ。
何かと茶行事で顔を合わせるついでなのだし、それもいいのではないかと自分に優しくなるのはいけないことなのだろうか。
西門さんがいなくなって、なんだか、理性のネジが緩んじゃったのかもしれない。
こうしたのは誰?
心当たりの人物は、日に何度も私の脳裏にやって来ては、いまだに府に落ちない行動について一切語らず、私を閉め出し苦しめていく。
平気な顔して過ごしているが、何かが欠損したままアンバランスな自分は、いつになったらシャンとできるのだろう、教えて欲しい。
私は、そんなに強くない人間なのだと思い知る。すっかり陽が傾き、グレイに滲み始めた夕暮れのビル郡を眺めた。
精一杯働いて、疲れきった日暮れが、夜の闇との交代を静かに待っている。
私は、机に視線を戻した後、渋谷の写真スタジオへ寄って、直帰する予定を入れた。渋谷の街に入ると、とたんに若者がどっと増えて、肩に力が入ってくる。
髪の毛をまっ茶々に染め、細い腰をくねらせながら歩く09店員風のお姉ちゃん。
ホストかと見間違う長髪に、片側だけのピアスをキラリと光らせながら歩くイケメン風男子。
雑誌から抜け出してきたような、お洒落でスタイル抜群のカップル。
見るからわかる外国人や日本人離れした風貌の若者。
そして、くたびれたサラリーマンとパート帰りと思われるオバちゃん。
スクランブル交差点では、誰ともぶつからないよう視野を広げて、ちゃんと歩かなければ、運が悪けりゃ、理不尽にどやされるかも知れない世知(せち)がない居心地悪さを感じる。
そんな渋谷も、師走の声を聞くやいなや、クリスマス商戦を始めるのは地元商店街と変わらない。
競うようにクリスマスの飾り付けを大っぴろげに始めた街は、気の早いクリスマスソングさえ聞こえてくる。
去年、クリスマスイルミネーションで輝く渋谷のど真ん中を、西門さんと歩いた。
あの時は、不安になんてちっとも感じなかったのに・・・。
誰かとぶつかって運悪く因縁つけられても、西門さんはきっとスマートに対処してくれたに違いない。
あの頃、まだ道明寺と付き合っていたんだ。
NYの彼とデート出来ない私にとって、夜の街を男の人と歩くなんて久々で、
すれ違う女の子たちの視線がちょっぴりくすぐったく感じた記憶が蘇る。
そうだった。
背が高く、カッコいい西門さんと一緒に歩くと、まるでクリスマスマジックをかけられたみたいに、乙女心が出たり入ったり忙しかったんだよ。あの日の後姿は目に焼きついている。
夕食を食べて店から出ると、外気はとっても冷えていて、私はラッコのように両手をこすり合わせて息を吹きかけた。
そんな私の前を、冷気を意に介さずに歩く西門さんの革ジャン姿。
さぞかし暖かい上等なものなんだろうって思ったよ。
それに、渋谷のクリスマスイルミネーションに馴染む後姿が格好良く見えて、不覚にも胸がキュンとしたわけで。
「俺は、手をポケットに突っ込んでおくから・・・。」ってグレイの手袋を私に差し出す西門さんの瞳の色が銀色めいて、いなや、ドクンと大きく心臓が鳴ると同時にしばらくフリーズしたまま見上げていた。
昨日の事のように姿が浮かび、胸が熱くなってくる。
ドキドキ心拍も上がって、鼻の奥がツンとしてくる。
『西門さん・・・今、どこでどうしてるの?』その時ふと、黒い革ジャンの優男(やさおとこ)がポケットに手を突っ込みながら横切る姿が視界に入り、一瞬心臓が止まりそうになる。
必死で目で追い、視界から外れないように、足早に追いかけた。
でもすぐに違いに気付いてしまう。
西門さんより背が低い。
胸の高鳴りが吐息に変わる。
さらに、西門さんとはちがう頭の形に気付いて、足運びから力が失せた。
そして、チラリと見えた横顔は、まるっきりの別人顔で、それが悲しくて深呼吸した後、馬鹿みたいっと呟いた。
けれど、足はまだ止まらない。
視線の先は遠くなる後姿を追いかけたまま、名残惜しげに見つめてしまう。
『西門さん・・・ホントにどこ行っちゃったのよ?』
渋谷の街で、目に涙を滲ませながら歩く女は目立つのだろうか。
二人組の若い男が、ジロジロ、無遠慮に眺めながら行き過ぎた。
ツーッと頬を伝う涙はクリスマス・ネオンの色を反射しているはずで、クリスマス前に男に振られた可哀想な女と見えたのだろう。
そんなに惨めじゃないよ。
でも悲しい。
『西門さん、救い出してよ。』こんな場所から早く離れたくて、自然に恵比寿の方へ足が向く。
だんだん人影が少なくなり、落ち着いた大人のお店が目に付くようになる。
バサッと私を拒絶して、胸の内を語ることなく去ってしまった勝手野朗を許せないし、薄情な奴だと思うのに、毎日思い出すのをどうしてくれよう。
自棄酒に溺れても、仕事に精魂こめても、周くんと遊びにでかけても、西門さんの影が消え去らないのを一体どうしたらいい?
忘れたい奴なのに、たった今も幻想を追いかけてしまった。
『・・ったく、どこまで出てくる気?ホントに勝手な奴・・・。』
逃げて行ったのは私じゃないのに、いつまで振り回されればいいの。
そう思うと余計に腹が立つ。
思い出すたび腹が立つのか、腹が立つたび思い出すのか順番ははっきりしなくなったけど、腕の産毛が逆立つほどとにかく腹が立つ。
そして、ふわりと心に浮かんでは煙に巻いたように消えていくのは、西門さんの暖かい背中と銀色のあの瞳。
いつもセットでやってくるのだ。
「俺と付き合わない?」といってくれた真摯な瞳は銀色めいて、深層心理の奥のほうに住みついていたとは気付かなかった。
またあの瞳が見たいよ。
茶碗の話やバイクの話、女の子の話でも私をからかっても何でもいいから、すっと消えてしまわない本物の西門さんに語りかけてもらいたい。
あの声をもう一度聞きたい。
あの香りにもう一度包まれたい。
『会いたい。』
会いたくても、会わないつもりの相手とどうすれば会えるのか。
でも、私は西門さんに会いたい。
どうしようもなく会いたい・・・。
恵比寿の街は、ポロポロ涙を流しながら歩いても、そっと見守る優しさがある。
堪えきれない涙はもう誤魔化しようも無く、私の気持ちを気付かせた。
『私は西門さんが好きなのだ。』家に帰ると、ダイニングテーブルに置かれた黄色い兎が、可愛らしくちょこんと座って主人を出迎えてくれる。
中には伽羅の香木チップを入れていて、部屋には陽の空気と落ち着いた香りを運んでくれているはずだ。
黄色い兎に向かい、ただいま!と小さく言うのも習慣になってきた。
“ほら、牧野みたいだろ。大きな目を見開いて、小っこいくせにピョンピョン飛び回るところとか。”
西門さんがそう言って、黒檀のテーブル越しに微笑んでたのは、水戸の帰りだったね。
こんな動物に見えてたんだ。
そりゃ、でっかい西門さんからみれば、私は小っちゃな小動物ですよ。
西門さんがいなくなって気付いたよ、その存在が私にどれだけ影響を与えて大事なものだったのかと。
例え、どんなに変わってしまってもやっぱり西門さんに会いたいのだ。
師として友人として大切な人であり、女25歳にして、理屈ぬきで引き寄せられて仕方ない男なのだと思い知った。
つづく -
shinnjiteru49 49.
この家の敷地に入る度、日本家屋の静かな佇みと造られた季節のしつらえが、西門流という大河の存在を厳かに語るようで、その岸辺に足を踏み入れたという気持ちにさせられる。
ひんやりとした師走の空の下、お稽古の時間に少し早すぎる時間、こうして通用門をくぐり、足を進めるのも決意あってのこと。
庭園の寒椿は、濃緑を背景に、引いたばかりのルージュのような紅を鮮やかにさしている。
そして、その奥に目的の人物を見つけた。
朱と茶と黒の色調で、全体的にこまやかな色柄の更紗の着物。
単調な冬の庭に馴染みながらも温かなぬくもりを感じさせる置物のようだ。
近づく私の足音には気付かず、一心に五部咲きの蝋梅の手入れをしているその人へ、そっと声をかけた。
「あのぅ、西門のお母様。」
「あら、牧野さん。今日は、お稽古?」
「あっ、はい。周三朗さんに教えていただく予定です。」
「そうよね。
それで、周三朗はお茶の先生としてどうかしら?
総二郎に比べて、見劣りしてしまう?」
「えっ?とんでもない!
周くん、いえ、周三朗さんは教え方もお上手だし、いつも立派だって思っていますから。」
「うふっ、そう?なら、西門も安泰かしらね。」
そう言いながら、白く細い指で蝋梅の枯れた葉を一枚爪弾いた。
「あのぅ、今日は折り入って、お願いがあるんです。
西門さんに会わせていただけませんか?お願いします!」
振り返って私を見つめる瞳が、とたんに悲しそうな色に変わる。
「牧野さん、総二郎の苦しみやつらさを取り除いてあげたくても、そんなこと私達にはできないのよ。
例え、同じ症状になって総二郎に近づいても、自他の違いの前で足踏みするだけよ。
本人が七転八倒して乗り越えるしか再生の道は無いの。
いつ・どんな風に立ち上がって、これからの人生をどう生きるか、私たちは見守ってやるだけしか出来ない。
この蝋梅の蕾を同じように世話しても、全ての蕾が見事に花咲くとは限らないように、
人間も生まれつきの運勢・生命力があるでしょ。
タフな人間もいれば、そうでない人もいて十人十色だものね。
総二郎を信じて待っていましょう。
母親として不十分かもしれないけど、今は望むようにしてやりたいの。」
言葉をそこで区切り、目線の先は私を通り過ぎた後ろへ移動する。
心労の挙句たどり着いた胸の内をもらし、そこには、息子を想う母の情愛が感じられた。
人情より理知が優る母親が表わす母性は、冷たい美しさの中に灯る永遠の温もりのようだと思った。
「何もしてあげられないのは、わかっています。
でも、どうしても会いたいんです。」
西門のお母様は小さく溜息をついて、再び口を開いた。
「加害者はトラックの運転手。
牧野さんが責任を感じる必要はどこにもありません。
貴方が自分の中の罪悪感を消せないのであれば、ここで西門の為に助力下さい。
どういうつもりで総二郎と会うつもりかわかりませんが、残念だけど、私からは教えてあげられないわ。
あの子がここを去って一人になりたいと思ったのは、貴方を含めたこの場所から離れたかったってことに間違いないのだから。
ごめんなさいね。」それでも、ひつこい蝿のように、私は引き下がらなかった。
「でも、私、私、どうしても西門さんに伝えておきたいことがあるんです。
ほんの少しの時間でも、ちゃんと西門さんに自分の言葉で伝えたくて。
西門さんがいなくなって、初めて自分の気持ちに気付いた私って、ホント馬鹿で頓馬で・・・いい歳して、これまで何見てたんだろう?って、やりきれないです。
始まりがあったかもしれない時には気付いてなくて、無駄に過ごしてきた日々を後悔ばかりしてます。
今ならちゃんと胸張って西門さんに返事できるから、遅くなったけど、気持ちを伝えたいんです。
西門さんがどんな身体になっても、受け止められます。
この気持ちはきっと変わらないって神様にだって誓えます。
だから、お願いですから、教えてください。
西門さんはどこにいるんですか?」
「返事?それって・・・。」
「それは・・・聞き違いかもしれないんですけど。」
「総二郎から告白でもされた?」
小さくコクリと頷いた。
「そう・・・。」
西門のお母様は、頷きながら考える素振りを見せ、ややあってから口を開いた。
「牧野さん、今日のところは引いて下さらないかしら。
これは母親の突っ張りなのかしらね、それとも、私が不器用なだけなのかしら。
これでも総二郎の将来のこと、親なりに覚悟をしていたせいか、気前よく牧野さんを通してあげるには抵抗があるみたい。」
「・・・っ?!」
「別に牧野さんだからって訳じゃないのよ。
いやぁね、息子を取られるわけでもないのに、ふっ。
こんな気持ちになるなんて、思ってもみなかった。
少し考える時間をいただけないかしら?」
お母様は、西門さんがニヤリと笑ったような余韻を残して微笑んだ。この時期、茶室では炉から立ち昇る潤いが室内を柔らかくし、優しく包みこんでくれる。
割り稽古では、炉の柄杓の扱いを重点的に習った。
柄杓の露を畳にこぼしがちな私の為、周君がすぐ側まで歩み寄り、手取り足取り教えてくれる。
「大丈夫、そこで、思い切って!
手首でなく肘で扱うのを、身体に覚えさせるように。
こぼれるかもって不安に思うと、動きが小さくなって、全体的にだらけてくるから、
サクッと竹を切るように、すがすがしく!」
総兄に頼まれたから責任があると、それはもう丁寧に教えてくれて、有難くって周くんに足を向けて眠れないと思う。
香りが届く至近距離で、私は周くんを盗み見た。
熱をいれて教えてくれる周くんは、手元に顔を向け、西門さんより少し色素の薄い前髪をはらりと額に落とし、西門さんより少し高い声で私に教えを施す。
濃紺の紬とその下に少し見えるねずみ色の長襦袢、V字型に切り取られた肌は西門さんとはどこか違う・・・。
今日は西門さんと違う点を捜してばかりなのに気付き、愕然とした。
何より決定的に違う香りがどうしようもなく、鼻腔をくすぐり、胸の中で渦巻いた後、涙腺を熱くする。
鳴りをひそめていた感情は、否応もなく五官の記憶によって押し広げられ、会いたい思いで胸が焦がれて苦しいほどに。
あの香りが恋しい・・・そう、耳元で囁く声がこだまする。
まるで周くんそのものを表しているかのように、ユニセックスでさわやかな柑橘系の香りは大好きだけれど、違う、違う、違うのだ。どうにかお稽古が一通り終わると、周くんがお茶を私に点ててくれた。
「牧野さん、疲れてるみたいだから・・・。」
そう言って、一服ご馳走してくれる周くんだって、相当無理してるんじゃないの?
多忙の余り、周くんが倒れたらどうするのよ。
私の心配を他所に、流れるような所作は美しく、いつのまにか引き込まれ食い入るように見とれてしまった。
老若共に許される濃紺の紬を周くんが着れば、こうも若々しい色目だったかと知ることとなり、ピンと伸びた身ごろはしなやかに伸びた腕ときれいな指先を軽々と司(つかさど)りつつ、全ての道具から重力が消えたような、思うままの伸びやかさを感じさせる。
川の流れにも似た無理の無い動線美をみていると、心のざわめきが千々に散らばり消えていく。
絡んだ糸がするりとほどけていくような気持ちのよさを感じる。
『炭は沸くように置き、花は野にあるように』
茶祖・千利休が心得として、そんな言葉を残していたっけ。
棗を清めた後、紫色の袱紗が再びタラリと解かれ、小波(さざなみ)をたてる。
さばき直された袱紗で茶杓を丁寧に拭き清める周くんの横顔。
額にかかった前髪の下、睫毛が揺れると釣られるように繋がる鼻筋に釘付けになった。
見覚えのある鼻筋は不思議なことに、そこだけ兄弟同じパーツがはまっていて、茶巾をつかむ周くんと一緒に、西門さんの幻影が身体を前へ傾けた。
西門さんのお点前姿がスライドのように蘇り、胸が熱くなって今にも口から熱いものが流れ出そうだ。
『大きく三回半』
茶巾を扱いながら、静かに低い声でボソッとつぶやく声まで聞こえると思った時、涙の雫が顎から太ももへポトリと落下した。
透明の液体が浮かんでいたのに、ちっとも気付かなかった私。
「・・・牧野さん?」
周くんは、驚いた様子で手を止める。
「牧野さん、どうかした?」
「ごめんっ・・・。」
ズズッと鼻を啜る音が茶室に響く。
「・・・?」
「周くんを見てたら、西門さんを思い出しちゃってさ。
ここで涙なんかこぼして・・・、今日は感傷的過ぎよね、私。」
周くんは、茶巾を茶碗の中に戻すとすかさず側へやって来て、私の両手首を大事そうに両手でつかむと、自分の方へ引き寄せ、更ににじり寄ってきた。
どこか切羽詰った珍しい勢いの周くんにたじろいだ。
「いつ言おうかずっと考えていました。
多分、今がその時だと思うから聞いてください。
牧野さん、僕は貴方が好きです。
会うたびに好きになって、正直、今だってどう話していいのか戸惑うほど心が震えています。
僕の言ってること、半人前のくせになんて思わないで、ちゃんと聞いてくださいね。
僕は西門を継ごうと思います。
家元なんて腰が引けるけれど、それが僕の責任だし、やってみる甲斐のある仕事ですからね。
これからも僕を助けてくれませんか?
ずっと僕の側にいてください。
牧野さんを絶対一人になんかしませんし、ずっと守り通してみせます。
総兄の代わりに僕たち頑張りましたよね。
一緒に過ごす時間が増えて、僕の色んな部分を見てもらえたんじゃないかな。
少しは、信用できる奴だって見直してくれていたらいいんだけど。
僕の将来にかけてみませんか?」つかんだ手首にムンズと力が加わるのを感じ、力強く真っ直ぐ私を見つめる瞳とかち合った。
いつかこんな日がくると予感していたような気もしないではないけれど、若い力にあふれた熱情をぶつけられ、タジタジしてるうちに飲み込まれそうな気がした。
「ごめん。」
他人がしゃべったのかと思うくらい、咄嗟にこぼれた返事。
「ごめんね、周くん。私・・・、」
「やっぱり、牧野さんは総兄が好きなんだ。」
あくまで紳士的に尋ねる周くんに、私は優しい気遣いの余裕さえない。
「いなくなって気付いた。いつの間にか、好きになってたこと・・・。」
次から次へと零れ落ちる涙が太ももへ落下し、着物に染みが広がるのをじっと見つめた。
堀のような沈黙が流れる間、浮かんだのは周くんと一緒に笑った思い出。
スノボーで転んだ時・シアトルの砂浜でアザラシを見た時・初めて作った茶腕で遊んだ時、健全な楽しさは居心地よく私を笑わせてくれた。
明日から、もうそれを期待できないと思うと、新たな涙が零れてくる。
もし、この世と違う世で出会っていたら、周くんのこともっと好きになっていたに違いない。
「居なくなってから、気付いたのか・・・。きついな、それ。」
私の両手をそっと解放し、苦笑いを浮かべて言う周くん。
「僕も泣きそう・・・。」
え?っと見上げると、透き通るような視線で私を見つめていた。
「周くん、私、周くんのこと、大好きだよ。」
「振られた男を慰めてくれてるの?」
「ううん、そういうつもりじゃない。
本当に大好きなんだよ。」
「じゃ、僕を選んでよ。」
黙って首を横に振った。
「ふう~、だよね。
牧野さんにいい事教えてあげる。
総兄はね、金沢にいるんだ。
会えるかどうか、わからないけど。」
「どうして?
どうして、教えてくれるの?」
西門さんのことは、美作さんやUAEにいる類にさえ口を閉ざされ、今日はお母様に当たって粉々に砕けたところだ。
誰もがそれが一番いい結果を生むのだと行き先については固く口をつむっていただけに、ふいに突破口を与えられ、急な心変わりの理由が知りたかった。
「だって、総兄は西門という一人では抱えきれないくらい大きな物を、僕に押し付けて行ったんだよ。
その上、有能で魅力的な女性まで取られたんだから、それくらい許されるでしょ。」
きっと、私は泣き笑いのひどい顔してただろう。
涙の味が塩辛くて、思わず両手で顔を覆った。
つづく -
shinnjiteru50 50.
小京都というイメージしかなかった金沢。
駅のホームは屋根で覆われ、駅構外も近代的な馬鹿でかい繭に守られているみたいだった。
そうか、これは雪対策なんだと気付いたのは、宣伝の看板に雪深い写真が使われていたからだ。
周くんに教えてもらったお店の名前を告げると、タクシー運転手は慣れた手つきで車を発進させた。
だんだん西門さんの新しいテリトリーに近づいて行く。
ようやく、ここまでやって来れたのだ。
招かざる客の突然の来訪に、「やあ、久しぶり、元気?」なんて軽い会話は期待できないこと、百も承知。
とっくに胆なんて据わってる。
さて、どんな風に突き放されるか。
罵倒されるのか、無視されるのか、いくらなんでも手を上げることはないだろう。
納得するまで、何度でもこの地へ来る覚悟は既にできている。周くんの話によると、西門さんの滞在場所は、お母様のご実家である寛永より続く老舗和菓子屋の離れらしい。
加賀百万石の城下町として栄えた町だけあり、独自の雰囲気が漂う町並みを眺めながらふと思う。
『西門さんは、この町でこれからどうするつもりなのだろう・・・。』
ふいに、西門さんのお母様の言葉が蘇り、やはり会うべきでないかも、引き返すなら今のうちだと囁く自分が現れて、肯定と疑問を交互に繰り返すうち、胃袋の入り口でいたずらにチクチクやり始めた。
『今さら、ウジウジ考えてどうする、つくし!』
胸を張り、深呼吸をし、目を大きく見開いて姿勢を正す。
タクシーは、背が高く真っ白いクリスマスツリーをお洒落に飾っているお店やそんな事よりお正月がやって来るぞと緊張の気配を醸し出すお店が混在する通りをかけぬける。
視界は流れるマーブル模様さながら、何も無かったスクリーンにモノクロのカウントダウンが出てきたみたいに目に飛び込んできて、ゴクリと唾を飲みこみ身構えた。タクシーは行き先を告げただけで、迷うことなくそこへ連れて行ってくれた。
今にも三味線の音が聞こえてきそうな風情ある一角。
まるで、映画のセットにいるような心地がする。
奥ゆかしい日本文化の香りを放ちながら、京都に似て軒の低い建物が、長屋のように繋がっており、新旧とりどりの格子戸がずらりと並んでいる。
その中でも、最も格式ありそうな焦茶の戸前にその店の看板を見つけた。
まるで他人(ひと)様のお玄関のようで、緊張しながら、ガラリと戸を開け入っていった。
「いらっしゃいませ~。」の掛け声に出迎えられ、歓迎されていることにホッとする。
西門さんと会いたい旨を告げると、別のお店にいる女将さんでないとわからないと一枚の案内を渡された。案内どおりに歩いて見上げた先は、お母様のご実家なのだから当然だろうけど、予想以上に立派な店構えの和菓子屋店舗だった。
千石屋の5倍くらいある店舗面積に、正面中央に掲げられた茶色く古ぼけた看板には黒墨で屋号と加賀藩の文字が書かれており、眩しいほど由緒の正しさを誇示している。
女将であろう白地に赤い山茶花が印象的な帯を締めた50代の女性に近づき、声かけた。
「あの、私は牧野つくしと申します。
こちらに西門総二郎さんがいらっしゃると聞いて伺ったのですが、会えますか?」
「失礼ですが、総二郎さんとどのようなご関係の方でいらっしゃいますか?」
「友人です。」
「お友達?そうですか、それはようこそ。
少々お待ちくださいませね。」
そう言って、どこかへ行ってしまった。
しばらくして、戻ってきた女将さんは、西門さんに確認の電話を入れたようだ。
「申し訳ございませんが、あいにく、今日はお会いできないらしいんですよ。
今日は東京から、わざわざ来られたのですか?」
「あ、いえ・・。」
大丈夫ですから・・・みたいな言葉を続けるつもりだったのに、なんだかまごついて途切れてしまう。
「また、日を改めていらっしゃいますか?」
小さく肯定の返事をした。
『今日は会えない。』ということならば、次回は会ってくれるということ。
なんだか拍子抜けした。
けれども、これは余りに単純な発想による糠喜びだったと後から痛感することになる。
西門さんの様子を尋ねると、元気でいるらしい事を知らされ一安心もした。
「お嬢さん、今度いらっしゃる時は、事前に連絡を取っていらした方がよろしいですよ。
総二郎さん、また手術が入ってるそうですから。」
「また、・・ですか?」
「今度は、膝に入っているものの調整だとか言ってました。
年明けの予定だそうですから、またお見舞いに来てやってくださいな。」
明るく言う女将さんへ一礼し、手術・・・手術・・・と呪文のように考えながら、駅へと向かった。次回、金沢へ向かったのは、クリスマスが終わり新年を迎える準備に沸いた最中で、もちろん携帯番号は知らないのでアポ無しの突撃だった。
先日と同じように女将に尋ねると、またどこかへ行って、申し訳なさそうに戻ってきた。
「牧野さん、ごめんなさい。
折角いらっしゃったのに、今から出かけなければならないそうなんですって・・・、病院かしら?」
「会えないってことですか?」
「ええ、そう伝えてくれと。」
「・・・。」
年末で忙しそうな女将を引き止めるわけに行かず、一礼して、後ずさりした。
「牧野さん、家の住所ご存知?」
「え?」
「屋敷が違うところにあるのだけど、総二郎さんはそこの離れにいるのよ。」
逸る気持ちを抑えながら、場所を聞き、急いでその場所に向かった。正門から屋敷の屋根がかろうじて見える程度の豪邸で、お決まりのように見事に手入れされた松の枝が門の向こうでドーンと待ち構えている。
塀は切れることなく、ズズーッと四方を取り囲んでいるにちがいない。
西門邸に負けず劣らずの貫禄に、人知れず溜息をついた後、呼び鈴を押した。
「牧野つくしと申します。
こちらに総二郎さんがいると、女将さんに聞いてまいりました。」
「牧野つくし様ですね?暫くお待ちください。」
ややあって、目の細い使用人らしき女性が姿を現した。
「あの、総二郎様は出かけるご準備でお出になれないとのことです。」
「少しでも会いたいのですが、なんとか取り次いでいただけませんか?」
「そうおっしゃられましても、お断りするよう言われましたので。
申し訳ありません。」
「そうですか・・・。わかりました。」
「あの、何かご伝言でも?」
その使用人は、門前払いが気の毒に思ったのだろうか。
諦め顔の私に声をかけてくれた。
「あのぅ・・・では、また来るとお伝えください。」外と内の境界が、実物より高く感じるのは豪邸の共通点なれど、その高い壁の前で打ち破れた悲しみに背中を丸めながらトボトボ歩いた。
そして、ピタリと歩みを止め、再び振り返った。
私はそこで待つことにしたのだ。
駅へ向かわず、そこが始めから決められた定位置のように。
『出かけるのなら、出て来るはず。・・・なんだか、まるでストーカーだ。』
10分・20分・・・40分たってくると、年末の金沢はカシミアコートを着ていても、足元からジンジン冷えて、もう限界に近いと思った。
その時、正門から向こうへ3mくらい離れた場所から、ゴーッと電動シャッターが開く音が聞こえた。
一台の黒いリムジンがのっそり頭を出し、私のいる所と反対方向へ進んでいこうとしている。
あわてて追いかけると、後部座席に一人座る西門さんの横顔が見えた。
私に気付いた西門さんは、車窓の向こうで驚いた表情をして身を乗り出した。
最後は戸惑いの表情を浮かべる西門さんを乗せたまま、リムジンは止まることなくどこかへ行ってしまった。
『やっぱり、現実は甘くないわ・・・。』その次、金沢へ出向いて行けたのは、初釜が終わりようやく落ち着いた睦月の下旬だった。
その日は朝から雪が降っていて、空も道路もそこら中、雪の落ちる緩やかな回転数で動き、急ぐ者は誰一人いないように思えた。
屋敷の正門は白い冠を載せ、変わらない貫禄をみせている。
「牧野です。西門さんはいらっしゃいますか?」
インターフォン越しに挨拶を交わし、先日もやってきた同人物だとわかると使用人は不可思議なことを言った。
「総二郎様は、ここにはいらっしゃいません。」
「・・・?」
どういうこと?
追いかけられたら逃げるってこと?
猫が自分の尻尾をつかもうと、グルグル回り続ける様が浮かんだ。
瞬時に、現状について猛烈な勢いで頭を働かせる。
やがて、目の細い使用人が現れた時には、まるで100メートルを全力疾走した後のように微かな疲労感を感じていた。
「まあまあ、お嬢さん。傘も差さずに、風邪をひかれますよ。」
雪に慣れない私は、傘に思い至らず家を出て来てしまい、頭にも肩にも正門と同じように白い冠を乗せていたのだ。
「どうぞ、中へお入りください。」
親切なその使用人は、私を玄関へと導いた。
お借りしたタオルで濡れた髪を拭いて、温かいお茶をいただいてもなお硬張った表情をしていたかもしれない。
「ここは古い日本家屋ですから、家の中に段差が多く、総二郎様にはつらいだろうと旦那様がおっしゃられて、すぐ近くのマンションへ越されたんですよ。」
脱力し立ち上がれない私に向かって、ニッコリ微笑みながら教えてくれたその人のお陰で、ようやく手足が温まっていくのを感じた。
「近くですか?ホントに近く?」
「ええ、すぐ近く。こちらの所有する新しいマンションなんで、快適だと思いますよ。」
目の細い使用人の顔が、天使のように輝いて見える。
「教えてください!お願いします。」そこはオートロックシステムの近代的なマンションで、まだ新しい建材の匂いが立ち込めていた。
『316号室』
教えてもらった部屋番号を押してみた。
赤く点灯したランプを凝視し、微かな音も聞き逃さないつもりで息を詰める。
何度も何度も鳴らして待った。
黒いモニターの色は変わらないまま、何も音は聞こえないまま時が過ぎ、管理者への連絡番号を押そうか迷いに迷った末、出直すことにした。来訪者の様子をカメラを通し確認していた居住者は、後姿を見て何を思っただろう。
雪は勢いを増し、しんしんと降り続いていた。
つづく